第11話:狸(たぬき)の恩返し 〜家康の孤独な戦い〜【徳川家康視点】
甲斐の武田晴信(信玄)が駿河へ侵攻したという一報を受け、俺──徳川家康は、激しい焦燥の中で遠江国へと軍を進めていた。
表向きは武田と同盟を結び、今川の領地を東西から分割して滅ぼす約束を交わしている。
だが、俺の本音は違った。
武田の凶刃が届く前に、俺の手で氏真様を確保し、何が何でもそのお命を守らねばならない。
幼少期、人質として駿府に送られ、孤独と恐怖に震えていた俺に、お菓子を与え、優しく頭を撫で、共に庭で鞠を蹴ってくれたのは氏真様だった。
「困ったことがあったら俺に言え」と微笑んでくれたあの人の存在が、どれほど俺の心を救ってくれたか。
あの優しさを、俺は一生忘れない。
だからこそ、武田が駿河へ侵入した直後、氏真様が下された『決断』の報せを聞いた時、俺は独り震えるほどの感動を覚えていた。
氏真様は武田の軍勢と刃を交えることすらなく、一瞬にして本拠地である駿府を捨て、頑強な掛川城へと超スピードで撤退されたのだ。
(見事……見事というほかない! 敵が戦国最強の武田と知るや、大名としてのつまらぬ面目などすべて捨て去り、兵の無駄死にも出さずに軍を引き揚げさせるとは……!
普通の武将なら誇りにこだわって駿府で玉砕の道を選び、家臣たちを全滅させていたはず。
あの電撃的な引き際の早さ、信玄の裏をかく恐るべき果断の才にございます……!)
だが、この本音を徳川の家臣たちに明かすわけにはいかなかった。
織田信長や武田信玄に、俺が今川を助けようとしていることが露見すれば、その瞬間に我が徳川家は二大巨頭に挟み撃ちにされて滅びる。
俺は殺気立つ家臣たちを前に、冷徹な方便を叩きつけた。
「今川ばかりに気を取られて色めき立つな!
氏真は駿府を捨てて掛川に引きこもった。
あの引き際の早さ、ただの腰抜けと侮れば、必ず痛い目を見るぞ!
今は掛川城の包囲に留め、じっくりと時間をかけるのだ!」
本多忠勝ら猛将たちが
「さすが我が主、慎重なる采配……!」
と深く納得して大広間を出ていく中、ただ一人、部屋の隅で静かに八の字の髭を撫でている男がいた。 最古参の重臣・石川数正だ。
数正は、俺が幼い頃に氏真様からどれほどの慈悲を受け、どれほどあの人を慕っているかをすべて知っている唯一の男だった。
数正は周囲に聞こえぬよう、無表情のままボソッと俺に耳打ちした。
「……我が主。
掛川城を『激しく攻めているフリ』をするための大砲(大筒)、すでに手配してございます。
本多らには城の空へ向けて威嚇の爆音を響かせるよう指示しておきました。
信玄の忍びどもの目は、これで完全に欺けましょう」
「数正……! お前、分かって……」
「はて、何のことでしょう。
私はただ、慎重なる我が主の『包囲作戦』を忠実にこなしているだけにございます」
白々しくすっとぼけながらも、完璧なサポートをしてくれる頼もしすぎる右腕。
数年前に鵜殿兄弟との人質交換を裏で完璧に成立させてくれた時もそうだったが、数正のこの阿吽の呼吸たる外交手腕が今の俺には涙が出るほど有り難かった。
だが──この「攻めてるフリの芝居」は、血を流さない生ぬるい戦いなどでは決してなかった。
城を包囲して間もなく、城門が突如として開き、今川家への絶対の忠誠を誓う熱血漢・朝比奈泰朝の軍勢が、死に物狂いの猪突猛進で我が徳川の本陣めがけて突撃してきたのだ。
「お屋形様の仇! 織田の犬ども、一歩も通さぬわ!!」
凄まじい咆哮を上げ、鬼神の如き勢いで襲いかかる朝比奈軍。
討ち取るのは容易かった。
こちらの兵力は圧倒的だ。
本気で迎え撃てば、朝比奈泰朝の首などすぐにでも挙げられただろう。
だが、俺の指揮は鈍った。
殺してはならない。
これからの荒波の中、国を失う氏真様を支え、お命を命がけで守るためには、あの朝比奈泰朝のような絶対の忠臣が、氏真様には絶対に、絶対に必要なのだ。
「……深追いするな! 敵の勢いが強すぎる、陣を引け! 迎え撃つな、受け流すのだ!」
俺のその中途半端な命令のせいで、我が徳川の陣形は乱れた。
そして次の瞬間、朝比奈の死に物狂いの一撃が、手加減をして困惑していた我が前線を引き裂いた。
「──松平甚太郎(忠次)様、討ち死にーーーっ!!」
本陣に響き渡った最悪の悲報に、俺の全身の血が凍りついた。
「……忠次が、死んだ……?」
忠次は、俺と同じ松平の血を引く大切な家臣であり、徳川の未来を担う若き一族の柱だった。
俺は何をやっている。
自分の私情(氏真様への恩返し)のために、手加減を命じ、戦場を濁らせた。
その結果、俺を信じて命をかけてついてきてくれた、大切な親戚を、家族を、俺のせいで死なせてしまったのだ。
俺は、最低の主君だ。
激しい後悔と罪悪感で、血の涙が頬を伝う。
(……すまぬ、すまぬ忠次……っ! 俺を恨んでくれ……!)
凄まじい自己嫌悪と痛みに襲われながらも、俺は拳を血がにじむほど強く握りしめ、心の中で決意を狂おしいほどに固めていた。
(それでも……これ以上の犠牲を出さないためにも、俺は氏真様を死なせるわけにはいかないのだ。 朝比奈を殺すわけにはいかない。
どんな謗りを受けようとも、俺はあの人の全てを守り抜く……ッ!!)
それからの数ヶ月、さらに驚くべきは城の中にいる氏真様の御差配だった。
朝比奈があれほど猛進したというのに、氏真様はそれ以降、頑なに城門を閉ざして一歩も打って出てこなかった。
数正の手配通り、俺たち徳川軍が連日、城の空へ向けて大砲をドカン、ドカンと撃ち込んで爆音で威嚇し、大声で挑発を続けているというのに、完全にそれを受け流し、徹底した籠城に入ったのだ。
きっと、朝比奈が勝手に暴走したのを見て、氏真様が何か策を使って止めてくださったに違いない。
氏真様は、何も知らない家臣たちに臆病者、腰抜けと謗られながらも、俺の
『時間を稼ぎましょう』
という極秘の文に完璧に応え、一人でその孤独と非難に耐え忍んでおられるのだ。
(氏真様……! 俺の不甲斐ない中途半端な指揮までをも、あの徹底した籠城でカバーしてくださるのか……。
なんと深い御器量、なんと慈悲深きお方なのだろう……!)
俺は遠目からビクともしない掛川城を見上げ、その深謀遠慮にただ一人で涙を流した。
これほど引きこもって時間を稼いでくれれば、次なるピースが動かせる。
俺は裏で、糸殿の実家である相模国の北条家へと極秘の使者を走らせていた。
「今川が武田に滅ぼされようとしています。
どうか北条も動いてくだされ。
──なお、糸殿は戦火の中、馬も籠もなく、ご自身の足で泥まみれになりながら掛川へと逃げ延びられました」
この一報を聞いた北条家の大御所・北条氏康殿は、文字通り激怒した。
「あの信玄のハゲ親父め!
我が北条の大事な娘を、泥まみれで歩かせて逃げさせるとは何事か!!
糸に万一のことがあればただでは済まさん!!」
可愛い娘の危機、そして過酷な逃避行を強いられたことに大激怒した北条家は、即座に武田との同盟を破棄。
駿河の武田軍の背後を突くために、大軍を率いて一瞬で戦への参戦を決定したのだ。
「北条が武田の背後を突くために動き出した。武田信玄はこれで掛川城どころではなくなる」
完璧に盤面が整ったのを確認した俺は、ついに氏真様へ極秘の使者を送った。
『氏真様、半年もの間、よくぞ耐え抜いてくださいました。
北条も動き、武田の目を完全に欺ききりました。
これにて、表向きの和睦を結び、お城をお明け渡しくだされ。
……糸殿と共に、どうか小田原の実家へ』
表向きは
「徳川の猛攻に屈して掛川城が開城し、今川は滅亡した」
という体裁を整えながら、裏では、信長や信玄の目を完全に欺き通し、大好きな氏真様と糸殿を無傷で小田原へと逃がす──。
それは、俺の人生で最も命がけの、そして最高に美しく悲しい「恩返し」の結末だった。
明日で第2部完結です。
一つの区切りですし、日曜日とキリが良いので、明日は午前8時頃と午後1時頃の2回更新です。
氏真は幸せになれるのか?乞うご期待!
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