第12話:引きこもりの果てに 〜誰も死なせない〜
掛川の城を包囲されてから、冬が過ぎ、春が訪れようとしていた。
今川への絶対の忠誠を誓う古参の重臣、朝比奈泰朝らは、俺が臆病者と謗られるのを耐えかね、夜陰に乗じて何度も城門を開け、外の徳川軍へ猛烈な突撃を仕掛けていた。
対する徳川家康は、表向きは武田の目を欺くために俺を攻めつつも、本音では俺を無傷で救い出そうとしていた。
だが、助けるという本心を配下に明かせるわけがない。
家康の出した指示は、ただ「攻められたら防御に徹せよ」「深追いせずすぐに引け」という、戦の場においては不自然なほど中途半端な采配であった。
そして、その中途半端な采配が、最悪の悲劇を招いてしまう。
家康の迷いと隙を突いた朝比奈らの本気の猛攻により、あろうことか、徳川の一族の武将が命を落としたのだ。
この戦死の報せを風の噂で知った時、俺は凍りつくような恐怖と、凄まじい罪悪感に襲われた。
(嘘だろ……。
家康くんは俺たちを無傷で逃がすために、信長や信玄の目を盗んで芝居をしてくれているんだぞ?
なのに、うちの武将が本気で戦ったせいで、家康くんの身内を殺してしまった……!?
恩を仇で返すなんてレベルじゃない……!)
しかし、何も知らない朝比奈泰朝は
「お屋形様! 徳川の一族を討ち取りましたぞ!」
と誇らしげに報告してくる。
俺は家康への果てしない申し訳なさと、密約を口にできないジレンマの間で、泰朝を処罰することもできず、ただ引きつった顔で彼らの武功を褒めることしかできなかった。
胃が焼け付くような、凄まじい孤独な苦悩だった。
(もうこれ以上、家康くんの部下を殺させてなるものか。
これ以上の戦は絶対に防がなければならない)
俺は覚悟を決め、大広間に集まる家臣たちの前で、自らを徹底的に貶める言葉を叫んだ。
「もう二度と、打って出ることは許さない!
聞け、俺は親父のような名将ではない!
戦の才など一ミリもない、無能で、臆病な男だ!
だから 武器を置き、ただ城に引きこもるんだ!
それが嫌なら、ここから出て行けばよい。
徳川、武田に降っても責めはせぬ!」
主君が自らを「無能」とまで言って頭を下げ、これ以上の血を流すなと涙を流して懇願する姿に、呆れて離脱する者もかなりいたが、泰朝たちは大きな衝撃を受け、むせび泣きながら武器を収めた。
部屋に戻り、心身ともに限界を迎えてガタガタと震える俺の肩を、小さな手が包み込んだ。
理由は分からずとも、俺が深く、深く苦悩していることを察した糸ちゃんが、優しく抱きしめて涙を拭ってくれたのだ。
「氏真様、私と娘は、いつでもお味方にございます。
どのようなことがあろうとも……」
その温もりだけが、俺の折れそうな心を繋ぎ止めていた。
籠城が半年を超え、兵もかなりの数が逃げ、さらに掛川城の食料が底を突きかけた。
俺は真っ先に「俺の分の兵糧を減らし、みんなに回せ」と命じ、自らも飢えに耐えながら粘り続けた。
もう限界だ、というその時。
城外の家康から、北条が動き、完璧に盤面を整え終えたとのことで、俺と家族と仲間の安全を保障した「和議(降伏)の使者」が届いた。
徹底抗戦を主張する配下たちへ、
『俺は死にたくないし、お前達にも死んで欲しくない』
と戦国武将としてはありえない情けない言葉で諭し、俺はすぐさま、和議に応じたのだった。
しかし、城を開け渡すと決まった瞬間、忠臣の朝比奈泰朝は
「お家を滅ぼした罪、この泰朝、割腹して義元様にお詫びいたします!」
と刀を抜いたが、俺はその手を必死に掴んで止めた。
「泰朝、死んでしまっては何にもならん!
生きて俺を支えてくれ!
命より大事な名誉などないんだ。
俺と一緒に、糸の実家へ来てくれ!」
主君のその必死な、命を救いたいという本心の叫びに、泰朝は涙を流して刀を落とした。
そして開城の前夜。
俺は側近の三浦の引き合わせにより、夜陰に乗じて城内の奥深くで、一人の男と密かに顔を合わせていた。
すっかり大きく、一国の主としての威厳を纏ったその男──徳川家康は、俺の姿を見るなり、かつて駿府の庭で見せていたあの少年の顔に戻り、深く深く頭を下げた。
「氏真様……! 本当に、本当によくぞ生きて、この半年を凌ぎきってくださいました……。
私の不甲斐ない采配のせいで、御身に多大なる苦難と、孤独な重荷を背負わせてしまい……申し訳ございぬ……っ!」
涙を流す家康くんに対し、俺はそっとその肩に手を置いた。
「いや、謝らないでくれ、家康くん。
君の身内を巻き込んでしまったこと、本当に申し訳なかった。
……俺の方こそ、君が命がけで張ってくれた蜘蛛の糸に、ただ縋り付いていただけだ。
俺たちをここまで生かしてくれて、本当にありがとう」
俺の言葉に、家康くんは溢れる涙を拭い、しかし苦渋に満ちた表情で視線を落とした。
「氏真様。
表向きは、我が徳川の猛攻に屈して今川は滅びたという体裁をとります。
武田の目も、信長の目も、私が完全に欺き通してみせましょう。
……ですが、武田信玄を完全に納得させるには、今川の非を背負って死ぬ『生贄』がどうしても一人、必要となりまする……」
家康くんの言葉が何を意味するのか。
俺が息を呑んだその時、ずっと部屋の入り口で静かに控えていた三浦が、音もなく俺たちの前に進み出て、深く平伏した。
かつて裏切り者を容赦なく闇に葬り、俺を戦国大名の底知れぬ恐怖へと陥れた、あの無表情な男だった。
「お屋形様。
朝比奈泰朝らを無傷で北条へ逃がすため、そしてこの三浦が勝手に飯尾を断罪したせいで今川が崩壊したという『体裁』を武田に信じ込ませるため……。
この三浦の首、徳川殿に差し上げましょう」
「な……何を言っているんだ、三浦さん!
嫌だ、認めない!
俺は誰も死なせないために、これまで必死に引きこもってきたんだぞ!!」
叫ぶ俺の前で、三浦は静かに顔を上げた。
その顔は──俺がこの世界に生まれてから初めて見る、一ミリの冷徹さもない、あたたかで優しい笑顔だった。
「お屋形様。
お言葉ですが、これは『罠』にございます。
我が首一つで、武田信玄の目を完全に眩まし、お屋形様と糸様ご一家を一生安全な場所へ逃がすための、今川家最後の調略にございます。
……寿桂尼様との約束、これにて果たせました。
どうか、生きて今川の血を、繋いでくだされ」
それが、戦国マインドという狂った世界の住人である三浦が、現代人である俺の「誰も死なせない」という我が儘を通すために選んでくれた、命がけの忠義の形だった。
俺は溢れ出る涙を止めることができず、ただ三浦のその静かな微笑みを見つめることしかできなかった。
家康くんはこの後、三浦さんの首を、
『昨年末に高天神の近くで野垂れ死んでいた三浦の首を、我が配下が今になって発見し、確認が取れた』
とでも言って、武田や織田に報告するのだろう。
今川の家臣を無闇に殺し、今川の治世を乱して、滅ぼした元凶は今川氏真にあらず、その男は既に死んでいた、という大義名分とともに、この掛川の和議は幕を閉じるのだ。
翌朝、掛川城の重い城門が静かに開かれた。
かつて栄華を極めた今川家は、これにて歴史の表舞台からその名を消す。
世間は、俺を「戦わずして国を滅ぼした無能な臆病者」と嘲笑うのだろう。
事実その通り、俺はひたすら逃げて、引きこもっただけだ。
だが、俺の背後には、生き残った愛すべき家臣たちの姿があった。
そして隣には、泥に汚れながらも、世界で一番晴れやかな笑顔で俺の手を握りしめてくれる糸ちゃんと娘がいる。
「氏真様。
小田原へ参りましょう。
糸の実家には、美味しいお菓子がたくさんございますよ」
「あはは、そうだね。
……泰朝、お前も腹いっぱい食えよ。
三浦さんの分まで、な」
「はっ……! どこまでもお供いたします、お屋形様……!」
こうして、1569年5月(永禄12年5月)俺が31歳の時、今川家は滅んだのである。
ーー昇り始めた朝日の光が、俺たちの歩む険しい東海道の道を、あたたかく照らし出していた。
戦う恐怖から必死に逃げ回り、ただ引きこもり続けただけの、どこにでもいる普通の現代人だったけれど、失った多くの命の重みを背負いながら、大切な人の手を握りしめて泥臭く凌ぎきった俺の二度目の人生は──これから始まる長い旅路の先で続いていくのだった。




