第7話:新当主の涙と〜誰も死なせないトレード〜
親父が桶狭間で討たれた。
あまりの恐怖に大広間から逃げ出し、自室で頭を抱えてガタガタと震える俺の前に、そっと影が落ちた。
「氏真様……」
まだ幼さの残る糸ちゃんが、俺の震える手をその小さな両手でそっと包み込んでくれた。
「糸は、どこへでもお供いたします。
お命が一番大切にございます。
お逃げになりたければ、糸も一緒にお城を出ます。
……ですが、あの大広間で怯える者たちを救えるのは、糸を救ってくださった、優しい氏真様だけでございます」
ハッとした。
俺がここで逃げたら、この子や家臣たちはどうなる?
現代人として、女の子一人守れずに逃げ出すなんて最低だ。
戦うのは無理だけど、みんなを生かすために腹をくくろう。
俺は涙を拭い、ガチガチに緊張した空気の大広間へと戻った。
案の定、血気盛んな家臣たちが拳を突き上げて大騒ぎしている。
「お屋形様の仇討ちじゃ! 織田へ総攻撃を!!」
「今すぐ全軍を動かし、尾張を血の海に沈めてくれましょうぞ!!」
殺気立つ脳筋の家臣たちを前に、俺は毅然と言い放った。
「みんな、静かにしろ! 仇討ちなど、絶対に認めない!」
「な、なぜですか若君! 悔しくはないのですか!?」
「我らが主を殺されて、このまま黙っていろと仰るのか!?」
詰め寄る家臣たちに、俺は涙を流しながら、本音の平和主義をぶちまけた。
「悔しいに決まってるだろ!
だが、ここで熱くなって織田に突撃し、お前たちまで死んでしまったら親父が喜ぶと思うか!?
仇討ちのためにまた何千、何万という人が死ぬんだぞ!
そんな連鎖に何の意味がある!
命より大事な名誉などない!
俺はこれ以上、誰も死なせたくないんだ!!」
大広間が、水を打ったように静まり返った。
自らの悔しさを押し殺し、家臣の命を守るためにあえて弱腰の謗りを受ける覚悟を決めた、新しき主の涙──。
家臣たちは、激しく勘違いして一斉に男泣きを始めた。
「若君……いや、お屋形様……! なんという御慈悲……なんという深い御器量だ……!(号泣)」
お家をどうにか落ち着かせたものの、それからの今川家の周辺は混迷を極めた。
かつて幼い頃に俺が屋敷で蹴鞠や勉強を教えてやった、竹千代──今は元服して松平元康と名乗っている彼は必死に織田と戦ってくれていた。
何度も援軍の要請が来た。
……しかし俺は元康くんに援軍を送れなかった。
理由は三国同盟を守る為、北条を守る為だ。
長尾景虎とかいう訳の分からない奴が、なんと10万もの大軍で、糸ちゃんの実家の北条を攻め、お義父さんの北条氏康さんは小田原城で籠城するハメになっていた。
糸ちゃんの実家を見捨てる訳にはいかないので、俺はすぐさま軍を編成して、救援に向かわなければならなかったのだ。
俺ら今川と武田が動いたことで、大きな戦が起こることもなく、なんとか長尾とかいう奴を撤退させる事は出来たが、その間、元康くんはまさに孤軍奮闘だった。
織田の追撃から今川の拠点を守るために、今川の親戚である鵜殿の家の幼い兄弟たちと一緒にお城へ入って必死に前線を死守してくれたりしていた。
この鵜殿兄弟の親である長照は、元康に城を奪われたと自害してしまったらしいが、元康くんは、城を奪ったのではなく、今川を守る為にこの城でしか出来ない事があったのに、頑として鵜殿長照が元安くんに城の権限を譲らなかったから、仕方なく奪ったのだろう。
鵜殿兄弟が生きているのが証拠だし、元康くんは援軍もないのに織田と戦ってくれている。
話し合えばよかったのに、意地をはって戦って自害とか、戦国マインド怖すぎる。
ーーしかしながら、混迷が長引くにつれ、孤立した元康くんは決断してしまったらしい。
ある日、最悪の報告が大広間に響き渡った。
「申し上げます!
松平元康、突如として今川からの独立を宣言!
立てこもっていたお城をそのまま乗っ取り、一緒にいた鵜殿兄弟らをなし崩し的に人質といたしました……!」
その瞬間、家臣たちの怒りが爆発した。
「元康め、やはり裏切ったか!!」
「恩知らずの三河者が! 駿府にある元康の屋敷を取り囲め!!」
「今すぐ裏切り者の妻子を引きずり出し、見せしめに処刑してくれましょうぞ!!」
凄まじい怒号の中、俺の脳内は完全に冷めていた。
(……あ、なるほど。
元康くん、賢いな。
これ以上今川に付き合ってたら全滅するから、お城ごと独立して生き残る道を選んだんだな。
一緒にいた鵜殿のちびっ子兄弟は、巻き添えでお城に閉じ込められて人質状態になっちゃった訳だ)
責める気なんて一ミリもない。
むしろ、今まで今川の為に孤軍奮闘してくれて、感謝しかない。
ただ、お城に閉じ込められた親戚の子供たちと、ここ駿府のお屋敷に取り残された元康くんの妻子、両方の命が危ないということだけが問題だった。
「みんな、静かにしろ! 処刑など絶対に許さん! ──よし、だったら全員が無傷で済む方法を取ろう」
俺はすぐに元康くんへ手紙を書いた。
『元康くん、独立おめでとう。
もう織田と戦わなくていいよ。
今まで今川の為にありがとう。
援軍も送れないダメな当主でゴメン。
君は君の国を守って、織田信長と和平を結んで仲良く暮らしなさい。
その代わり、君がなし崩し的に捕まえちゃった今川の人質(鵜殿兄弟)と、こっちにいる君の妻子をそっくりそのまま交換しよう。
これなら誰も死なないだろ?』
手紙を受け取った元康くんは、ひっくり返るほど驚き、そして涙を流して大感動したという。
お城を乗っ取って独立したというのに、一切責められず、それどころか命を救うために敵との和平を勧められ、妻子まで無傷で返してくれる。
そんな大名、戦国時代のどこを探してもいないからだ。
「氏真様……!
どこまで私を、松平の者を愛してくださっているのだ……!
北条を救い、松平も救いなさるか!
私は一生、この大恩を忘れぬ……!」
そうして、元康くんは織田と同盟を結び、そのおかげで、なんかうまい具合に今川の西側を守る『最強の防波堤』のようになってくれたのだ。
こうして俺は、現代人の保身と平和主義をフル活用し、再びハッピー引きこもりライフの基盤を作り上げていくのだった──。




