第2話:信秀って誰だよ! 〜あれ?もしかして俺、死なないんじゃね?〜
大広間で冷や汗を滝のように流し、泡を吹いて気絶したあの日から、まる三日が過ぎた。
自室の布団の上でガバッと跳ね起きた俺は、枕元に控えていたじいやの着物の胸ぐらを、五歳児の全力の力でガシッと掴み取った。
「じ、じいや! 緊急事態だ! うちの……我が今川家って、いまヤバい状況なのか!?
敵に攻め滅ぼされそうだったりするのか!?」
「はて……? 何を仰いますか若君。お心を静めくだされ」
じいやは白髪混じりの髭を撫でながら、不思議そうに首を傾げた。
「我が今川家は今まさに、駿河、遠江に留まらず、隣国の三河へと勢力を伸ばさんとする絶頂期にございます。
何も恐れるものなどございませぬぞ」
(絶頂期? 嘘つけ! 織田信長に攻め滅ぼされるんだろ!?)
俺は生唾を飲み込み、一番恐怖している『敵のボス』の名前を、恐る恐る確認することにした。
「じゃ、じゃあさ、どっかから、なんかめちゃくちゃヤバい、こう……『織田信長』とかいう奴が攻めてきてないか!?」
「おだのぶなが……? はて、聞いたこともない名にございますな」
じいやは、きょとんとした顔でそう言った。
「現在、尾張から我が領国へ攻め込んできている不届き者は、織田信秀にございます。
今まさに、お屋形様が小豆坂という場所で奴らを迎え撃っておられますが……」
「……え?」
俺は掴んでいたじいやの胸ぐらを、思わず離した。
「のぶ……ひで? 信長じゃないの?」
「はい。織田信秀にございますが」
(……信秀。誰それ? 知らねえ〜〜〜!!!)
その瞬間、俺の脳内で、都合の良すぎるハッピーな三段論法が爆速で組み立てられた。
待てよ。
俺のうっすらとした前世の記憶だと、今川家を滅ぼすのは、あの冷酷無比な魔王『織田信長』のはずだ。
だけど、いま攻めてきているのは『信秀』とかいう聞いたこともない奴らしい。
ということは……ここ、俺の知っていた日本とは歴史が微妙に違うパラレルワールド日本なんじゃないか!?
(よかった〜〜〜!!!
信長がいないなら、俺が首を獲られて滅亡するデッドエンドもないってことじゃん!
詰んでなかったわ!!)
一気に目の前が明るくなった。
緊張が解けると、俄然、心の余裕が戻ってくる。
俺はド直球の質問をじいやにぶつけた。
「じいや。ぶっちゃけ、我が今川家はその信秀って奴に勝てそう?」
「ハハハ! 聞くまでもございませぬ! 間違いなく、我が今川の圧勝にございます!!」
じいやは拳を強く握りしめ、目を爛々と輝かせて熱弁を始めた。
「お屋形様は『海道一の弓取り』と称される偉大なる名将! 知略、武勇、家柄、どれをとっても天下無双にございます!
あのような尾張の田舎侍など、お屋形様が本気を出せば、赤子の手をひねるようなものにございます!!」
(おー、そこまで言うなら本当に強いんだな、父ちゃん。
前世のイメージだと『バカ殿』みたいな麻呂だと思ってたけど、この世界の父ちゃんはガチの名将なんだ。
よし、じゃあやっぱり我が家は安泰だ! 滅亡リスクゼロ!)
自分が死なないと確信した瞬間、五歳児の胃袋がギュルルゥと音を立てた。
「あーよかった! じいや、安心したらお腹空いちゃった。
なんか美味しいお菓子持ってきて!
あと、庭で蹴鞠の続きするわ!」
「おおお……! 敵の総大将の名を聞いて一瞬で安堵し、すぐさま腹ごしらえをして技の鍛錬に向かわれるとは……!
敵を恐れぬその度胸、そして底知れぬ余裕、五歳にしてすでにお屋形様の器の片鱗が……!(感涙)」
じいやがまた勝手に感動して涙を流しているが、今の俺にはどうでもよかった。
青空の下、庭に出て「ちょん、ちょん、ちょん」と気楽にリフティングを再開する。
「あ〜、死ぬ心配がないなら、この広いお屋敷で毎日美味しいご飯を食べて、趣味のサッカー(蹴鞠)だけして一生のんびり暮らせるじゃん!
マジで最高の勝ち組転生だわ〜!」
この時の俺は、歴史を知らないがゆえに、
「信長じゃないからセーフ!」と完璧な勘違いをして完全に油断し、再びお気楽な引きこもり生活に戻っていったのであった。
(まさかその『知らない奴(信秀)』の息子として、あの恐怖の魔王がスクスクと育っている最中だとは、夢にも思わずに──)




