第17話:家康の敗北〜そして守るべき御方〜【徳川家康視点】
徳川家康は、己の無力さに歯噛みしていた。
元亀三年十二月。
遠江国に侵攻してきた武田信玄の軍勢三万に対し、我が徳川・織田の連合軍はわずか一万一千。
圧倒的な兵力差を前に、浜松城での籠城を決め込んでいた我が軍の鼻先を、武田軍はあざ笑うかのように素通りしていった。
「我らを無視して、三河へ向かうだと……!?」
若き大名としてのプライドが激しく燃え上がる。 だが、家康を突き動かしたのは、単なる意地ではなかった。
城の奥で、家康の勝利を確信しているように見える今川氏真様とそのご家族の顔が脳裏をよぎったのだ。
(氏真様は、武田からの破格の誘いを『家康の元にいたい』と一蹴してくださった。
大名の地位も、今川復興の悲願すらも捨て、この俺を信じて浜松へ来てくださったのだ!
しかも、徳川の勝利を全く疑っておられない。
なのに、我が本拠である浜松の目の前を易々と通り過ぎられては、大名としての徳川の威信は地に落ちる。
そうなれば、俺を信じてくれた氏真様を、これから先どうやってお守りすればよいのだ……!
それに、今なら武田の背後から攻める事が出来る!
氏真様に我が徳川の勝利の報せを届ける事が出来るはずだ)
「武田の背後を突く! 出陣じゃ!」
宿老・酒井忠次らの制止を振り切り、家康は出陣した。
しかし、これこそが「甲斐の虎」武田信玄の張り巡らせた、恐るべき罠であったのだ……
――地獄であった。
武田軍の背後を突こうと、浜松城の北方に広がる三方ヶ原の台地に上がった瞬間、通り過ぎて先に向かったはずの武田軍が、完璧な魚鱗の陣を敷いて待ち構えていたのだ。
雪混じりの極寒の風の中、武田の突撃が始まる。
最強と名高い山県昌景の「赤備え」が、怒涛の勢いで徳川の防衛線を食い破っていく。
織田の援軍は一瞬で潰走し、我が徳川の誇る三河武士たちも、まるでバッタのように次々と討ち取られていった。
「ひ、退くな! 踏みとどまれ……っ!」
家康の必死の怒号も、地響きのような地鳴りと放たれる矢の雨にかき消される。
わずか二時間足らず。
徳川軍は文字通りの木っ端微塵に大惨敗を喫した。
気づけば、家康の周囲の親衛隊は全滅しかけていた。
迫りくる武田の大軍。
死の恐怖が、二十代後半の若き家康の全身をガタガタと震わせる。
「殿! ここは我らがお引き受けいたす! 殿は一刻も早く浜松城へ!」
「何を言う、夏目(吉信)! 俺も共に戦う――」
「馬鹿なことをおっしゃるな! 貴方様が死ねば、徳川は終わるのだ!」
夏目吉信は、家康の馬の尻を力いっぱい叩いた。 さらに鈴木久三郎らが家康の身代わりとなって武田の群れへと突っ込んでいく。
「う、うおおおおおおおおっ!!!」
家康は泥をすすり、涙を流しながら、馬を走らせた。
背後から聞こえる、忠臣たちの断末魔の叫び。
己の慢心ゆえに、多くの守るべき部下を殺してしまった。
その罪悪感と情けなさに、家康の心は引き裂かれそうだった。
そして、何よりも家康の胸を締め付けたのは、浜松城で待つ「あの御方」への申し訳なさだった。
(氏真様……!
申し訳ありませぬ、申し訳ありませぬ……っ!
『命に代えてもお守りする』と偉そうな大言壮語を吐いておきながら、このザマは何だ!
武田の大軍勢に手も足も出ず、部下を身代わりにして逃げるなど……!)
家康は馬上でボロボロと涙をこぼした。
あまりの恐怖と情けなさに、全身がじんわりと熱くなる。
だが、衣服を汚そうが、大名のプライドを失おうが、今は死ぬわけにいかなかった。
(俺がここで死ねば、浜松城に残された氏真様や早川殿、幼き若君や姫君までもが、あの冷酷な武田信玄に捕らえられ、なぶり殺しにされてしまう!
不甲斐ない……本当に不甲斐ないが、俺は泥をすすってでも城へ帰り、氏真様を、あの一家をお守りせねばならぬのだ……!)
背後に迫る武田の追っ手を必死に振り切り、家康は夜の闇の中、命からがら浜松城の城門へと滑り込んだ。
「門を開けよ! 殿のお帰りでございます!」
辛うじて開かれた城門へと駆け込み、馬から転げ落ちるようにして降りた。
鎧はボロボロ、顔は煤と涙で汚れ、文字通り這う這うの体で城の奥へと逃げ帰った家康。
その凄惨な姿のまま、彼はふらふらと、氏真のいる客間へと向かった。
愛する主、自慢の兄のような存在であった氏真様に、己の不甲斐なさを詫びるために。
(氏真様……俺は、負けました……。貴方様を守る資格など、俺には……)
絶望と恐怖に打ち震えながら、家康が客間の襖を開けると。
そこには、家康が負けるなど一ミリも思わず、子供たちを抱っこしてのんきに笑っている、完全に油断しきった氏真の姿があった。
――徳川家康、人生最大の大惨敗。
そして、今川氏真の「打算に満ちたぬくぬくライフ」が音を立てて崩壊する、地獄のサバイバルの幕が、ついに上がろうとしていた。




