第16話:家康との絆〜迫りくる歴史のバグ〜
その夜、浜松城の俺の客間に、音もなく「それ」は現れた。
襖の隙間から滑り込んできたのは、夜の闇に同化するような黒装束の男――まるで前世の漫画で見たような正に忍者だった。
俺が「ひぇっ!?」と声をあげるより早く、男は床に膝をつき、低く不気味な声で囁いた。
「今川氏真様とお見受けいたす。
……甲斐の御館様、武田信玄公より伝言にございます。
今すぐ徳川を離れ、我ら武田の陣へとお越しくだされ。
信玄公は、武田の全軍をもって駿河の国を奪還し、貴方様を再び今川の大名として駿府の主に据えるとお約束なされました」
いきなりのことで、混乱して固まっていた俺だったが、男の「今川の復興」という言葉は理解できた。
男は俺が固まっているのを、落ち着いたとみたのか、さらに言葉を続ける。
「徳川家康は信用なりませぬ。
今川の恩を仇で返し、裏切って滅ぼした元凶にございます。
人の良い氏真様は、あの狸に騙されているのです。
武田においでになり、今川を復興なさいませ」
少し落ち着いてきた俺は、男の言葉を聞いて、とても嫌な気分になった。
歴史に詳しくない俺でも、武田信玄が戦国最強ってくらいのめちゃくちゃ強い奴だってことくらいは、なんとなく知っている。
しかし、そんな戦国マインドバリバリっぽい奴のところに行くなんて絶対お断りだし、俺が本当の弟のように信頼している家康くんのことを悪く言うのも気に入らない。
それに、今さら大名になんてなりたくない。
家康くんのところで、蹴鞠したり、家族とのんびりおやつでも食べながら、ぬくぬく生きていたいのだ。
「いやあ、せっかくの素晴らしいお誘いなんですけど、お断りします」
「……何だと?」
「だって、今川の復興なんかより、俺の信頼する、めちゃくちゃ優しくしてくれる家康くんのところにずっと居たいんだよね。
ここ、ご飯も美味しいし! 」
俺が満面の笑みで答えると、密使の目がすっと細まり、凄まじい殺気が放たれた。
「……交渉決裂か。
ならば、徳川の神輿となる前に、その首、ここで貰い受ける!」
男の手が懐の刀へ伸びる。
終わった、断り方を間違えた――そう俺が頭を抱えた瞬間。
「我が主に仇なす羽虫めが。
……身の程を知れ」
部屋の隅、完全に闇に溶け込んでいた「本物の怪物」が動いた。
今川家の誇る絶対のボディガード、朝比奈泰朝だ。
ガキィン!!! と、凄まじい金属音が夜の客間に響き渡る。
密使が抜いた小刀は、泰朝の放った凄まじい一撃によって一瞬で叩き折られ、火花を散らして畳に突き刺さった。
「なっ……何奴……!?」
「今川家臣、朝比奈泰朝。
主人を守る絶対の盾となる男だ」
泰朝の放つ凄まじいプレッシャーに、武田の密使がガタガタと震え出す。
「ば、化け物め……!」
と男が窓から逃げ出そうとしたが、遅い。
泰朝の太刀が容赦なく一閃し、名前もなきモブの暗殺者は、一言の悲鳴もあげることなく床へと崩れ落ちた。
一瞬だった。
(泰朝強すぎぃぃぃ!? っていうか部屋が血塗れになっちゃったじゃん!)
「はっ…! 申し訳ない!客間を汚してしまいました」
「いや、泰朝、汚れなんてどうでもいいよ、本当に助かった。
よくやってくれた」
(びっくりしたーーっ、危機一髪じゃん!
提案を断っただけで、いきなり、その首貰い受けるだなんて、頭おかしいんじゃないの?
しかし、泰朝もいつからここに居たんだよ!
全く気が付かなかったよ。)
心臓が飛び出るくらい驚いたが、泰朝のおかげで、命の危機は去り、なんとか落ち着いてきた。
すると、
「氏真様!!! ご無事ですか!!!」
騒ぎを聞きつけた家康くんが、顔を真っ青にして部屋に駆け込んできた。
その後ろには酒井忠次や護衛の家臣たちが武器を手に並んでいる。
床に転がる黒装束を見て、家康くんは
「武田の犬どもめ、当城にまで……!」
と悔しげに歯噛みした。
「大丈夫だよ家康くん。泰朝が瞬殺してくれたから」
俺はいつも通り、緊張感のないフレンドリーな笑顔で手を振った。
「あ、そうそう。
さっきその武田の人がね、
『今川を復興させてあげるから武田に来い』
って言ってきたんだよ」
「……っ!」
家康くんと酒井忠次の身体が、にわかに強張った。
戦国大名にとって、今川の血筋という大義名分は喉から手が出るほど欲しい神輿だ。
武田が本気でそれを提示してきたとなれば、国を失った氏真が揺らぐのは当然だと、二人は瞬時に最悪のシナリオを覚悟したのだ。
しかし、俺はあっけらかんと続けた。
「でも、速攻でお断りしちゃった。
だってさ、今川の復興なんかより、俺は信頼している家康くんの所にずっと居たいからね。
家康くんのいるここが、一番安心だし、居心地いいしね!」
俺からすれば当然の選択だ。
ここが歴史通りの日本なのか、それともただのパラレル世界なのかは俺には分からない。
ただ、俺の持っている貧弱な歴史知識でも、
「織田信長がめちゃくちゃ強くて、本能寺の変で明智光秀にやられて、そのあと豊臣秀吉になって、最後は関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を取る」
ということくらいは知っている。
本当は滅亡しているはずの今川なのに、今俺の家族が生きているのは、この世界でも天下を取るかもしれない家康くんと仲良くしているからである可能性が高いのだ。
つまり、今をときめく武田信玄がどれだけ強そうでも、俺の将来を任せられるのは、この可愛い家康くんだけなのだ。
武田信玄とかいう、どんな人間か、これからどうなるのかも全く分からない奴の怪しい誘いに乗るより、少なくとも俺の知っている世界で将来の天下人だった家康くんの元に身を寄せていた方が、絶対に安全だし勝ち組になれるはずなのだ。
「う……氏真様……!」
家康くんの大きな目が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
(氏真様は……大名の地位も、今川復興の悲願すらも捨てて、俺を選んでくださった。
権謀術策がはびこるこの戦国の世で、大名となり、孤独になっていくこの家康を、これほどまでに信じ、支えようとしてくださるなんて……!
なんという御心の深さ、なんという情の厚さだ……!)
家康くんの内心のリスペクトと感動は、この瞬間に限界突破してカンストした。
「……この家康、命に代えても、氏真様とご家族をお守りいたします!」
と、涙を流しながら熱く誓う家康くんを見て、俺は「あはは、家康くんは本当にいい奴だなぁ」
とほっこりしていた。
酒井忠次もまた、感動に震える主君の背中と、俺ののんきな顔を見て、天を仰いだ。
(……今川氏真、恐るべき大物。
武田の破格の誘いを一蹴し、その身を賭して殿への忠義(絆)を示してみせるとは。
これでは殿だけでなく、我ら徳川家臣団も、命がけでこのお方を守らねばならぬではないか……!)
この日から、徳川家の家臣内に氏真の『底知れぬ大物感』が徐々に広がって行くのであった。
数日後。
謀略が失敗に終わった武田信玄は、ついにしびれを切らし、三万という圧倒的な大軍勢を動かして徳川領への侵攻を開始した。
浜松城内は、押し寄せる武田の恐怖にガタガタと震え、パニック寸前であった。
家康くんもまた、いつになく厳格な表情で鎧をまとい、出陣の準備を進めている。
「氏真様、武田が迫っております。
武田がこの城に攻めて来ても、俺が必ず敵を喰い止めますので、安心して城内でお待ちくだされ」
「うん、家康くん! 応援してるよ!」
俺は笑顔で手を振り返した。
城内のみんなは青ざめているけれど、俺の内心はめちゃくちゃ余裕だった。
(うーん、みんな武田信玄が怖いってビビってるけど……まあ、相手は家康くんだしね。
歴史の細かいことはよく知らないけど、おれの知ってる歴史で、将来天下を統一するのって家康くんだし、桶狭間は起こったから、その辺は歴史通りなんじゃないの?
だったら、こんなところで負けるわけないじゃん! 余裕余裕。
お部屋でおやつでも食べてのんびり待ってよーっと)
「ちち上、お外がうるさいね」
「ねー、おやつでも食べながら家康くんの帰りを待とうね」
子どもたちを両脇に抱っこして、糸ちゃんが淹れてくれたお茶をすする。
天下人(多分)が味方なんだから、浜松城の安全は絶対確実。
平穏なぬくぬく隠居生活は、これからもずっと続いていくはずだ。
――そう、確信していた。
しかし家康くんが、武田信玄の圧倒的な戦術の前に文字通りの木っ端微塵に大惨敗することなど――
歴史の過程(三方ヶ原の戦い)を一切知らない現代人の俺は、知る由もなかったのである。
今週は更新はここまでです。
来週は月、水、金更新予定です。
ですから、次回更新は、11月2日の午後8時頃になります。
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