第14話:浜松城にて〜美味しいおやつと、不穏な影〜
「うおおお……揺れた、めちゃくちゃ揺れた……。
これが戦国時代の船旅かよ……」
小田原から船に揺られること数日。
遠江国の浜松港に降り立った俺――今川氏真は、波止場で派手に膝をついていた。
胃袋がひっくり返るかと思った。
横では、愛する糸ちゃんが、
「まあまあ、殿、しっかりなさってください」
と、布で俺の口元を優しく拭ってくれている。
「ちち上、だいじょうぶ?」
「おなか、いたいの?」
俺の袖をきゅっと引っ張ってくるのは、俺と糸の可愛い子どもたち(息子と娘)だ。
小田原からの過酷な船旅によく耐えてくれた。こんな小さな子たちに心配されるなんて、父親として情けない。
「申し訳ありません、早川殿。
我が主の御体がここまで船に弱いとは……。」
背後で、仁王立ちのまま悔しそうに拳を握りしめているのは朝比奈泰朝だ。
そんな俺たちの前に、ザッ、ザッ、と整然とした足音が近づいてきた。
現れたのは、ギラギラとした鎧をまとった一団。 その中心にいるのは、小柄ながらも圧倒的な覇気を放つ若き大名――徳川家康、その人であった。
(あ、家康くんだ……!)
今の家康くんは、今川を飛び出して一国一城の主となった雲の上の存在だ。
しかし俺にとっては、幼い頃におやつを分け合って蹴鞠を教えた、可愛い『竹千代くん』でもある。 これだけ立派になった姿を見たら、緊張よりも先に親戚のお兄ちゃんのような感動が込み上げてきた。
「あ、家康くん! 久しぶり!」
俺は船酔いの膝の震えを堪えながら立ち上がり、懐かしい幼馴染に会ったような笑顔で手を振った。
「……」
家康くんは無言だった。
鋭い眼光をこちらに向け、威厳に満ちた佇まいで一歩、前に進み出る。
後ろに控える酒井忠次は複雑そうな顔をし、本多忠勝らしき若手家臣は
「……これが、かつての東海道の主、今川の御曹司、氏真……」
と、値探るような冷ややかな視線を送ってくる。
周囲の家臣たちの手前、家康くんは低く冷徹な声を響かせた。
「……今川殿。
小田原にて北条氏康公が亡くなられ、行くあてを失ったと聞き、我が徳川が人道的に保護することといたしました。
我が城へ案内いたします。
……みな、者ども、丁重にお通しせよ」
さすが一国の大名、表向きのポーズが完璧だ。
しかし、家康くんはそのまま俺の横を通り過ぎる瞬間、家臣たちの死角になる角度で――めちゃくちゃ嬉しそうに片目を瞑って微笑みを浮かべてみせた。
(あはは、中身は昔の竹千代くんのままだ。
よかったぁ)
俺がホッと温かい目を向けている間、徳川の家臣団は別の意味で戦慄していた。
「……見たか、今の今川氏真の態度を」
「ああ。我が殿の圧倒的な威圧を前にして、一切臆する様子がなかった。
それどころか、まるで『大きくなったな、家康くん』とでも言いたげな、余裕の笑みを浮かべておられたぞ……」
「おそろしい男だ……国を失ってもなお、あの態度。
やはり今川の龍、ただの暗愚ではないな……!」
俺の背後では、朝比奈泰朝が刀の柄に手をかけたまま、徳川家臣団をギロリと睨みつけていたが、俺たちはそのまま浜松城へと案内された。
――浜松城の一室に案内された俺は、思わず
「おわぁ……」
と声を漏らした。
通された客間には、見るからに上等な畳が敷かれていた。
湯気を立てるお茶と、何やら美味しそうな和菓子まで用意されていた。
「こんな部屋を私たちが使ってもよろしいのですか……?」
糸が目を丸くして驚いている。
「ああ、たぶんそうなんだろう。
家康くんめちゃくちゃもてなしてくれてるね。
ありがたいなぁ」
俺がホッとしていると、バタバタと足音がして、部屋の襖が勢いよく開いた。
「氏真様!」
と入ってきたのは家康くんであった。
家臣たちの目を盗んで、さっそく一人で突撃してきたらしい。
「あ、家康くん! わざわざ来てくれたんだ。いやあ、さっきはありがとうね」
俺は立ち上がり、フランクに彼を迎えた。
「それにしても立派な城だねぇ。
あの小さかった家康くんが、今やこんなに大勢の家臣を従える一国の大大名なんてさ。本当に凄いよ、出世したなぁ! 感動しちゃった」
心からの称賛だった。
そんな凄い男が目の前で、昔とおなじように目を輝かせて俺を見つめている。
「何言ってるんですか、氏真様! 俺にとっては、今でも貴方様が一番の主、自慢の兄のような御方です!
先程は部下の手前、偉そうな態度をとってしまって申し訳ないと思っていたのです」
家康くんは俺の前に膝をつくと、ぐっと顔を近づけてきた。
「無事でよかった、本当に、本当によかった……! 氏真様とご家族は、この家康が絶対に守りますから!」
本当に俺たちを心配してくれていたらしい。
じわっと涙を浮かべる家康くんを見て、俺の心も温かくなった。
「……コホン」
その時、開いたままの襖の向こうから、わざとらしい咳払いが聞こえた。
宿老の酒井忠次だ。
「殿。
あまり今川殿の部屋に長居されては、外の者たちに示しがつきませぬ」
ハッと我に返った家康くんは、瞬時に涙を引っ込め、元の厳格で威厳に満ちた『冷徹な大大名』の顔に戻った。
「……分かっている、忠次。
今行く。
……今川殿、当城にいる間は、何も憂うことなく心安らかにお過ごしくだされ」
(おお、やっぱり大名としての威厳は保たなきゃいけないんだな。
部下の手前、大変だなぁ……。偉いなぁ、家康くん)
俺はそんな彼の苦労を察して、うんうんと温かい笑顔で頷いた。
(氏真様は……やはり底が知れぬ大物だ。
国を失い、我が保護下に入ってもなお、態度を一切変えぬ。
普通なら媚びへつらうか、プライドを爆発させるはずなのに……あの泰然自若とした態度、そして俺の立場を気遣うようなあの優しい眼差し。
やはり氏真様は、俺の遥か先を行く偉大な御人だ……!)
何故か、家康くんは俺の態度に猛烈に感動しているようだった。
家康くんと共に去りゆく酒井忠次は、そんな主君の背中と、俺ののんきな顔を交互に見て、深くため息をついた。
「……今川殿。
殿は、貴方様を駿府からお救いするために、大変な無茶をなされました。
武田は、当家と今川殿との和睦について、武田との約定破りであると、かなり非難しておりましたからな。
そのこと、お忘れなきよう」
冷たい声だったが、俺は親しみやすく笑いかけた。
「はい!
本当に感謝しています。
酒井さんも、色々と手配してくれてありがとうございます」
「なっ……」
戦国大名へのタメ口、あるいは宿老である自分へのフランクな感謝。
普通なら無礼極まりないはずなのに、氏真のまとう現代人的な「悪意ゼロのピュアなフレンドリーさ」の前に、忠次は毒気を抜かれてしまう。
(……くそ、この男には大名の威圧が一切通じぬ。
この底知れぬ余裕、殿が命がけで慕うのも無理はない……)
忠次はフイッと顔を背け、
「……おやつは、殿がわざわざ『氏真様の好物だ』と手配された駿府風のねり餅にございます」と言い残し、去っていった。
「ツンデレだ……! 迷惑がってるけど、めちゃくちゃ良い人だ!」
俺は感動しながら、さっそく家康くんが手配してくれた駿府風のねり餅を口に運んだ。
「ちち上! おもち、おいしいね!」
「はままつ、いいところだね!」
俺の左右から、もぐもぐと口を動かしながら無邪気な声をあげる子供たち。
小さな手をきな粉まみれにしながら喜ぶ姿が、たまらなく愛おしい。
「ねー、美味しいよね。
家康くんが用意してくれたんだよ。今度会ったらお礼言おうね」
俺が子供たちの頭を撫でると、糸ちゃんも
「はい、殿。
本当に、温かいお餅でございますね」
と穏やかに微笑む。
国を失い、あちこちを流浪する身。
普通なら悲壮感に満ち溢れているはずの今川一家だが、現代人の俺の適応力と、家康くんの全力のサポートのおかげで、客間は完全に『平和な実家の居間』と化していた。
「……ぬう」
その様子を、部屋の隅でじっと見つめる影がひとつ。
朝比奈泰朝である。
泰朝は腕を組み、鋭い眼光で窓の外を警戒していた。
(徳川家康……これほどの手厚いもてなし、そして酒井忠次のあの態度。
今川への恩義を忘れてはおらぬようだな。
知らなかったとはいえ、徳川への不義理は後で詫びるとして、まずは護衛の任務を全うしなければ。
ここは戦国。
若君や姫君にまで牙をむく不届き者がおらぬとも限らん。
……私が、この命に代えても今川の血筋をお守りする!)
「泰朝ちゃんも殺気バリバリで立ってないで、ほら、子どもたちと一緒にねり餅食べて!? お餅、まだあるから! 部屋の温度が下がってるから!」
俺の必死のツッコミも虚しく、浜松城の夜は更けていく。
徳川の若手家臣団の間では、
「今川氏真は、あの酒井忠次すらも一言で手懐けた」
「やはり底が知れぬ大物だ……」という噂が、さらに補強されて広まっていくのだった。
俺は、餅を食べながら、
「それにしても、浜松城は本当に安全でいいなぁ。小田原のピリピリした空気から解放されて、やっとのんびり隠居生活が送れそうだよ」
と息を吐いた。
天下の徳川家康の居城なのだ。
ここにいれば、戦国最強と名高い武田信玄だって、そう簡単には手を出してこないだろう。
そんな俺の様子を見て、糸が嬉そうに微笑む。
「殿がそのように安堵されているお姿を拝見できて、私も嬉しゅうございます」
「そーだね。
これから、家康くんに御厄介になって、ぬくぬくと長生きしようね」
そんな呑気な約束を交わしながら、俺は完全に安心しきっていた。
――だが、この時の俺はまだ、何も分かっていなかったのだ。
この時すでに、甲府からは時の将軍足利義昭の要請に答えて、地響きのような大軍勢が動き出そうとしていた。
浜松城で手に入れたはずの、ぬくぬくとした平穏な日々が、文字通りの地獄へと一変するなど――。
歴史音痴の現代人である俺は、知る由もなかったのである。
迫る武田の影!氏真は生き残る事ができるのか?
明日から週3回、火曜日、木曜日、土曜日の午後8時頃更新予定ですので、次回は29日の午後8時ご覧になります。
よろしくお願いします。
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読んでいただきありがとうございました。




