シビウ 福音教会
ビエルタンからシビウの街まで約80キロ、1時間強のドライブになる。亜希は車の後部座席で窓を開け、風景を楽しみながらのんびりと過ごす。エリックの運転は安定しており、適度な揺れとぽかぽかとした陽気にうたた寝を始めた。龍の紋章の本を狙うラドゥたちも、もしかしたら密かに追ってきているのかもしれない。そう思うと不安がよぎるが、今はただ心地よい眠りに誘われている。
ハンドルを握るエリックと助手席のシュテファンはルーマニア語で会話をしている。あいさつ程度の単語しか知らない亜希には、何を喋っているのかさっぱり分からなかった。
農村から都市へ風景が様変わりしてきた。BMWは古い街並みの狭道へ入っていく。建物の間にある狭い駐車スペースに車を停めた。
「シビウに到着しましたよ」
エリックの声で亜希は目を覚ました。口を開けて眠っていたらしい。喉が渇いている。バッグからミネラルウォーターを取り出し、水分を口に含んだ。
シビウはドイツ語でヘルマンシュタットと呼ばれ、12世紀にドイツ人の入植者により造られた都市だ。中央ヨーロッパとバルカン半島を結ぶ商業都市として発展し、16世紀にはその勢いはウィーンに匹敵するほどだったという。
「まずはランチにしましょうか」
ちょうど午後12時をまわったところだった。駐車場から広場に向かうと、正面に高い時計塔が見えた。広場では噴水が湧き上がり、水しぶきに遊ぶ子供たちがいる。
「あちらの古い建物はブルケンタール博物館で、中世の武器や美術品を見学できます。時計塔にも登ることができますよ」
広場に面したオープンテラスでランチにする。ルーマニアにはこのようなオープンテラスの店が多い。屋外で食事をする開放感や、そこでするおしゃべりを楽しむのはいかにも欧米という感じがする。亜希はフレッシュサラダにひよこ豆のスープ、サルマーレを注文した。主食にはパンかママリガかの何かしらついてくる、というパターンなのが分かった。飲み物はいつものレモネード。
「この町には大きな教会がふたつあります。正教会とカトリックの福音教会です」
「正教とカトリックが同居しているんですね」
「ええ、でもケンカはしませんよ」
「ドラキュラ公は正教からカトリックへ改宗しましたよね」
「そうです。アキ、あなたはよく勉強しています」
エリックもシュテファンもすごいね、と亜希を褒めてくれた。付け焼き刃ながらルーマニアへ来る前に歴史を学んでおいて良かった、と思った。
「ドラキュラ公は3度王座についています。それは2度、王座を追われたということです。3度目の即位にはハンガリー王の力添えが必要でした。そこで、ハンガリー王の妹と婚姻を結ぶことになり、正教からカトリックへ改宗した」
テーブルにドリンクが運ばれてきた。ガラスの瓶にたっぷり入ったレモネードが置かれる。中には輪切りにしたレモンが浮かんでいる。このフレッシュで素朴なレモネードはこの国に来てからのお気に入りだった。
「当時は宗教の力は絶対でした。カトリックへの改宗で民衆はドラキュラ公を非難します。しかし、それは王座につき、国を守るという目的のために理にかなった行動だったのです。それが理解できない民衆により、悪魔と噂されることもありました」
「ドラキュラ公は合理的な考え方の人物だったんですね」
「そうですね、今なら理解できますが、当時の感覚では異端者です」
異端者という言葉の意味がわからず、シュテファンがエリックに尋ねている。
料理が運ばれてきた。ひよこ豆のスープはきのこやじゃがいも、マカロニなどが入って具だくさんだ。トマトベースの爽やかな酸味がある。スプーンでさらえばひよこ豆がぽこぽこ浮かんできた。真っ赤なトマト、レタスにオニオンベースのドレッシングがかけられたシンプルなサラダに、サルマーレはルーマニア風のロールキャベツ。
「この店のサルマーレは美味しいですよ」
エリックもお墨付きのようだった。酢キャベツで挽肉やみじん切りのタマネギを混ぜたタネを包み、ブイヨンで煮込んだものだ。大きな皿に4つ、そしてママリガが添えてあった。
「うん、味がよく染みていて美味しい」
「うちでも良く作るよ」
シュテファンは料理もできるらしい。作り方をたどたどしい日本語で説明してくれた。一生懸命に話してくれる姿を見ていると、亜希は自分もルーマニア語を頑張ろうかなと思えてきた。
食事が済み、教会見学へ向かう。まずは広場に近い正教会へ。アーチを組み合わせた縞模様のインパクトが強い外観だ。両側に尖塔が立っている。教会内へ入ると、思わず感嘆のため息が漏れた。天井にたくさん並ぶ明かり取りの窓、両側のステンドグラスから入る自然光が神々しく教会内を照らしている。壁面いっぱいに色鮮やかなフレスコ画が描かれ、天井からは金色のシャンデリアがぶら下がっている。正面の背の高いイコノスタシスは、金色の枠に縁取られた宗教絵が描かれていた。ドーム内に響く祈りの声が荘厳な雰囲気を醸し出している。
「わあ・・・!!こんなすごい光景、見たことがない」
亜希は小声で呟いた。
「写真撮影でも可能ですよ」
エリックが小声で教えてくれた。エリックとシュテファンは祭壇の近くへ行き、十時を切っている。亜希はクリスチャンではないので、どこか美術的な意識でこの建物を見てしまう。しかし、祈りの場というのは特別な雰囲気があり、神聖なものだと実感できる。
廊下を隔てる柱が支えるいくつものアーチ、天井の窓の円、二階の窓のドームと上部のアーチが折りなす立体感と、非情に変化に飛んだ建築になっている。その壁面すべてに金色をふんだんに使ったイコンが描かれており、光を反射してまさに圧倒される。これまでの教会はカトリック教会だった。正教会は派手だな、と思わずにはいられない。
亜希は壁際にならぶ椅子に腰掛け、時間を忘れて天井を見上げていた。訪れる人は少ないが、皆胸に十時を切って敬虔な祈りを捧げている。ふと気付けば、エリックとシュテファンは入り口の柱の側で待っていた。
「ごめんなさい、つい見とれてしまって・・・本当にすごかった!」
教会を出て、思いのたけを2人に話した。2人はこのような教会建築は見慣れているのだろうが、外国人が観光に来てすごいすごいと喜ぶ姿は微笑ましいものらしい。
「感動しましたね、良かったです。もう一つの教会はここよりシンプルですが、地下にドラキュラ公ゆかりの人物の墓があります」
それを聞いて、亜希は興味を惹かれた。シビウという街は中世の街並みが素敵というアオリで観光ガイドブックには掲載されていたが、ドラキュラ公のゆかりの人物の墓があるとは知らなかった。
「ミフネア悪徳公、ドラキュラ公の息子です」
「悪徳・・・串刺し公に悪徳公ですか。親子でひどい言われようですね」
「そうですね、一族の他の者に溺れて死んだので、溺死公と呼ばれる人もいるそうです」
それも酷い話だが、死因が戒名になっているようなものか、と思った。
もう一つのカトリック教会は見事な尖塔を持つ建物で、街のランドマークになっているという。こちらはゴシック様式の教会で、高いコウモリ天井になっている。祭壇の高窓から漏れる光が神々しい。先ほどの正教会のように壁面に装飾はなく、シンプルな内装だった。一部、足場を造って工事中だった。ドラキュラ公の息子の墓は地下にあるという。入り口脇の階段から地下へ降りる。
階段の先は地下納骨堂になっていた。地上の教会部分とほぼ同じスペースで、明かり取りの窓があるため、地下でも1階部分と同じ程度には明るい。ここに納骨されているのは身分の高い人物らしく、壁面に見事な彫刻のパネルが並び、碑文が刻まれている。その中の一つがミフネア悪徳公の墓だ。パネルの脇にその墓の主の名と年号が記された紙がピン止めしてある。
「ミフネア悪徳公の墓はどこかな」
亜希は紙に書かれた名前を確認しながら歩いていく。年代は15―17世紀のものがほとんどのようだ。彫刻はドクロや騎士の甲冑など、いかにも西洋らしくてカッコいい。
「アキ、あったよ」
シュテファンが手招きしてアキを呼んだ。向かって右側の薄暗い壁の彫刻がミフネア悪徳公の墓らしい。彫刻は擦り切れてしまい、何が刻まれているのか読むことは難しい。装飾はシンプルなものだったようだ。凹凸はほとんど見られない。
「ほとんど読めないけど、話によればシビウで日曜礼拝に参加していたところ、殺害されたそうだよ」
「礼拝中に・・・なんだか御利益のない話ね」
「ドラキュラ公は、彼をよく思わないワラキアの貴族やトルコに寝返ったラドゥにより殺害されている。その後、王位を追われているわけだから、彼の息子を擁立させないために汚名を着せて殺した可能性もあるね」
「そうか、死人に口なし、後生の評価は勝ったものの手で作られるというわけね」
「当時の人の行動など、記録があってないようなもので、ミフネア悪徳公はじめ、ドラキュラ公の子たちはろくでもないあだ名がついている。本当にそういう人物だったのかどうかは誰も知らないというわけだ」
歴史を学ぶものは気をつけておかねばならない。




