シギショアラ 時計塔
「龍の紋章の本を持っていますか?」
エリックに尋ねられ、亜希は警戒しながらバッグから本を取り出した。エリックは取り上げたりしませんよ、と朗らかに笑っている。慎重な手つきでページをめくる。
「これが亜希がルーマニアに来るきっかけになった修道院の絵ですね」
「そう」
エリックは最初にページを戻した。中世の版画の独特な絵で龍が絡みついた太陽と月がそれぞれ描かれている。かっこいい雰囲気はあるが、抽象的でよく分からない絵だ。月は片方だけレンズがあるメガネのようなものをかけている。
「この本にはすべて意味があります」
「この絵、不思議ですよね」
「私にも意味が分かりません」
エリックは次をめくる。大きな尖塔のある城の絵が1ページに書いてあり、その次のページから文章になっている。何枚かめくると文字が極端にかすれたページがある。続いてめくっていくと、山の上に築かれた城の絵、文章が続き、白紙に近い状態のかすれたページ。そのあとも王宮のイラスト、亜希が気になった修道院のイラスト、最後は湖に浮かぶ小さな小島だった。かすれたページは定期的に現れる。
「この絵の場所はすべて存在します」
「そうなの?」
亜希は驚いた。修道院はルーマニアの北部に点在するものに似ているが、どれかを特定するものではなく一般的なものかと思っていた。
「そして、この空白のページも各場所の項目に一つずつ、たまたまこのページだけ劣化したのではなく、法則があると思いませんか」
亜希は何となく本をめくっていただけでまじまじと考えたことは無かった。そう言われると目からウロコな話だ。
「私の父はこの本の謎を解こうとしていました。しかし、その道半ばで本が盗難に遭ってしまった。今ここにあることは運命だと思います」
「謎解きをしていこうというわけ」
亜希はほんのちょっと、興奮しているのが分かった。子供のようにわくわくしている。エリックを完全に信じられるわけではないが、たまたま手にした本から奇妙な出来事がたくさんあった。大げさだと笑われるかもしれないが、何か運命的なものを感じた。
「この本に封印された龍の力の謎が隠されています。謎を解くことで封印を解き、龍の力を得られるのかもしれません。この本を狙う者たちの目的は偉大な龍の力です。」
「龍の力って、どんなものなの?」
「それは私にもわかりません。しかし、ドラキュラ公はその力を一度手にしながら恐れて自ら封印したとされています。そんなものがこの世に放たれたら、私はそうしたくはありません」
エリックは真っ直ぐ前を向いた。その瞳には強い意志を感じた。木々を揺らす風が亜希の髪を撫でてゆく。
「あなたは封印を守るという立場なのね」
「そうです。ああ、そろそろ行きましょう。時計塔が閉館してしまいます」
山上教会を後にして、エリックとともに階段を降りて旧市街に戻ってきた。そこから路地を通り、時計塔へ向かう。入り口には入館は3時までと看板が出ていた。今は2時過ぎ、まだ余裕はある。料金はエリックが支払ってくれた。
このシギショアラのランドマークである古い時計塔は14世紀に建造されたもので、市議会の議事堂としても使われていた。17世紀に作られたからくり時計は今も動作しており、機械仕掛けの人形が時を知らせる。内部は歴史博物館となっている。
「では行ってらっしゃい」
鉄格子のついた扉を抜けて時計塔の中へ入る。白い漆喰の壁に上階へ登るための黒木の急な階段がある。高齢の団体ツアー客がそろそろと手すりに掴まりながら登っているので渋滞していた。2階から上が小さな博物館になっていた。ガラスケースに中世に使われた計量機器や医療器具などが展示されている。階段が団体でつまっているので、亜希はゆっくりと見学することにした。時計塔は外から見ても細長い塔なので中も狭い。次の階には木製の家具や絵画が展示されている。置くものもないのでとりあえず置いた感じが強い。さらに上がると金属製の器などの生活用品が並んでいた。さらに階段が狭くなり、足を滑らせないように踏みしめて登る。すると暗い部屋に出た。
見れば機械仕掛けの人形が並んでいる。定刻になればこれが表に出て時間を奏でるのだろう。これがあるということは最上階だ。右手に外へ出る扉がある。扉を出れば、時計塔の周辺にテラスがついており、一周できるようになっていた。さすがに高い。
「うわぁ高いなあ・・・!」
亜希は高いところはあまり得意ではなかった。怖いので真下を見下ろすことはできない。手すりにつかまるもの怖くて、壁に沿って歩いた。木の床はミシミシと軋みを上げる。空はいつの間にかまた気持ちの良い青空に戻っていた。白い雲がところどころにぽっかり浮かび、中世のオレンジ屋根の街並みに相まって平和でのどかな雰囲気だ。亜希はへっぴり腰でカメラを構えた。横を物怖じしない金髪の若い女性がすれ違ったのでそれだけでヒヤヒヤした。街並みを写真に収める。どこを撮影しても絵はがきにできそうな風景だ。手すりには他の国の大きな都市の名前と距離が刻まれた真鍮のプレートがついていた。もしかして、と思って探せば東の方角にはTOKYOの文字を見つけて嬉しくなった。
西側は先ほどの山上教会が見えた。手前に塔があり、緑に囲まれて屋根と塔だけが覗いている。のんびりとした空気が流れる素敵な街だ。階段を降りるときもまたヒヤヒヤした。登るときはそうでも無かったが、降りるときにはさらに角度が急に思えた。さき程のご老人の一行は無事に降りられたのだろうか、すでに姿は見えなかった。塔から出ると、係員が扉の鍵を閉めた。亜希が最後の客だったらしい。エリックは木陰に佇んでいる。
「いかがでしたか?」
「高くて怖かった!でも眺めは素晴らしかったわ」
時計塔の鐘が鳴り響いた。3時を知らせている。エリックが亜希の手を引いた。
「こちらからからくり人形を見うことができます」
時計塔の真下の門を抜けて正面に立つ。観光客もみんな時計の文字盤を見上げている。文字盤の右側にある仕掛け窓から人形が出てきて明るい音楽が流れ出した。
「わあ、かわいいですね」
先ほど見た仕掛けが動いているのを見るのは感慨深かった。人形は5分ほど踊ったあとに時計塔の中へ消えていった。
「さて、ホテルへ案内しましょう」
エリックについて石造りの階段を降りてゆく。そのまま空き地を抜けて進むとホテルの裏口があった。オープンテラスのレストランで、現在は休憩中で、夕方5時からオープンと看板が出ていた。パスポートを出してチェックインを済ませる。このホテルは5つ星なんですよ、とエリックが教えてくれた。
「夕食はどうしますか?」
「できれば案内してもらえますか?1人ではちょっと心細くて」
シギショアラの街並みを見ていて治安に不安を感じるところはないが、ブラショフの街にいた白装束やラドゥに出会うのが怖かった。エリックを完全に信用しているわけではないが、ガイドの役目はきちんと果たしてくれる。それに彼らに怯えてホテルのレストランで食事を済ませるのも残念な気がしていた。
「いいですよ、シギショアラはライトアップもきれいです。良いレストランもありますから、一緒に行きましょう。何時が良いですか?」
「では、夜7時に、ロビーで待っています」
そう言ってエリックと別れた。まだ3時過ぎだが、ちょっと気疲れしてしまった。海外旅行に来たのだからめいっぱい観光したいという貧乏性な気持ちもあるが、約束の時間まで少し眠ることにした。




