シギショアラ カーサヴラド・ドラクル
「アキ、大丈夫ですか?」
しゃがみ込む亜希に声をかけたのはエリックだった。亜希は思わず叫び声を上げそうになる。ラドゥはエリックが龍の紋章の本を狙っていると言っていた。しかし、先ほど現れた謎の白装束を追い払ってくれたのもエリックだ。一体誰を信じればいいのか。恐る恐る顔を上げてエリックを見上げた。エリックはかがみ込んで心配そうに亜希の顔をのぞき込んでいる。
何も知らないふりをしよう、亜希はそう決めた。ラドゥの話は胸にしまっておくことにした。
「大丈夫です、びっくりして・・・あの人たちは一体?」
エリックは亜希の手を取って立たせてくれた。
「分かりません、この国であのような衣装は一般的ではありませんね」
エリックは不思議そうな表情を浮かべる。ごく自然に見える。エリックがわざと亜希を怖がらせるためにやったのではないか、と疑ってみるが彼はすでに本を手に入れているのだからそんなことをする必要はない。だとすればラドゥか?もしくはあの美女が?見知らぬ国でこんなことに巻き込まれるなんて。
「もう遅いです、ホテルに帰りましょう」
エリックにホテルの部屋まで送ってもらった。
「あの、何故あそこにいたんですか?」
亜希は思い切って疑問をぶつけてみた。亜希が外出したことはエリックは知らないはずだ。
「本を返そうと思ってドアをノックしました。一度返事がなく、少し時間をおいてもう一度、やはり返事が無いので心配で街に探しに行ったのです」
エリックはちょっと待ってと自分の部屋に戻り、亜希に本を返した。
「怖かったでしょう、何かあれば呼んでください。明日は9時でいいですか?」
「ええ、ロビーに集合で。ありがとう、おやすみなさい」
エリックの様子に不自然な点は無かった。もしかして本が偽物にすり替えられているのでは、とスタンドの光で確認してみたがそんな事は無かった。もう何がなんだかわからない。なぜ本を返したのだろう。エリックに下心が無いならラドゥが嘘を言っていることになる。
亜希は大きなため息をついた。静かな部屋に1人でいると今になって白装束に追われた恐怖感が現実のものとなって蘇ってきた。窓の鍵がかかっているか確認するため、震える手でカーテンを少し開けた。窓の外は古い町並みがオレンジの街灯に照らされ、幻想的な景観が広がっている。鍵を確認し、カーテンをしっかりと閉めた。
意外にも驚くほど熟睡していた。怖くて眠るまで寝返りを打っていたが、寝入ってからは起きることはなかった。カーテンをおそるおそる開けると、外は良い天気だ。着替えてビュッフェの朝食を済ませ、スーツケースの荷物を整理してエリックとの約束の時間にロビーに降りた。このホテルでも新鮮な野菜にスープが美味しかった。パンは相変わらず固いが、クロワッサンはサクサクして美味しかった。今のところ食べ物にハズレはない。
「おはよう」
エリックが爽やかな笑顔を向ける。ポロシャツにジーンズというラフな格好だ。
「よく眠れましたか?」
「はい」
「警察に行かなくていいですか?昨日は疲れていましたから言い出せませんでした」
そういえば、警察に行く頭は無かった。しかし、白装束の男達だったというだけで何も手がかりはない。暗いし怖いしで人相もろくに見ていない。アジア系だったような気はする。亜希は少し考えてエリックに答えた。
「・・・いえ、実害はないし、いろいろ聞かれて時間を無駄にしたくはないです」
「わかりました、では出発しましょう」
エリックは朝早くガソリンを満タンにして洗車をしてきたようだ。BMWの車体はピカピカだった。高級車には慣れないなと思いながら亜希はエリックのエスコートで助手席に乗り込んだ。
「今日はシギショアラへ向かいます」
「ドラキュラ公の生家がある街ですよね」
「家はレストランになっています。とても人気がありますよ。それに古い町並みはとても素晴らしいです」
ブラショフを離れる前にエリックは車を広場の近くに停め、黒の教会を案内してくれた。教会は閉まっており、中には入れなかった。大きなゴシック建築の教会で、黒と言われるのは爆撃で焼け焦げたからということだった。中には大きなパイプオルガンがあるという。門のところに音楽祭のチラシが貼ってあった。タイミングが合えば行ってみたかったな、と亜希はちょっと残念に思った。
怖い思いをしたものの、ブラショフの街は良い街だった。広場の近くのカフェで食べたパパナシは美味しかったし、ラドゥと待ち合わせをしたエニグマというバーはとてもユニークで面白い店だった。ブラショフを後にして車はさらに北上する。
「あのう、本のことですけど」
亜希は思い切って切り出してみることにした。
「何か分かりましたか?」
「大学生の友人がいます。そのつてで内容がわかるかもしれません。ラテン語です。それに古いルーマニア語も使われています」
「読めるとなれば気になりますね」
亜希の言葉にエリックは黙り込んでいる。何かまずいことを言ったのだろうか。
「アキ、これから言うことをよく聞いてください」
エリックが神妙な声で話し始める。
「あの本は私の父が所持していたものです。父はルーマニア革命の混乱を逃れて幼い私を連れて日本にやってきました。東京で東欧雑貨の店を開きました。あるとき、店が泥棒に入られました。お金やめぼしい商品が無くなっていました。そのときにあの龍の紋章の本も無くなってしまったのです」
「そんな・・・これは盗品なの」
エリックの話しぶりは真剣で、嘘をついているようにも思えない。ここからどう話を持ってくるのか、亜希は身構えた。自分の父の本だから返せというのではないか。
「あなたがその本を持っていることを知って、驚きました。日本からルーマニアへ再び本が帰ってきたのです」
エリックは穏やかな調子で話しを続ける。
「アキ、あなたは本に導かれてこの国に来ました。そして、ドラキュラの夢を見た」
「ええ、そう」
「あなたは本に語り部として選ばれたのです」
亜希はエリックの言葉にどう返していいのかわからなくなってきた。一体どういうことなのだろう。宗教の勧誘にでも遭っているような気分だ。車は田舎道をまっすぐに進んでいる。
「語り部って・・・」
「本があなたに語りかけています。龍の伝説、誇り高いドラキュラ公の物語を伝えるために」
「言っていることがよく分からないんですけど・・・」
「夢を見たでしょう。ドラキュラ公と紅い龍の夢を」
「なぜそれを・・・」
「この国には太古より生きる龍がいました。ドラキュラ公はその龍の力を手にしたのです。しかし、その力はあまりに強大で、制御することはできない。彼は息子たちに龍の力を封印するよう命じました」
「おとぎ話みたいですね」
「そう思いますか?封印された龍の力の謎はあの本に記されていると言われています」
亜希はバッグの中から本を取り出した。
「この本が・・・」
「私も父がなかなか眠らない私に教えてくれたおとぎ話だと思いました。しかし、本はここにあり、そして何者かがこれを狙っている」
亜希は白装束の男達、そしてラドゥの顔を思い浮かべた。
「あなたは私の本当のガイドなの?」
亜希は勇気を出してエリックに尋ねた。
「ブカレストでミハイから交代しました・・・もちろん彼には内緒で」
「えっ、それじゃあ」
亜希の顔に不安の影が落ちる。やはりエリックはガイドと偽っていたのか。逃げ出したい気持ちにかられる。しかし、言葉も通じない国で一体どこへ?
「私は父の意思を継いで龍の封印を守ならければならない。そのために本が必要です」
「・・・この本は返します。私をブカレストへ送ってもらえませんか」
修道院は見たい。しかし、得体の知れないエリックとこのまま行動を共にしたくない。
「あなたはドラキュラ伝説に興味があると言っていましたね」
「ええ、それは・・・」
そうだが、それどころではない。エリックの正気を疑っている。
「もし、あなたさえ良ければドラキュラ伝説を巡る旅にでかけませんか」
エリックの提案は唐突だった。この先のドラキュラ公の生家のある街、シギショアラから西へ向かい、ゆかりの地を巡るという。モルドヴァの修道院にも行く、日程はオーバーするがホテルの手配などは全部任せてもらったらいいとエリックは微笑んだ。亜希は休業中で、ルーマニアへの滞在が数日延びたところで困ることはない。先立つもの以外は。
「今は休業中で、日程が延びるのは構わないけどお金をそんなに持っていないわ」
エリックが観光地巡りを追加するといって後から大金を請求しないとも限らない。今はどんな可能性でも疑っておくほうがいい。
「アキは本を持ってきてくれました。心配しないで、追加の旅費は私が持ちますよ」
「そんないい話、あるの?」
「信じられないですか?」
「ええ」
「私は本当にアキに感謝しています。それに、あなたの夢には何かヒントがあるかもしれない。このまま一緒に旅ができたら嬉しい」
エリックは言葉を選びながら真剣に話してくれた。出発前に日本で見た紅い龍の夢の内容もエリックの話と合致している。どうする、亜希は逡巡した。
「もうすぐシギショアラです」
目の前にオレンジ色の屋根が連なる中世の町並みが見えてきた。世界遺産の町シギショアラだ。車を停め、坂道を登っていく。見上げるほどの立派な時計塔の下をくぐり、ドラキュラ公の生家だというレストランへ入った。




