第22話 答えは一つ
ベルナールから「結婚してほしい」と言われ、ラシェルの思考がなんとか目の前の出来事を消化しようとぐるぐると回っている。彼の眼差しは真剣で、とても冗談を言っているようには見えない。
確かに、ベルナールと結婚する相手は幸せになれると思った。ラシェルも、きっと彼と結婚すれば幸せなのだろうと、これまで過ごしてきた時間から思い描いている。けれど、けれど……
「妻ってことは、もう結婚ってことなんですよね?」
「そうなるな」
恋人飛ばしていきなり妻!?
確かに話の流れからすれば、ごく自然ではある。好きな相手が、自分と結婚した人は幸せになれるなんて熱弁していたら、それはもう自信も湧くというものかもしれない。
だとしても、ベルナールが自分を想ってくれていたことも、結婚したいとまで言ってくれるほどの想いであることも、「はい」とすんなり飲み込めない。「本当に?」と、あまりにも早すぎる展開に追いつかない頭が疑っている。
驚いた、けど……嬉しい。
私がずっと、ベルナールさんの隣にいても良いってことなんだよね?
なのに、心の方は全力疾走で追いついている。ふわふわと浮き上がるような、楽しい夢を見ているような現実感のない幸福感。思わず頬が緩みそうになる。いや、もう緩んでいるかもしれない。
けど、こういうときってなんて返したら良いんだろう?
謹んでお受けいたします、とか?
それとも、はい喜んで、とか?
「嬉しいです! もちろん結婚します!」
あれこれ考えた結果、追いついてない頭が変な言葉を口に紡がせた。言い放ったあとで、妙にがっついている感じがして死ぬほど後悔した。もっとかわいらしくて、オシャレな、気の利いた言葉があったはずなのに、と。
「あぁ……良かった、良かった……」
ベルナールの肩から、目に見えて力が抜ける。安堵のため息混じりの声からじんわりと嬉しそうなのが聞き取れて、ラシェルの胸の奥もじんと熱を持った。
和らいだ目元に、微かに潤んだ瞳。口元を覆う手の指の隙間から、彼が緩く微笑んでいるのが見える。一つ一つは微細な変化なのに、それらが重なって大きな感情としてラシェルへと伝わってきた。
「ラシェルさん、ありがとう」
ベルナールの腕がそっと伸び、背中へと回され、ふっと包み込むように抱き寄せられる。一気に縮まった距離、緩やかに伝わる体温に、ラシェルは緊張して少しだけ身を縮めた。
「それは私の方こそ、ですよ」
ラシェルは恐る恐る確かめるように腕を伸ばし、ギュッとベルナールの背中を抱きしめてみる。大きくて逞しい背中の感触を、腕全体で感じている。小さく吐息が零れ、自分のうるさい心臓の音までそのまま彼に伝わってしまいそうだった。
肩口に額を寄せると、ベルナールの手がラシェルの頭の後ろを滑る。手慣れていない、ぎこちなくて控えめな触れ方がくすぐったい。優しい手が撫でていくたび、薄い皮を一枚ずつ剥いでいくように緊張が薄れていく。気づけば微睡むように、ベルナールの腕の中で身を委ねていた。
「ラシェルさん……」
頭を撫でていた彼の手が離れ、すすっと指の裏がラシェルの頬をなぞる。その感覚につられて顔を上げると、想像していたよりも近く、自然と視線が絡み合う。
ベルナールの瞳が切なげに細まり、大きな手がラシェルの頬へと添えられる。手のひらから伝わる体温と、蕩けそうなほどの熱を灯した眼差しに体が火照っていく。
ぎゅうっと片腕で抱き寄せられ、触れていた指先が優しく頬を撫でたあと、その人差し指が遠慮がちに、ふにっとラシェルの下唇に触れた。その慎重に探るような仕草に、彼自身の優しさと内に秘められた熱量が滲む。
けれどその指がそろりと離れ、キュッと握りしめられて丸くなる。ぐっとこらえるように、ベルナールは唇を引き結んだ。
ベルナールさんって……こんな情熱的な人だったんだ。
もっとあっさりしてる人なのかなって、思ってたけど。
想像とは違っていた。意外だと言えば、ベルナールは良い顔をしないかもしれないが、ラシェルはその意外さを愛おしく思っていた。
自分からベルナールの頬に手を当て、目を伏せる。口づけをねだるようで、少しはしたない気もして恥ずかしかったが、ベルナールに「私も心からあなたを求めている」と示したかった。
微かに息を呑む声が、閉じられた暗闇に落ちる。躊躇うような気配がそっと近づき、柔らかく押し当てるように唇と唇が触れ合った。
衣擦れの音と共に、ベルナールの腕に深く抱き寄せられ、胸の奥がきゅうっと軋む。ただじっと重ねるだけの口づけなのに、熱くて、ふわふわして、不思議と息が細くなる。包み込むように優しいのに、緩やかに絡め取られ、水底へ沈んでいくような甘やかさを感じていた。
顔が熱い。絶対今、赤くなっているはずだ。結んでいた吐息がほどけ、ラシェルは照れて思わず俯く。ベルナールは何も反応を示さず、ラシェルの肩に触れる手の強張りが妙に気になって、こっそりと視線を上向けた。
ベルナールはどこかぎこちなく唇を引き結び、顔を軽く背けている。涼しくて余裕そうな表情に見えて、単に感情が表情に上手く出てこないだけだということはもう知っている。その横顔が、照れて気まずそうにしているように見えて、小さく笑いが漏れてしまった。
「こうして近くで見ると、ベルナールさんって表情豊かですよね」
「な……そ、う……見える、だろうか?」
「ふふ、見えますよ」
ほら、そういうところが。
一見涼しげな顔のくせに、言葉をしどろもどろと詰まらせながらようやく顔がこちらへと戻る。僅かに下がった眉、うっすらと影の差す菫色の瞳は少し自信がなさそうだ。
「ベルナールさん。私も、あなたの隣にいられたら良いのにって思ってました。だから今、すごく嬉しいんです」
「あぁ、さっきもそう言ってくれていたな」
「はい。何回でも、何回でも、言いたくなるくらいに」
肩に置かれたベルナールの手に、手を重ねる。彼の目が少しだけ丸くなり、唇が何かを紡ごうと小さく開いて……閉じる。
「私、幸せになります! ベルナールさんも、一緒に幸せになってくださいね。私、頑張りますから」
「頑張らなくても、傍にいてくれるだけで十分だ」
ベルナールは固く目を閉じると、緩やかに腕を背中へと回し、ラシェルの頬へ頬を寄せた。彼の指が縋るようにラシェルの服をそっと握りしめ、耳元で聞こえる呼吸まで微かに震えていた。
「ラシェルさん……今日はこのまま、泊まっていかないか?」
「え、ですが……」
今日は夜に解散して家に帰る予定だった。当然泊まるための準備なんてしてきていない。できることなら……このまま一緒にいたい。せっかく想いが通じ合ったのだから。とはいえ、ベルナールにアレコレ世話と迷惑をかけるというのも違う気がしていた。
「他意はない。ただ、君と離れたくないだけで。このまま……ここにいてほしい。どうか信じてくれないか?」
「あ、そこを疑ったわけじゃなくて、泊まる用意を何もしてきてなくて」
どうやらラシェルが渋った理由とは違うことをベルナールは考えていたらしい。正直頭をよぎらなかったわけではないが、彼なら無理に迫ることはないと信用しきっていた。なんなら“他意があってもいい”とさえ、少し思ってしまった自分がいた。
「そう、だったのか……服は俺のものを貸そう」
「大きさが明らかに合わないと思うんですけど?」
「縫って調整すれば、なんとかなるとは思う」
「さすがですね! じゃあ、今日は泊まっていきますね。へへ……たくさんお喋りできそうで楽しみですね」
「そうだな」
浴室を借りている間に、ベルナールはラシェル用に服の大きさをざっくりと縫って調整し、ある程度着られるようにしてくれていた。さすがに服のぶかぶか感は解消できていないが、腕や足の丈だけはちょうどいい長さに直してくれたようだった。仕事が早い。
食後の予定だったケーキは長い夜のお喋りのお供に変わり、温かな紅茶の香りと共に会話が続いていく。これまでと変わらない関係、けれど明らかに変わった距離感。二人で寄り添いながら、指先を絡めて分け合う体温の甘さに浸った夜だった。
* * *
「ラシェルさん、朝だ。もう朝食の準備も終わる」
「ん……ぇ、えぇ!? な、なんでもっと早く起こしてくれないんですか!」
「休日くらいゆっくり寝ていれば良いと思って」
「それはベルナールさんもですよ! って……私、いつの間に寝たんでしたっけ」
昨晩寝支度を済ませたあと、ラシェルとベルナールはどちらが寝室の寝台を使うかで押し問答していた。当然家主であるベルナールが使うべきというラシェルと、客人だからと譲らないベルナール。
『冬の夜は冷える。女性なのだから温かくして寝た方がいい』
『ダメです。男性でも冷えは大敵です。治癒術師ラシェル先生の言うことを聞きなさい』
『なら、なおのことラシェルさんが寝台を使うべきでは?』
『私の家に来たとき、ソファで寝ましたよね? なら今度は私がソファです』
『あれは理由があったし、夏だった。数には入らないと思うが……』
結局結論は出ず、ベルナールの提案でもう少し眠くなってから考えようということにして、二人してソファでくっついて座っていた。ぽつぽつと会話をしながら、ベルナールが毛糸を編んでいるのを眺めるうちにうとうとと睡魔が襲ってきて……
「あれ、ここは……?」
けれど、今ラシェルは寝台の上にいる。部屋の光景も違い、最後に見たソファやテーブルはない。
「俺の寝室だ。君が寝たあとに運んだ」
「じゃあ、ベルナールさんは?」
「予定通りソファで寝たが、何か」
何か、じゃないんだけど!
私またベルナールさんをソファに追いやったってことでしょ!?
体のどこかわからないところから呻き声が湧き上がり、頭を抱えてうずくまる。昨夜の論争を止めて保留にしたのも、最初からラシェルが寝たあとに寝台送りにするつもりだったからだろう。完全に作戦負けしている。こんなことなら「いっそ一緒に寝台で寝ます?」と提案すれば良かった。
「ぐぅぅ~……嵌められたぁ……」
「ははっ、人聞きが悪いな」
笑った!?
とっさに顔を上げると、くすぐったそうな笑みを浮かべたベルナールがすぐ傍にいた。彼は寝台に近づき、膝を折ってラシェルと目線を合わせる。すぐ目の前にベルナールの顔が近づき、少しだけ身構えた。
「なかなか起きてこないな。そんなに気に入ってくれたなら、もういっそここに一緒に住まないか? 職場からも近いし家賃もかからない。悪くないと思うが」
「…………え?」
こ、これは間違いなく『閃雷のベルナール』ですね!?
即断即決の行動力に、小隊長感出しすぎなんですけど!
「私、まだ夢を見てるんですかね?」
「見ていないが」
そうして小さくふっと息を零し、ラシェルの頭を撫でてベルナールは立ち上がる。「ゆっくり支度してから来てくれ。キッチンで待ってる」と言い残して、風のように去っていった。
「えぇ……本当に……?」
ベルナールからの告白すらまだ消化しきれているか怪しいのに、さらに飲み込みきれない提案が振ってきた。ラシェルは身支度をしながら、彼の提案になんと答えるか思案し続けていた。




