第19話 空白に君が埋まる【ベルナール視点】
窓の外、青かった空は夕日に染まり、柔らかな茜色へと変わっている。暗くなる前に、ラシェルは自分の家へと帰っていった。
選んだお菓子を共有して、紅茶を飲んで、会話は緩やかに続いた。手芸で作ったものを見てみたいと言うラシェルに、保管してあるものを持ってきて見せた。作ったもの一つ一つに丁寧に触れ、編み目が揃っていることや刺繍糸の色選びなど彼女の目線で気づいたことを言葉豊かに褒めてくれた。
けれど、もうラシェルはここにはいない。先ほどまでの温かな空間が、嘘のように静まり返っている。耳が痛くなるほどの静寂が、一人の日常が帰ってきたことを告げていた。
ベルナールは茶器と小皿を洗って片づけ、テーブルを拭くために部屋へと戻る。夕日の差し込む部屋に、空虚な秋の冷たい夜風が吹き込む。ほとんど誰も座らないソファを見ると、何かが欠けてしまったような物足りなさを感じる。
『偶然ですね。私もです』
ラシェルの素直な言葉に引き込まれるように、伝えるつもりのなかった言葉が零れた。まっすぐで、透明で、だからこそ隠すことが後ろめたく感じられて、ついラシェルに話してしまう。
ラシェルの傍は落ち着く──その言葉に同意してくれた彼女に、夢を見てしまった。
甘いお菓子に、熱い紅茶を用意して。ラシェルはそれをゆっくり楽しみながら、ぼんやりと空を眺めていて。その隣で、自分は刺繍を刺している。会話はあってもなくても良くて、ただ傍で同じ時間を過ごして寄り添っていたい。そんな光景を一瞬の間に、抱いていた。
ラシェルのティーカップが置かれていた場所に手を添えても、もうそこに温度はない。けれど微かな記憶の名残りが、ベルナールに囁きかける。
もっと一緒にいたかった。
一緒にいて、心地良かった。
もっと笑うところを見ていたかった。
ラシェルの隣は、息がしやすい。だから無意識に思いを寄せてしまう。
そんなことを望むなんて……図々しい。
この関係の始まりは、ベルナールの依頼に応えてくれた彼女の善意からだった。金銭的な負担はこちらで肩代わりできても、誘えば誘うほど時間的な拘束は増えていく。負担に思われたくない……そんな思いがギリギリ心に歯止めをかけていた。
『……あの、もし良ければ、これからは私からも誘って良いですか?』
ラシェルのあの言葉に、壊されてしまった。もう自身が“趣味”や“楽しい時間”という言葉では片付けられないほどの想いを、彼女へ向けている自覚はあった。
ベルナールにとってラシェルとの時間は、いつの間にか何物にも代え難いほどに大切なものになってしまっていた。それはもう、引き返せないほどに。
その想いは一方通行で、彼女が向けてくれる『大切』とは、色も温度も異なる。それがもどかしくて、胸が引き絞られるように痛む。
街を歩いていれば、普通に恋人同士の二人や夫婦とすれ違う。そこには、同じ想いを抱いて通じ合えたという事実が当然のようにあるのに、自分事となると途端に奇跡のように遠のいてしまう。
想いを告げたら、結ばれるものなんだろうか。
いや、そんなわけがない。
言ってしまったら……全て終わってしまうかもしれない。
ラシェルに知られないように、想いは深く底の方へと沈めてしまおう。幸い表情筋が死んでいて、感情は顔に出にくい方だ。少しでも長く、長く……彼女と過ごすささやかなひとときを独り占めしていたい。
だが、ラシェルさんに恋人ができれば、結局は終わってしまう。
それは……嫌だ。
ラシェルさんを放したくない。
強欲で脆弱な自分が、際限なくラシェルを求めてしまう。善意から始まり、彼女の時間、友人としての好意まで手に入れた。それで満足すれば良いのに、ベルナールの心は一つ手に入れるごとに次を欲しがるようになっていた。
心が欲しい。同じ想いが欲しい。触れたい。触れてほしい。もっと彼女の時間を自分のものにしたい。けれどそんなものは、ただのひとりよがりだ。
無理に繋ぎ止めて、奪って、ラシェルさんの幸せはどうなる。
朗らかに笑うラシェルから、笑顔を奪う。ベルナールにとっては、この上なく罪深いことだった。
* * *
自分からも誘っていいかと尋ねてきたラシェルは、後日早速ベルナールに休日の約束を取り付けてきた。片手にはザクロのパウンドケーキ、もう片方の手には毛糸とかぎ針の入ったカバンを持って、ベルナールの家へと訪ねてきた。
前と同じ部屋へ案内し、パウンドケーキと紅茶の準備を済ませる。すると、ラシェルはテーブルに以前ベルナールが贈った羊のぬいぐるみを置いた。確か角のない方がレモニーで、角のある方がクランという名前だったはずだ。
「最近寒くなってきたんで、セーターの上から着られる外套を毛糸で編んであげたらかわいいかなって思ったんです。けど、あまりにも才能がなくて、本を見ても何も進まず……」
ラシェルがカバンから取り出したのは、かぎ針と毛糸、編み物の基本が書かれた本だった。毛糸は何度もやり直したのか、端から一定の長さまでが少しほつれ、ぐにゃぐにゃと癖がついている。こうなってしまうと一から綺麗に編むのは難しく、編めたとしても綺麗には仕上がりにくい。
「ご指導のほど、よろしくお願いします」
「そんな大げさに頭を下げなくていい。まず、その癖のついた部分の毛糸は切って捨てよう」
「……切りました!」
ラシェルは言われた通りに毛糸を切り、癖のついた部分を捨てる。手にしたかぎ針や毛糸の選び方には問題がない。恐らくそこは手芸用品店の店主に聞いてから買ったのだろう。
「まず作り目を編む」
「作り目」
ベルナールは自身のかぎ針と毛糸を用意し、手元を見せながらゆっくりと編む。ラシェルはギュッと眉間にシワを寄せると、首を傾げ、自身のかぎ針と毛糸を持ってベルナールの隣に腰を下ろした。
「すみません。反対から見ててもワケがわからないと気づきました」
急に距離が縮まり、肩が微かに触れた。そこから彼女の体温が伝わってくるせいで、妙に体が強張る。ラシェルはそんなこと意識もしていないのか、かぎ針と毛糸の先を掴んだまま、小さく口を開きっぱなしにして食い入るようにベルナールの手元を見ていた。
「あ、あぁ~……なるほど。やっぱり本より実際の動きを見る方が感覚的にわかりやすいですね! こうですね!」
「違うな」
「え……あ、本当ですね……ほどけちゃった……」
想像していた以上に、ラシェルは編み物には向いていない。やはり人には得手不得手があって、苦手なことは頭も体もなかなか覚えてくれず馴染まない。ベルナール自身の経験から言うなら、弓の扱いがそうであったように。
編み目をほどき、ラシェルの拙い手元が探るような慎重さで最初の一目を編む。最初さえできてしまえば、少しの間は引っかけて穴へ通すだけの簡単な作業になる。
ラシェルは今自分の編み方が合っているか、手を止めてはベルナールの手元を確認し、同じようにかぎ針を通していく。そうして最初の作り目の部分が終わった。
「次からは編み方が変わる」
「変わるんですか!?」
編み物は必ずどこかで折り返していかなければならない。そうでなくては、できるのは鎖状の細い毛糸の紐だ。
「待って待って! 今、何しました!?」
「何と言われても、この目にかぎ針を──」
「どの目ですか? これですか?」
「いや、そこではないな」
「ひぃぃ~、編み目だらけで目が滑る……! 蝶の目みたいになりそう!」
「複眼か」
ラシェルの独特の悲鳴がおかしくて、かわいらしくて、思わず笑いが零れそうになるのをこらえる。彼女は真剣なのだから、笑ってしまっては申し訳ない。
ラシェルはボンッとソファに背を預けると、天井を仰いで細く長く息を吐いた。この調子だと、一人で家で編んでいたときは相当数天を仰いだことだろう。
編み物は細かい作業の反復でもある。慣れないことに挑戦して、精神的にも体力的にも疲れてしまうのも仕方ない。
「最初からベルナールさんの力をあてにして作ってもらうのはおかしいなって、自分でやろうって思ったんですけど……なんか、余計に面倒臭いことになっちゃってますよね。結局、ベルナールさんの力をあてにして教えてもらってますし」
ふっと息を漏らして、ラシェルは弱々しく笑っていた。けれど目は、諦念を宿して悲しげに潤んでいる。思ったようにいかない悔しさと、誰かに助けられるしかない無力感に苛まれた心が、影の差した笑みに滲んでいる。
「もっとあてにして、頼ってくれていい。作ってほしいなら作るし、作ってみたいならいくらでも協力する。だから……そんな悲しそうにしないでくれ」
「そんな悲しそうに見えました?」
「俺の気のせいなら、それで構わない。けど、俺は面倒だとは思ってない。気に病まないでほしいと言いたかった」
ラシェルは目を少しだけ丸くし、何も言わずにベルナールをじっと見つめた。音もなく絡み合った視線に、ジリジリと灼かれていくように胸の奥が熱い。けれど変に逸らしても、その違和感から想いが漏れてしまいそうで……怖かった。
「よし! パウンドケーキ食べて、もうひと頑張りします! 出来の悪い生徒ですけど、よろしくお願いしますね、ベルナール先生」
「出来の悪い子ほどかわいいという言葉もあるらしいからな。確かめてみるのも悪くない」
ラシェルは気合いを入れたのか袖を軽くまくると、ザクロのパウンドケーキを一口口にし、紅茶を飲んで一息つくと、またかぎ針を握った。




