第11話 私のせいで
気ままな羊たちをのんびりと眺めて過ごしていると、遠くで雷の鳴る音がした。空を見上げると、北の空に暗雲が重く垂れ込め、山が霞んでいるのが見えた。
「天候が荒れる前に帰った方が良さそうですね」
「そうだな。父君と母君に挨拶してから帰ろう」
小屋の掃除を終えて休憩している父と母に帰ることを伝え、ベルナールと乗り合い馬車の停留所へと向かった。停留所には担当者とラシェルとベルナールしかいない。停留所内に備えつけられた長椅子に座って馬車の到着を待っていたが、予定の時間を過ぎても来る気配がなかった。
そうしている間に空は掻き曇り、ポツポツと降りだした雨もすぐに雨足が激しくなった。耳を塞がれるような雨音。急に気温が下がり、湿り気を帯びた冷ややかな風が水しぶきを伴って停留所内に吹き込み、足元を湿らせていく。
「この様子だと、馬車はどこかの停留所で足止めを食らってるかもしれないな」
雨音に掻き消されそうなほどの、ベルナールの小さな呟き。本来なら馬車に乗って日帰りで王都へ帰れるはずだった。なのに、予定は大きく狂い、到底今日中に王都へ辿り着くことは叶わない。少し前までの楽しかった気持ちも、血の気と共に引いていく。
どうしよう……このまま帰れなかったら、明日の仕事に穴が空く。
私はともかく、ベルナールさんの迷惑に……
「日帰りで帰れるなんて、軽率なこと言ってすみません……まさか、こんなことになるなんて……」
「天候ばかりは仕方のないことだ」
「ですが、ベルナールさんがうちに羊を見に来てたってバレたら……!」
せっかく趣味を隠してきてるのに。
みんなから持たれている印象を壊さないように努力してきたのに、それが私のせいで壊れるなんて。
「……別に、知られても不都合はない」
「え?」
羊を見に来てたって知られたら、印象変わっちゃうかもしれないのに?
それが私の実家だってバレたら、男女の仲だって勘繰られて根掘り葉掘り聞かれるかもしれないのに?
人に囲まれたり、騒々しくされるのは得意じゃないって言ってたのに……どうして?
本当に不都合がないのか勢いで尋ねようと口を開きかけたとき、停留所の担当者が声をかけてきた。
「お客様、申し訳ありません。土砂崩れで道が寸断されて来られないと、電報が入りました。今日はもう馬車が来ません。何卒ご了承くださいませ」
「わかり……ました……」
開きかけた口は、ただ現状を飲み込む短い言葉に変わった。勢い任せに尋ねようとしたことも、もうどうしようもない。馬車は来なくて、王都に帰れないのが現実だ。むしろここから、どれだけベルナールに損害が出ないようにするかを考えるべきだと、うじうじした思考を振り払った。
「どうしますか? もう今日中に帰るのは無理みたいですが」
「そうだな……」
それまで雨が降りしきる空を見上げていたベルナールの視線が、そっとこちらへと注がれる。菫色の柔らかな色の瞳に、薄暗い外の光が仄かに差している。濡れた紫水晶に似た透明感でラシェルを映し、じりじりと糸の先を炙るような眼差しで見つめられていた。
何を、考えてるんだろ?
やがてゆっくりとまばたきが下りると、ベルナールは小さく口を開く。その視線は王都と反対、山のあった北の方へと向けられた。
「俺は明日朝、崩落のあった現場へ向かう。どちらにせよ、どこかの隊が派遣されるだろうから。君は出勤時間には間に合わないだろうが、乗り合い馬車で帰るといい。恐らく王都発の馬車が折り返し運行するはずだ」
ベルナールは特に焦りも見せず、淡々と今後の方針を提案した。この方法で帰る時間や方向をズラすことで、一緒にいたことをできるだけわかりにくくできる。落ち着いていて、的確で、彼の無表情がこれ程に頼もしく感じられたのは初めてだった。
「ふふ……さすが、機動小隊の隊長って感じですね。あんなに焦ってた自分が、今では不思議なくらいです」
「そうだな。任務に出れば、不測の事態はいくらでもある。このくらい、どうということもない。とにかく、ラシェルさんの気持ちが落ち着いたなら良かった」
表情に乏しくて、安心させてくれるような笑みはない。けれど声色は優しくて穏やかで、眼差しは十分に温かい。
「あの、今晩はうちに泊まっていってください。何もない家ですけど、そのくらいは責任持たないと罪悪感で消えそうです」
「あぁ、なら世話になる。ご両親にも改めて頼まなくてはな」
「そんなことさせられません! 頼むのは、私がやりますから!」
「君が頼むにしても、世話になる身として最低限の挨拶はさせてくれ」
確かに泊まるとなれば、ラシェル自身も当然相手には挨拶をする。とはいえ、ベルナールに肩身の狭い思いはさせたくなかった。無意識に膝の上の拳を固く握りしめると、ふわりと上から何かを被せられた。
微かに、ベルナールから時折香る鉄と森を合わせたような匂いがする。彼を見ると、いつの間にかシャツだけになっており、自分にかけられたものが彼の上着であることに気づいた。
「雨足が少し弱まってる。走れそうか?」
「あの、これは……?」
「多少の雨避けにでもなればと思って」
「そうしたら、ベルナールさんがびしょ濡れになっちゃうじゃないですか! そんな薄着で体冷やして、体調崩したら……」
こちらは本気で心配しているのに、あろうことかベルナールは「ははっ」と息を吐くように小さく笑った。ありありとわかる笑顔ではない。口元の変化もごく僅かだ。けれど表情筋が死んでるはずの彼の普段を知っているからこそ、なぜかくすぐったそうに細めている目元が妙に強く印象に残った。
そ……そんな感じの笑い方も、するんだ?
「さっきも言ったが、俺は騎士で小隊長だ。雨に降られた任務なんて数え切れないくらいある。もう慣れてるから、あまり気にしないでいい。ここは、『お言葉に甘えて』と言ってくれると助かる」
「お……お言葉に、甘えて……」
「なら、行こうか」
差し出された大きな手を取り、もう片方の手で頭にかけられた上着を押さえて立ち上がる。導かれるように停留所と外の境界に立つと、地面に打たれて跳ね返る雨に静かに足が濡れた。
「走るぞ」
「はい……!」
雨足は最初の頃より弱くなったものの、まだまだ大粒の雨が降り続けている。雨は上着を叩き、風のせいでバタバタとはためく。ベルナールは上着が飛ばないよう目深に被せてラシェルの肩を抱き、歩調を合わせながらも背中を押すように走ってくれた。
その腕から伝わる体温が、雨で冷えていく体に熱く染み込んでくる。それがあまりにも心強くて、彼が騎士として誰かを避難させるときにもこうしているのだろうなと、その光景が見えたような気がした。




