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第九話エーテル

 脇目も振らずひた走るハネだったが、横から出された細い足に足をひっかけて前のめりに倒れた。首にさげていたハードケースがはずれて転がる。

「クソ、なにしやがる」

 這いつくばった格好のハネの前で、白く細い指の手がハードケース拾い上げる。

 あわてて立ち上がったハネが相手を見る。セーラー服の幼顔に、

「あっ、おまえはニャロメ」

 バシッ、強烈なビンタがハネの頬を打つ。

「イッテー、サロメだったか」

 手の跡ができたかと思うほど、ヒリヒリする頬をさする。

 紅河サロメは、そんなハネになど目もくれず、ハードケースを子細に調べる。セーラー服のポケットからカード型の電子機器を出して、ケースのロック部分に当てる。しばらく電子音が鳴って、カチッ、ロックのはずれる音がした。

「さすがセナ、いい仕事してるわ」

 サロメはケースを開ける。

「それは俺が預かったんだぞ、勝手なことをするな」

 ハネの抗議など意に介さず、サロメはケースの中を見る。衝撃から品物を守る低反発の敷物の上に二本の瓶があった。大きさは滋養強壮とかのドリンク剤の瓶ぐらい。内容量百ミリリットルぐらいか。サロメはラベルを読んで一本を取ると、ケースをハネに投げ返した。

「ソレがなんなのか、知ってるのかよ」

「エーテル。フィジカルサイバーになる薬よ」

 サロメは蓋を開ける。蓋は瓶からはずれない。ねじると変形して飲み口が開く仕組みで、一度開いたら閉じることはできない。

「そんなの飲んで大丈夫なのかよ」

「私は、死んでも強くならなきゃいけないの」

「死んだら強くなれんぜ」

「強くなれなきゃ死ぬしかないの」

 サロメはエーテルを飲み干した。彼女の捨てた瓶のラベルには、「上忍半蔵」の文字があった。

「なんともないのか」

「今のところは・・来たかも」

 サロメの顔が緊張して、と、その体が黒い衣装に包まれてゆく。セーラー服を着ていたのが、瞬く間にメタルな質感の黒装束となった。フィジカルサイバーには様々なタイプがあり、ゲームのキャラクターみたいにジョブとして区別される。公園で暴れていたのはソルジャー。攻撃力と防御力のバランスの取れた、オーソドックスなジョブだ。そして今、サロメが変身したのは忍者である。ただし忍者といっても、時代物のドラマに出て来るような黒装束ではない。タイトなボディスーツに身を包み、頭部も黒く覆われて、忍者の装束をモチーフにした、近代的でスタイリッシュなブラックスーツといった感じだった。

 トータルサイバーバースはブラックノヴァが異次元空間に構築したシステムで、ブラックノヴァそのものは、遥か彼方の超高度文明の産物。そちらの世界に忍者や、中世風のアーマーを装備したソルジャーなどの存在するはずもなく、トータルサイバーバースは、地球の歴史や文化に合わせて、ローカライズして構築されている。ブラックノヴァのインテリジェンスであれば、地球上のあらゆる地域の歴史や文化に精通するのに、それほど時間もかからないだろうし、映画やゲームなどのコンテンツを参照するのも容易いことだ。ただ、これはトータルサイバーバースの存在が世に知れ始めた、百年近くも前に流れた、都市伝説のような噂なのだが、トータルサイバーバースの構築には、あるゲームクリエイターが関わっていると言うのだ。そのゲームクリエイターについては、名前はもとより、国籍、性別、年齢、他一切の情報が不明であった。これは当然のことで、もし事実なら、そのゲームクリエイターに関する情報は最重要機密となり、片鱗とて巷に流れるはずもなく、デマであるのなら、そもそも存在してないのである。そしてその噂は歳月に埋もれ、忘れ去られたのである。

「いったいどうなってるんだ。セーラー服は」

「さあ、いまは、コレの着心地があるだけよ」

 顔は覆面となり、凛とした目もとだけがあらわだ。靴もスニーカーだったのが、ブーツ状のものになっている。

「不思議だよな。スカートとかどげなっちょる」

 じろじろ下半身に目をやるハネに、サロメの蹴りが飛んだ。

「いちいち痛いな。なにしやがる」

「イヤらしいんだよ」

「俺は純粋に好奇心から、この不思議な現象を観察してただけだろうが」

「フン」

 サロメは鼻であしらい、身を包むコスチュームに意識を向けて、背中へと手をやる。忍者コスチュームの背中には大刀の備わっていて、ソレを抜くと、細身の少女の背中にあったには大き過ぎるほどの太刀であった。そしてなんとも異様な造形をしていた。それは仏教彫刻の、剣に蛇が巻き付いた様を現す倶利伽羅を思わせる造形で、アートな雰囲気をたたえてはいるが、およそ物が切れそうには見えない。刃物の鋭さはどこにもないのだ。それでいてソレは、武器として、禍々しさの怖いほどであった。

「なんだよソレ」

 ハネも目を瞠る。

 十数メートル離れたところに人の背丈ほどの自然石が立っていた。オブジェとして置かれて、景観の中でそれなりの存在感を放っていたが、サロメの目には無用の長物。近づいて刀を振りかぶる。そして太刀風一颯。なにか、空間が歪んだようなゴツいまでの波動が起こり、ゴトン、重量物の落ちる音がした。石は斜めに断ち切られ、メタボな男の胴体ぐらいある断面は、磨きこまれたように滑らかな光沢を放ち、切り落とされた片割れが、ずっしりと地面に据わる。凄絶なまでの切れ味である。

「スゲー」

 興奮したハネは、

「俺もサイバーになって、ヨシキの仇を討ってやる」

 ケースに残っていたもう一本の瓶を取り出して、一気に飲み干した。

「なんか、鉛を飲んだみたいな感じだぜ」

 顔をしかめたハネがラベルを見ると、「下忍佐助」とあった。

 突然、ハネを強い痙攣が襲った。

「母さん、悪い、先、逝きそうだわ」

 そんなことを口走って倒れたハネは、白目をむいて、気を失っていた。

 サロメはまず大刀を、背中の鞘に収めた。初めての動作なのによどみなくしてのける。収めた大刀は鞘ごと背中から消えた。そしてハネを背負う。こんな細身の女の子が、同学年の男子を簡単に背負えるわけはないが、忍者コスチュームは彼女に、屈強の大男もひしぐほどの膂力を与えて、軽々としてのける。そして気を失ったハネを背に、マラソン選手並みのスピードで走り出したのである。

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