玲先生の提案
「お母さん?」
娘がわたしを呼んだ。短い時間だったが思考の海に飛び込んでいたので危うく聞き逃すところだった。
わたしでさえ、この娘の感情を把握できなくなって久しい。おそらく一年前からは完全にわが子とは対等の向き合いをしているはずだ。
そのくらいの確固たるしっかりとした人格を娘は身につけてきた。
…つまりは大人になった。
「どうしたの?」
心配そうにわたしの瞳を覗き込む。
ううん、と首を振り
「幸平くん、好きよね?」
今さら何を言うだとばかり、不思議そうに
「まさか…お母さん…幸平のこと」
そうではなかった。
まだまだ子供だ。
・・・
わたしの周りには幸せが溢れている。東京での一年ちょっと前まででは考えられないことだ。
母は療養中ではあるが、それなりに体調は安定している。そしてお披露目会となったこのお店の向かいのビルで、なかよし水泳会の代表としてこれからは働くことになる。
母と話しているのは相原浩一さん。コーチと呼ぶべきなのだけど、母のこれからの仕事のサポート役で相原さんとお呼びしている。
実に優しい方で、奥さまも元選手。子供さんには数度会っただけだけど、とても可愛らしい女の子だ。
そして光太郎。まだ背が伸びていて、女性としては大柄のわたしよりさらに頭一つ高くなった。幸平くんはうらやましげに時々そのことで弟をからかっている。そんな弟の横には結菜がいる。
あれだけの美人がどうして弟なんかを気に入ったのか不思議だけど…強気な性格なのに繊細で気遣いができる点は三姉妹でも一番薫さんに近いのではないかと密かに思っている。
棘のように刺さった心の内のわだかまり。
売春をして糊口をしのいだ過去が、わたしは幸せになる権利などないのだと、いつも一歩後に引かせてしまう。
あのことを打ち明けたのは、千種ちゃんと幸平くん…そして玲先生だけだ。
死ぬまでこの思いを抱えて生きて行くことになるのだろう。
…漠然と思っていた。
さっきまで。
玲先生と2人きり。
先生はこう言った。
留学する気はないか、と。




