その二十八:過去視の光景
どこまでも赤黒い闇がつづく世界で、レディ・ドルリスとレディ・エルデリットは宙にたたずみ、下方を見下ろしていた。
そこに丸い光があった。
ルビーは、その光をめざして走っていく。ふさふさしっぽの先まですべてが光の中へすっかり呑み込まれたのを見届けて、レディ・ドルリスは、長いしっぽをサッと振った。
光のかたまりは、ふっと消えた。
「これでルビーさんが過去の悪夢に引き戻されることは二度とありません。いまはふつうの明るい夢の世界で遊んでいましてよ」
「陛下、ほんとうに、なんとお礼を申し上げて良いのか……。これであの子は新しい猫生を歩めますわ」
レディ・エルデリットは涙ぐんだ。
「ホホ、臣下の幸福を守るのはわが尊き義務。お礼なんていりませんわ」
レディ・ドルリスはしっぽを優雅に左右に揺らした。
「いいえ、わたくしの心からの感謝を、陛下。わが血筋の赤い瞳の魔法猫の忠誠は、永遠に魔法猫の女王のものでございます」
レディ・エルデリットはぴしりと前足を揃え、最上の礼を取った。
「ホホ、あなたの忠誠はよく知っておりますもの。いったいなにを疑いましょうや。では、わたくしたちの仕事にかかりましょう」
「御意。……して、どのようにして敵の正体を探られますの?」
「これからその謎を解く鍵を、ルビーさんの記憶の海から探すのですわ」
レディ・ドルリスがしっぽをサッと優雅に振ると、前方の赤黒い闇の一部が、そこだけ丸くくりぬかれたように真っ黒になった。
「さあ、いきますわよ!」
「御意!」
レディ・ドルリスは黒い凝りのなかへ飛び込み、レディ・エルデリットは遅れず続いた。
二匹は夜空を流れる流星のように駆けた。
「ここはルビーさんの記憶の底。過去においてルビーさんの心を傷つけた、悪夢のような出来事が保管されているのです」
ルビーの〈記憶の回廊〉だ。ルビーが生きてきた記憶が、川の奔流のようにとうとうと流れていく。
それらひとつひとつは、映画のワンシーンをとどめたパネルのようだったが、視線を止めれば、そこに封じられたエピソードが始まる。
「あら、それはすっかり浄化してくださったのではありませんの?」
「浄化され、整理されるのは、完全に消滅することではないのですわ。つらい記憶も良い記憶も、すべてはルビーさんの猫生の大切な経験。それは本棚の本を整理してきちんと並べるようなもの。いまやっと、本来あるべき形にすっかり落ち着いたのです」
レディ・エルデリットは背後へ流れていく記憶の奔流を眺めた。
いま、女王とレディ・エルデリットは過去へと遡っている。記憶の回廊に保管されているルビーの映像は、どんどん幼くなっていく。
と、目を留めた刹那、その記憶の場面は、幼いルビーがノラの雄猫に猫パンチで吹っ飛ばされるところだった。
レディ・エルデリットはギョッとした。助けられなかった我が娘猫はどれほどむごい半生をおくらされてきたのかと思うと、身を切られるように辛く感じた。
「陛下、あまりにもつらい記憶は思い出すのもつろうございます。すっかり消してしまう方が良いのではありませんか?」
「それは内容にもよりますわね。転生の際に不要なら完全消滅させますけど、それはまた別の時間のお話ですわ」
そういった記憶は、喩えるなら、不用意に触れば火傷する燻った熾火ではなく、きちんと消された焚き火の跡のようなもの。
そこには大きな炎を燃やした痕跡があって焚き火をしたとわかるけれど、痕跡を調べて大きな炎を想像したって火傷はしない。
「ルビーさんの心の傷は恐ろしく深いものでした」
走りながら、レディ・ドルリスは周囲を見回した。
「このどこまでも暗い世界をご覧なさい。果てしない赤黒い闇の世界は、ルビーさんが暮らしてきた日常の色なのですわ」
「まあ、こんな恐ろしい色合いが日常の色なんて……! では、レディ・クラリッサという方は、可愛がるどころか、ルビーを憎んでいたのでしょうか」
レディ・エルデリットは眉間に縦皺を三本寄せた。
「もし、レディ・クラリッサがルビーさんに執着する強い理由がなければ、ルビーさんが大きくなるまで育てなかったでしょう。面倒になった時点で放り出したと思いますわ」
猫だってさまざまだ。自分が生んだ子猫を忘れて去る猫もいれば、母猫であっても、育児放棄する猫だっている。
「しかし、陛下。たとえ盗んだ子猫でも、我が子とすれば可愛らしさは格別なもの。母猫としての本能で、子猫を守っていたのではありませんか?」
「いいえ。ルビーさんのお話と様子をうかがうかぎり、ルビーさんは道具のように扱われ、さんざんこき使われていたようです。それでも一緒にいたのは、もっとなにか強い理由があって、ほかならぬルビーさんを選んで、あなたの元から連れ去ったのですわ」
ルビーが攫われたのは、生まれて間もないころだった。まだろくに身動きできない似通った赤子の兄弟姉妹といっしょに、母の産室にころころ転がっていたのだ。
そこからルビーだけを選んで盗み取った誘拐犯には、明確な意図があったに違いない。
「それもそうですわね。大切だから傍にいたわけでないなら、たしかに謎ですわ」
レディ・ドルリスがくっと顎を上げた。
「あれですわ!」
前方の一角がうっすら白く光っている。
「さきほどルビーさんが思い出していた、もっとも印象に残っていた記憶ですわ」
それは幼いルビーの視線から見た映像だった。淡い光のなかに浮かぶきれいなお家。
ルビーはよく覚えていた。いちばん親切だった、忘れられぬ人間の家だから。
ルビーだって、レディ・クラリッサから逃げようとしたことがあったのだ。
その親切な人間の家は大きくて広くて、とてもきれいで頑丈だった。
たまたまレディ・クラリッサは出かけていて、家の前にいたのはルビーだけ。
その家の人間はルビーを迷子の子猫だと想い、ためらいなく「うちの子になる?」とルビーに訊ね、ルビーが「にゃん!」と返事したら、その人間は即座にルビーの保護者になると宣言した。
レディ・ドルリスとレディ・エルデリットはルビーの記憶の中の家を眺め回した。
「なかなか良いお家ですわね。魔法猫を迎える家としては及第点ですわ。これで保護者の為人が良ければ合格です」
レディ・ドルリスは満足げにうなずいた。
「まあ、良かったですわ。つらい思い出ばかりではなく、ルビーを大切にしてくれたお家もあったのですわね……」
レディ・エルデリットとレディ・ドルリスは、幼いルビーのあとをついていった。
ルビーは勇気を振り絞って保護者にすり寄っていた。ゴハンのときも離れず、つねにしっぽで保護者の手や足に触れていた。
保護者はルビーが何かを怖がっているのを感じてくれたらしく、そばに寄り添ってずっと抱っこしていてくれたが……。
安心したルビーがウトウトすると、保護者はルビーをソファのクッションに寝かせ、そうっとトイレに立った。
突然、リビングの窓ガラスが割れ、ガラスの破片が床へ飛び散った。
「おかあさま!?」
レディ・クラリッサだ。一撃で窓を破壊して押し入ってきたのである。
ひとっ飛びにリビングを横切り、ソファのクッションにいたルビーの首根っこをパクッと咥え、堂々とした足取りで、壊れた窓から出ていった。
あっという間の出来事だった。
窓ガラスが割れる音を聞いた人間は慌ててトイレから出てきたが、内側へ向けて割られた窓の様子に仰天して、窓の外の、連れ去られるルビーと目が合っても、呆然とするばかり。
その夜のうちにレディ・クラリッサはルビーを咥えたまま運び、その町から遠く離れた。
運ばれながら、ルビーはあの保護者がレディ・クラリッサに殺されるのではないかと震え上がったが、レディ・クラリッサは人間を無視した。
この事件以降、ルビーはレディ・クラリッサがなにをしても、逆らわなくなった。
機嫌を損ねて暗闇に放り込まれるのだけは怖かったが、ルビーはいっそう従順になり、うまく人間の家に入れたとしても、レディ・クラリッサが気に入らないから出て行くと言えば素直に付き従った。
ルビーを失った人間がどんなに嘆き悲しんでも、ルビーのせいで人間とそのお家へ、レディ・クラリッサの悪意が向けられるよりマシだった。
現在までのところ、レディ・クラリッサが人間を傷つけたことはない。
何かの折にレディ・クラリッサにそのことを訊ねたら、レディ・クラリッサのような強い魔法猫にとっては、人間など歯牙にもかからぬ存在であると説明された。
それに、もしも魔法猫が人間を傷つけたら――たとえふつうの猫であっても、人間は人間に攻撃をした猫を決して許さず、恐ろしい魔法使いがどこまでも追ってきて処分するから、とも言っていた。
ルビーは震えた。人間は、恐ろしい人間もいるのだ。きっとレディ・クラリッサが悪いことをしているのを人間が見つけたら、一緒にいるルビーも処分されるにちがいない。
だって、ルビーはこの母猫の娘猫なのだから……。
空中に浮かんでいた映像の光は消え、小さなルビーの姿もまた、かき消えた。




