その二十七:ルビーの夢の刻
ルビーはどこまでも赤黒い闇の中に浮かんでいた。
なにかがうるさくて耳を塞ぎたかったが、耳を伏せてもうるさいのは消えない。
そもそも、なにをうるさいと感じているのか、ルビーには理解できないのだ。
ただ、ザワザワと大勢の声が聞こえつづけているようで、常に落ち着かなかった。
いつからここに一人でいるのかも思い出せない。
でも、さびしいとは思わなかった。
物心ついたころから、こんな状態こそがルビーの日常だったから。
呼んでも誰も来てくれない。
いつまでもひとりぼっち。
ルビーにもっとも近い存在と言えば、レディ・クラリッサ。ルビーを育てた母猫だ。
言い換えればルビーの家族は、レディ・クラリッサしかいない。
だって、どんなに優しそうな猫に見えてもけっして近づいてはいけない。見知らぬ大人猫はすごく怖い存在だから。
レディ・クラリッサからはそんなふうに繰り返し教えられた。
いまのルビーは、どんなにさびしくても辛くても、レディ・クラリッサにだけは、二度と会いたくなかった――そんなことが可能ならだけど。
レディ・クラリッサに会うくらいなら、この果てしない赤黒い闇のなかで、永遠にうずくまっている方がいい。
――ああ、ふつうの飼い猫みたいに、優しい保護者といっしょに住める、ずっとのお家が欲しい。
それがルビーの夢だ。
これまでに無かったわけではない。
たまに家に入れてくれる親切な人間に出会うこともあったのだ。ただ――レディ・クラリッサが気に入らなくなれば、ただちに忘れなくてはならなかっただけ。
どんなに快適できれいなお家で、保護者の名乗りをあげた人間がものすごく親切で善良で、どれほどルビーを愛して可愛がってくれたとしても……。
すてきなお家と優しい保護者に出会ったこともあった。たまたまレディ・クラリッサが出かけていて、ルビーだけ、家にいれてもらえたのだ。
ルビーは必死で保護者にしがみついていた。ゴハンを食べるときもしっぽで保護者の足に触れていたほどだ。
ルビーがなにかに怯えているのを察してくれた保護者はルビーに寄り添ってくれた。夜はルビーが眠るまでソファに座って抱っこしていてくれた。……が、ルビーが寝落ちすると、保護者はルビーをそうっとソファのクッションの上へ置いて、トイレに立った。
そのときだった。窓が破壊され、レディ・クラリッサが押し入ってきたのは。
あっという間の出来事だった。
レディ・クラリッサはルビーの首根っこをガブッと咥えると、ひとっ飛びで、壊れた窓から外へと跳躍した。
慌ててトイレから戻ってきた保護者は、ルビーと目が合ったが、呆然とするばかりだった……。
運ばれながら、ルビーはまん丸く目を見開いて、遠ざかっていくきれいなお家を、見えなくなるまで、じっと見つめていた……。
いつもそうだ。
どんなに上手くいきそうに思えても、最後には必ずレディ・クラリッサが来て、なにもかも破壊するのだ。まるでルビーの人生みたいに。
――これまでのルビーの人生に、良い思い出などあっただろうか。
ルビーの胸の中は虚ろだった。
まるで胸の中心にあるべき心臓が無く、代わりに深い闇色の洞窟がぽっかり口を開けているように感じられた。
――もしも、わたしが生きている限りこんな状態でしかいられないのなら……。
ルビーはなにも感じなくなりたい。
この世界に何の痕跡も残さず、消え去ってしまいたい。
そうすれば、レディ・クラリッサと、もろもろの恐ろしい思いから解放される。
それがルビーにとっての、唯一の〈救い〉かもしれない。
――ほんとうに、そうなの?
どこからか疑問の声が聞こえた。それはルビー自身の声みたいだったけど、同時に知らない猫の声にも聞こえた。
――ルビーが会いたいと思う猫や人は、ほんとうに、世界のどこにもいないの?
――だって、わたしが生きている限り、あの母猫はわたしを追いかけてくるのよ。
毎日の食事を探させ、親切な人間を騙して寝床を確保させるために。
レディ・クラリッサにとって、ルビーは使いがいのある便利な道具なのだ。
――こんな毎日はいや。もう、いらない。
どこに逃げたって、レディ・クラリッサはどこまでもルビーを追って自分の傍に連れ戻すだろう。
どうすれば、ルビーはあのレディ・クラリッサに怯えることなく、安心して生きていけるのか……。
赤黒い闇の一角が真っ黒に染まり、ムクムクッ! と動いた。
怖くはなかった。
黒い塊はルビーより一回り小さくて、モコモコ動いて子猫の形になる。
大きな耳、黄金色の明るい目の真っ黒子猫。彼の名前をルビーは知っている。
「ノワさん」
ルビーの初めてのおともだち。いつもきらきらした目でルビーを見る陽気な雄の子猫。
いっしょにパトロールしよう。
僕のお家へおいでよ!
それはルビーとは正反対の、どこまでも明るい太陽のようなお誘いだった。
ノワといっしょにいると虚ろなルビーの胸の中が光で満ち、ポカポカと暖かくなった気がした。
そしてノワはルビーを、自分の母猫である魔法猫の女王陛下の謁見の間へ連れて行ったのである。
「そうだわ、魔法猫の女王陛下……?」
そう、ルビーはあの伝説の、魔法猫の女王陛下にお会いしたのだ。
ノワの幻はぷるるっと身体を震わせ、パッと消えた。
するとルビーの頭の中から、いっさいの音が消えた。ずっとザワめいて落ち着かなかった頭の中の騒音が、ピタリと止んだのだ。
ルビーは、生まれて初めて目が覚めたような気分になっている自分を発見した。
目がよく見えるのだ。これまで汚れていたガラス窓が、とつぜん一点の曇りもない透明ガラスに交換されたように、何もかもはっきりと見えるようになっている。
赤黒い闇のなかに、光を反射しない黒の擦りガラスめいた球体みたいなものが浮かんでいる。
さながら黒い満月のように。
――正体はわからないけど、わたしはあれを知っている気がするわ……。
そう思ったら、黒い球体はルビーのすぐ目の前にあった。
大きさはルビーの身体くらいだ。黒い磨りガラスなので、中身は見えない。
――黒くて見えないけど、わたしにはわかる。中に閉じ込められてるんだわ。
ルビーはなぜか確信があった。
「アレのせいね」
美しい声がした。
ふり向けば、少し上のほうに白い長毛も美しい猫が浮かんでいた。まるで白金の光を全身にまとったような尊いその姿は!?
「女王陛下!」
ルビーはサッと両前足を伸ばし、頭を低く下げてお辞儀した。
「いいのですよ、楽になさって。ルビーさんはあんなものに囲まれているせいで、他の方からの言葉がすべて、ツルツル滑って跳ね返されて、ルビーさんの心にまで届かなかったのですよ」
「あの黒い球体ですか? あれはなんなのでしょう?」
「あれはあなたを育てた者の思念。あなたが自分の言葉だけを聞くように、ほかの方の言葉は入ってこないようにと、長い時間をかけて作り上げた特殊な囲いなのです。あなたには必要ないものですわ。跡形無く壊してしまいましょうね」
魔法猫の女王の、長いしっぽが高く振り上げられ、優美に一振りされた。
ピシリ!
小気味よい音。つづいて、遠い遠いどこかから、
パシーンッ…………!
それは澄んで透明で、どこか幽玄の世界を思わせるような神秘的なひびきだった。
ルビーは怖くないのに、ゾクッとした。不可思議な音が長い余韻をひきながら消えていくのを、耳を澄ませて聞いていた。
やがて音が消えた。
ルビーはなんだか心が軽くなったような気がした。
――なんだったのかしら、いまの音は?
ふと空中を仰ぎ見れば、女王陛下のお姿もない。
ここにはルビーと黒い球体だけ。
――これは、わたしには要らないもの……。
ルビーは右前足を伸ばし、ちょんと黒い球体の表面に触れた。
ピシイィ……ッ!!!
そこからヒビ割れがはじまった。黒い球体の表面は、たちまちヒビだらけになり、破片は次々に空中に飛んで、音もなく粉々に砕け散って、消えていった。
黒い球体は、無くなった。
そこには、白っぽい毛色の子猫がうずくまっていた。毛並みはパヤパヤの産毛っぽい、まだ乳離れもしていないような幼い子猫は、両耳の先端だけがほんのり淡いアンズ色。
ルビーは、その子猫が自分であることが、ちゃんとわかった。
「あなたはわたしね」
「ええ、わたしはあなたよ」
幼い子猫のルビーはポーンと飛びあがり、ルビーの横に並んだ。
ルビーと幼いルビーは、空中を駆けた。
閉じ込められていたのは、あんなに薄くてやわいガラスだったなんて。
どうしてもっと早くに、自分で壊して逃げられなかったのだろう。
――わたしは、あんな脆い物すら破壊できないほど弱かったんだわ。
過去の弱い自分に腹が立った。
「しかたないわ」
幼いルビーが言った。
「どうして、しかたないの?」
それもまた努力もせずにあきらめているようで、ますます過去の自分が嫌いになる。
「わたしを嫌わないで。だって、アレの内側は真っ暗でツルツルだったのよ。ほら、見て」
幼いルビーは右手を上げ、肉球を見せた。
「わたしの手も足も小さい子猫のままで、ツメだって子猫の小っちゃなツメなのよ。あの黒いガラスの壁は、長い時間をかけて分厚くなっていったの。内側はなめらかでツルツルで、どこにもとっかかりやデコボコや割れそうなところも無かったわ。壊すための道具も方法もなく、助けを呼ぶ声さえ出せなかった。だからずっと閉じ込められているしかなかったの。アレは絶対に壊せないものだと、絶望していたわ。あなたが外から壊してくれるまでは」
「ううん、ちがうわ。いま、わかった。アレを壊したのは女王さまだわ。わたしはずっと壊せなかったんだもの。わたしは女王さまが壊したあとで、軽くさわっただけなの」
「それでも、あなたが行動したから、わたしは出てこられたの」
しばらくふたりで空中を歩いた。
「これからあなたはどこへいくの?」
ルビーは幼い子猫のルビーに訊ねた。
「わたしもあなたも、もう自由よ。あなたの行きたいところへ、どこまでもいっしょに行けるわ」
「どうしてわたしといっしょなの?」
「だって、わたしはわたしだもの」
いつしか子猫のルビーと大きくなったルビーは重なり、ひとつになっていた。
ルビーは自由自在に空中を飛んでいた。
心はウキウキして、ワクワクしていた。
もうひとりぼっちではない。消滅したように見えた幼い子猫のルビーは、大きくなったルビーの内側に、やはりルビー自身として、きちんと存在していた。
それは何の問題も無く自然な状態だった。
だって、もしも大きくなったルビーが長年の凄まじい恐怖と共に成長していなければ、もっと早い段階でルビーとして融合していたはずの、ルビーの〈完全な自我〉を構成するルビーの半身だとわかっていたから。
「よかった、わたしはちゃんとしたわたしで、これが本物のわたしなんだわ」
前方が明るくなっていく。
まるで、そこに夜明けの太陽が生まれ出るかのように。
ルビーは走る速度をあげた。
これでやっと、ほんとうの自分の人生を生きられる。
早く真のおかあさまと、恩人の女王陛下と、おともだちのノワさんがいるところへもどらなければ。




