その二十六:癒やしの眠り
フェスティ夫人邸の猫専用リビングの壁には、小さい棚が何枚も取り付けられている。天井にとどく上から床に近いところまで、しっかりと壁に取り付けられた頑丈な棚板は、猫が跳びのって遊ぶためのキャットウォークだ。
東側の壁にある大きな窓は少し開けられており、優美なレースのカーテンが午後の微風に揺れていた。
窓辺から一メートルほど離れた西側の壁際は、陽光がさして明るいがまぶしすぎず、日陰はほどよく涼しい。
西側の壁にあるキャットウォークの中段くらい、いちばん広い棚板に置かれた大きな猫用ベッドには、黒猫ノワと白っぽいルビーと、淡い三毛柄のレディ・エルデリットが入っていた。
レディ・エルデリットは眠るルビーにぴったり寄り添い、優しくのどをゴロゴロ鳴らしつづけている。
「なにも心配いりませんよ。わたくしがそばにいますからね」
レディ・エルデリットは、眠っているルビーの毛づくろいをしていた。
目を閉じて丸まっているルビーは、ときおりビクッと体を震わた。――が、薄目を開けてもすぐに閉じて、ふたたび眠りに落ちていく……。
その様子を三〇センチほど高い位置のクッションに座って見守っていたレディ・ドルリスは目を細めた。
「わたくしの〈癒やしの眠り〉の中でさえ、完全な安心が得られないとは……。ルビーさんはずいぶん苦労されてきたようですわね」
レディ・エルデリットはルビーの毛づくろいを止め、女王陛下を見上げた。
「そうですわね。毛並みがずいぶん傷んでおりますもの。おそらく野良猫のような生活をしていたのではないでしょうか。きっと水溜まりの濁り水を飲んだこともあるでしょうね。かわいそうに……」
「ちがいますわよ、レディ・エルデリット。ここは魔法猫の女王たるわたくしの家ですのよ。なのにルビーさんは、完全なる癒やしを与えるわたくしの魔法の夢の中ですら、ふとした拍子に怯えているのですわ」
レディ・ドルリスはサッと右前足を舐め、ササッと顔の右側のヒゲを整えた。
レディ・エルデリットは首をかしげた。
「まあ、陛下。この子には癒やしの魔法が効かないということですの?」
「よほどの心の傷があるのですわ。それも心の奥深くに」
「まあ……!? かわいそうに、いったいどれほどの苦労をしてきたのでしょう……」
レディ・エルデリットは毛づくろいを再開した。ルビーは眠りながらも気持ちよさそうにしている。まだ悪夢には落ちていないようだ。
レディ・ドルリスは眠るルビーをじっと見つめた。
「さきほど、ルビーさんが落ち着かない様子で『家に帰らなくては』と言ったのに気づきまして?」
「ええ。母猫が待っているからですわね。いままでこの子を育ててきた方ですもの、この子と一緒にいても当然ですわ」
「ルビーさんの家はこの町にはありませんことよ」
「引っ越してきたばかりなのでは?」
「この町でわたくしが知らない家はございませんわ。とすれば、親切な人間の家を転々としているか、ペットホテルに泊まっているかですけど。そういう報告はありませんから、おそらく野宿でしょう」
行きずりの野良猫が野宿するなら、この町では場所が限られる。猫には縄張りがあるからだ。
公共の場所は、公園くらい。あとは広い庭のある個人の家だが、猫にとっての良い場所は、すでに古参の猫の縄張りである。毎日、ご町内のパトロールの結果は、各所から連絡が上がってくる。この町の猫飼い事情を、女王陛下はしっかり把握しているのだ。
「まあ……。ではこの子は、これまでずっと屋外で寝泊まりしていたのですね」
「問題はルビーさんの生活だけではありません。ルビーさんのトラウマの元凶は、あきらかにその方にありますわ。魔法で調べるまでもなく、ルビーさんの反応をよく観察すればわかることですわ」
「たしかに、謁見の際のこの子の態度は、ちょっと気になりましたけど……」
『母猫が……』と言ったときのルビーは、声も体も驚くほど震わせていた。
まるでその母猫がここに来たら、レディ・エルデリットやレディ・ドルリスが殺されるとでも思っているかのように。
「あのひどい緊張のしかたと怯えよう。あれはもはや『洗脳』レベルでの反応ですわね」
「陛下、それは!?」
レディ・エルデリットは驚き、尻尾の毛をブワッと膨らませた。猫はひどく驚いたりすると、尻尾の毛をフワッフワにふくらますのである。
「……わたくしもおかしいとは思いましたが、まさか、育ての親が、厳しい躾を越えて、洗脳まがいのことをするなどとは……」
〈女王の怒りの鉄槌〉が落ちた時点で、なるほど女王に殺意を持った相手だったかと納得はしたが。
「いったいこの子はどんな生活をしてきたというのですか。陛下には、それもすでにおわかりですの?」
「おそらく、ルビーさんが幼いころから、その者の言葉だけを聞くように、そしてけっしてその者には逆らわぬよう、徹底的に厳しく躾けられた。つまり、そういうことですわ」
「でも、この子はさきほど、その母猫の元へは戻らず、わたくしの所に来たいと、自分の意思で決めたのではありませんか。この子には自分の自由な意思がありますわ」
「いいえ。レディ・エルデリット、よく考えてごらんなさいな」レディ・ドルリスはこのうえなく真剣だった。「ルビーさんはわたくしの謁見の間にいてさえ、その者への恐怖で怯えていたのですよ。それが何を意味するのか……」
女王の言葉にレディ・エルデリットはハッとした。
謁見の間とは、すなわち魔法猫の女王が統治する地の中心。
魔法猫の創造主〈月の女神ルセルドナ〉の加護に満ちあふれた、この世界で絶対の安全が保証される〈聖地〉なのだ。
臣下たる猫たちは、魔法猫の女王の限りない慈悲にすがらんとやってくる。
魔法猫の女王の〈謁見の間〉にさえ立てば。
あらゆる悩みや哀しみは浄化され、人の世界では不治の病とされる恐怖さえも取り除いてもらえる。すべての憂いが晴れる場所だと、魔法猫たちは本能的に理解しているのだ。
なぜなら魔法猫の女王こそは、魔法猫の創造主〈月の女神ルセルドナ〉の化身にして代理人。地上において彼の女神と同じ奇跡を起こせる、この世で唯一の魔法猫だ。女神と同じ限りない慈悲の施しができるもの、それが魔法猫の女王たる証なのである。
その絶対安全圏の聖なる謁見の間で、若くて無知な子猫とはいえ、ルビーが恐怖を感じて怯えるのはおかしい。――レディ・ドルリスは、そう言いたいのだ。
「まさかですわ、陛下。広い世の中には、たとえ母猫でも我が子に厳しい躾をする方もいるでしょうけど、幼気な子猫の自由意志を奪うほどの恐ろしい教育をする魔法猫が、世におりましょうか……?」
レディ・エルデリットはいまだ半信半疑だった。
謁見していたルビーのお行儀は良かったし、話し方だって上品で丁寧、荒んだ野良猫のような変なところはどこにも見受けられなかった。
けれど、まさか。
他猫の子猫を攫ってまで育てたい母猫が、無力な子猫をひどい目に遭わせるものだろうか……?
かわいい我が子だけは、ひどい目に遭わせたくない。そう思うのがふつうの母猫だろうに。
では、そう思わない者が母猫となれば、その者のもとにいる子猫はどうなるのか――?
「それは……――! ルビーは育ての親猫に……?」
虐待されていた。――喉元まで出かけた言葉を、レディ・エルデリットは呑み込んだ。
眠っているとはいえ、ルビーの前では言葉にしたくなかった。
自分が母猫に愛されず、ただただひどい虐待を受けていたなんて……!?
「それがほんとうなら、これほどむごい話は初めて聞きましたわ。どうしてそんなことを……?」
「さて、こればかりは本人にしかわからないでしょう。女王たるわたくしにも答えられませんわ。境海世界は広く、宇宙は果てしない。わたくしたちには理解できない存在がいてもおかしくありませんわ」
「いったいなにものなんでしょう、その……!?」
レディ・エルデリットは「レディ・クラリッサ」と名を言いかけ、うぐっと呑み込んだ。
レディ・ドルリスは『育てたもの』と注意深く言葉を選んでいる。
ルビーは魔法の眠りのなかにいるが、もしも夢の中でも『レディ・クラリッサ』の名が耳に届けば、怯えるかも知れない。
「賢明ですわ、レディ・エルデリット。わたくしの見立てにまちがいはございません。魔法を使うまでもない、ルビーさんの言葉の端々、全身の態度から容易に読み取れる事実ですわ」
女王陛下に確定されたその事実は、我が子を護れなかった現実として、レディ・エルデリットをも激しく傷つけた。
「そんな……そんなことって……。では、この子は、どうなりますの?」
「ルビーさんはどうやら、育てた方には絶対に逆らえないと思い込まされているようですわ。どこへいっても、どんなに離れようとも、最後には必ずその方の元へ戻るように言いつけられているのでしょう」
「では、この子はいずれその方の元へ戻ってしまいますの?」
「このままだと、引き留めておくのはむずかしいでしょうね」
「そんな……。では、わたくしはどうしたら、真実この子を取り戻せるのでしょう?」
「レディ・エルデリット、ルビーさんに罪はありませんわ。長年にわたり厳しく躾けられた結果、いかなるときも、その者には無条件で従わなければならないという考え方にされたのです。その思考形態はルビーさんの心身に染みこんで、おそらくは考えなくても体が勝手に反応するように――もはや、ルビーさんの習性になってしまっているのですわ」
「陛下はその育ての親のことまで、すっかりおわかりですの?」
「ルビーさんの様子から読み取れるところだけですが。詳しい検証はこれからです。ルビーさんをその哀しい思い込みから〈解放〉しなくてはなりません」
「では、この子の眠りの中でなにかされる気ですのね」
レディ・ドルリスとレディ・エルデリットは長い付き合いだ。おたがいの魔法の使い方も心得たもの。
「ええ。この機会に、ルビーさんの心の傷をすっかり癒やしてしまいましょう。あなたもご一緒に、レディ・エルデリット。そうすれば、ルビーさんがどんな生活をしてきたのかわかりますわ。誰からどんな躾を受けていたのかもね。ご覧になる勇気がおありかしら」
「望むところですわ、陛下。そうすれば、育てた方のことがわかりますのね」
挑むような口調で訊ねたレディ・エルデリットに、レディ・ドルリスは瞬きした。
「あら、もしや復讐をお望みかしら?」
「いいえ、陛下。そのような無駄な時間は使いたくございませんわ。すべては月の女神の御手と星界の天秤に委ねます。わたくしはやっと取り戻せたわが子とのこれからの時間を大切に致したく存じます」
「ホホ、あなたならそうおっしゃると思っていたわ。では、ルビーさんの夢の中へまいりましょうか」
レディ・ドルリスはふさふさ尻尾を一振りした。
ピシリ。
空気を切り裂く音は、尻尾のすばやい動きより、一拍遅れて耳に届いた。
レディ・ドルリスの真白い尻尾の先端に黄金色の光のボールが生まれて、飛んだ。
それはルビーにぶつかる直前で、ブワッと大きくふくらむと、ルビーの全身を包みこみ、ふわっと輝いて、消えた。




