その二十九:ルビーの〈記憶の回廊〉にて
どこまでも赤黒い空間は、見渡す限り薄暗く、シンとしていた。ときおり一カ所で鮮やかな色彩が閃いたと思えば、そのつぎにはそこかしこでセピア色した写真のような景色がチラチラ光る。
そんな中を、レディ・ドルリスとレディ・エルデリットはまっすぐ進んだ。
過去において、ルビーとその育て親であるレディ・クラリッサは、多くの時間を放浪していた。
レディ・クラリッサは全身の毛が太陽のようなアンズ色の長毛の猫だ。その後ろを、一回り小さな体躯の、白い毛色の子猫がヨチヨチ付いていく。
レディ・ドルリスとレディ・エルデリットは、ルビーの過去の風景に出てくるレディ・クラリッサの行動を細かくチェックした。レディ・クラリッサが出てくる記憶の場面には魔法で印をつけ、彼女がどんな行動をしたのか、ルビーに対してどんな対応をしていたのかを確認してから次へ進んだ。
二匹はさらに過去へ向かって、ゆるやかに〈記憶の回廊〉を遡っていった。
「行動はいちいち狂気じみているのに、なかなか頭は回る方ですわね、このレディ・クラリッサという方は……」
レディ・ドルリスは溜息を吐いた。
子猫のルビーを連れ歩いていたレディ・クラリッサの行動は、まったくもって不可解の一言に尽きた。
レディ・クラリッサのプライドの高さ故にゴミを漁るところまではさすがに堕ちなかったが、彼女の気まぐれな世話ではまともな食事を与えられるほうが少なかった。
レディ・クラリッサは気の向くままに、ルビーを放置して遊びにいった。子猫のルビーを野良猫の群れから護るような場面もあったが、たいがいはレディ・クラリッサが適当に見つけた隠れ家でひとりぼっちだった。
小さなルビーは不安に震えながら、レディ・クラリッサの帰りを待った。
もしも、カラスや蛇などに襲われたら?……そこはレディ・クラリッサも用心して、不在の際にはルビーへ護りの魔法などはかけていたようである。
ときどき親切な人間を見つければ、狡猾にも可愛い子猫を出汁にしてエサをねだり、なんならルビーを押しつけて世話をさせたりもするが、最後にはルビーを攫って放浪生活へもどる…………その繰り返し。愛情ある世話とはとても思えない。
記憶の映像は、ついにルビーが赤ちゃんだったころまでたどりついた。
魔法猫の子猫期はふつうの猫に比べるとうんと長い。乳離れまで半年から一年ほどかかる子猫もいる。
さいわいルビーは魔法猫の子猫としては早めの五ヶ月ほどで乳離れした。
レディ・クラリッサは、乳飲み子だったルビーの世話は最低限度しかせず、それもすべてを魔法で済ませた。
魔法が使える魔法猫の世話でなくば、赤子のルビーは生きていなかったであろう。
レディ・クラリッサとルビーの関係は母猫と子猫らしいふれあいなどない、母猫の暖かさを求める幼い子猫にとっては冷酷な環境であった。
目が開いたばかりの幼い赤ちゃん猫のルビーが母猫を求めて泣いている幻影は、レディ・エルデリットが目を背けると、消えた。
「かわいそうに……」
レディ・エルデリットがつぶやいた。
レディ・ドルリスは長いふわふわしっぽで、旧友の背中へそっと触れた。
「もう終わった出来事ですわ」
「ええ、陛下。わかってはいるのですけど……。実際にこの目で見ると、堪えますわ」
「これからルビーさんはあなたのもとで幸せに暮らせるのです。嘆く必要はありませんわ。それよりレディ・エルデリット。いよいよこの先にある『はじまりのとき』まで見られる勇気がおありかしら? わたくしひとりで確認しても構いませんのよ」
「いいえ、覚悟はできています。そのためにご一緒させていただいたのですもの」
「では、参りましょう。――あなたが出産した夜のこと、ルビーさんが消えたその時間に……」
それは冬が近い秋の夜だった。
保護者の人間が用意したきれいで清潔なタオルが敷き詰められた快適な産室で、レディ・エルデリットは臨月の大きなお腹で横たわっていた。
ほどなく子猫は順に生まれた。最後に産み落とした六匹目まで、問題なく安産だった。
でも、疲れた。子猫たちに最初のお乳を含ませ、子猫たちが満足して眠ると、レディ・エルデリットは産室のすぐ横に置かれた猫食を食べにいった。
トイレはもう少し離れた場所に設えてあったので、疲れた身体を引きずって移動した。
その間に、産室の出産のあとは保護者がきれいに掃除してくれたので、レディ・エルデリットは気絶するように三時間ほど眠った。
不審な侵入者には気づかなかった。
レディ・エルデリットが授乳のために目を覚ましたとき、子猫の数が一匹減っていた。
だが、疲れていたレディ・エルデリットはなぜ子猫が減ったのかわからず、乳を求める子猫の世話をせねばならなかったので、すぐには行動できなかった。
翌朝、様子を見に来た保護者の人間は不思議がって室内中を探していたが、頼りにならなかった。子猫の父親であるレディ・エルデリットの夫猫は船乗り猫なので、航海に出ていて家に居なかったのである。
ルビーが攫われたいきさつは単純だった。
「あなたが眠っている間にレディ・クラリッサがこっそりやって来て、ルビーさんを産室から盗み出したのですわね」
魔法猫の女王レディ・ドルリスが魔法で再現させた記憶の回廊は、レディ・エルデリットの過去の時間までも、鮮明に再現した。
最初のお乳を飲んで眠っていた生後数時間の赤ちゃん猫のルビーを、レディ・クラリッサはサッと咥えて、しずかに運び去ったのだ。
誰も気づかなかった。レディ・エルデリットも子猫たちも。保護者の人間は礼儀正しく生まれたての子猫にはかまわずにレディ・エルデリットの産室をきれいに整えると、真夜中ゆえにすぐに休んでいた。
「わたくしが眠ってしまったから……」
レディ・エルデリットは小さく頭を振り、うつむいた。
「わたくしが女王の側近だから? 魔法猫の女王を憎むあの方は、わたくしの子を狙ったと……?」
「まさか。その理由はおかしいとは思いませんか。放浪していたレディ・クラリッサが、あの家に居たあなたが魔法猫の女王の側近で、あの夜に出産するのを知っていたとは思えませんわ」
女王の言葉に、レディ・エルデリットは大きく目を見ひらいた。
「わたくしは関係ないと?」
「レディ・クラリッサがあなたを見つけたのは偶然だったと、わたくしはそう思いますの」
レディ・ドルリスはエメラルドグリーンの瞳で、レディ・エルデリットを見つめた。
「ここはルビーさんの過去の記憶ですが、ルビーさんが生まれるまで、あの方の影はどこにもなかった。わたくしたちは優れた魔法を持つ魔法猫ですもの。怪しいものに付け狙われたら気づかぬはずがありません。いくら妊娠中とはいえ、近くに不審な魔法猫がいれば、あなたが気づかないとは思えませんわ」
「では、あの方はどうやってわたくしの家に来たのでしょう?」
「それならわかりますわ。あなたの保護者はとても慈悲深い、お優しい方ですわね」
「ええ、それはもう」なぜわかったのだろうと、ちょっと不思議がりながら、レディ・エルデリットは答えた。「魔法猫のわたくしたちをかわいがって、たいせつに世話してくださいます。ご家族で猫が大好きですの」
「それなら、ご近所の恵まれない猫たちにもゴハンをあげたり、弱っている猫を見つけたら保護したりもされる、さぞや徳のあるお方なのでしょう」
「ええ、それはもちろんですわ。我が家にはわたくしのほかにも元野良猫の下宿猫も数匹おりますの。……あ! まさか我が家にゴハンをもらいにきた野良猫の中に、あの方がいたと!?」
レディ・ドルリスの推理は次のようなものだった。
ふつうの野良猫のように放浪していたレディ・クラリッサがたまたまゴハンをもらいにきた家が、レディ・エルデリットの家だった。
魔法猫は世界中にいるが、ふつうの猫ほど数は多くない。たいがいは魔法猫に理解のある人間と契約して共生している。まれに放浪の旅を好む魔法猫もいるが、根なし草の野良猫になる魔法猫はめったにいない。
もし魔法に長けた魔法猫ならば、近くに居る魔法猫が出産間近であれば、魔法猫の子を産むことも気配でわかるだろう。
レディ・エルデリットは身重の身ゆえに、周囲の警戒まで細かい気を配れなかった。
保護者が用意した産室は安全で、何の危険も無いと信じて油断していた。
出産直後は、いかに女王の側近を務める優秀な魔法猫とはいえ、疲れて弱るもの。悪意ある存在が近くに潜んでいることに気づけないていどには。
そしてレディ・クラリッサは魔法猫がいる気配に気づき、こっそり産室を覗きにいき、子猫の中に、非常に魔力の強い子猫がいるのを知った。
「彼女のもっとも強い執着は『魔法猫の女王』です。自身が魔法猫の女王候補だったという過去の栄光にすがりついていた方ですもの。魔力の強い子猫をうまく育てれば次の女王候補にできると思ったのではないかしら」
そして、レディ・エルデリットの隙を狙って、ルビーを盗み出した。
ルビーの過去の記憶の中で、レディ・クラリッサは何度も「お前は次の魔法猫の女王になるのよ」と口癖のように言い聞かせていた。
「お前ほど魔法の力が強い魔法猫は、次の女王に選ばれる権利があるの。だから礼儀作法を怠けてはいけないわ」
レディ・クラリッサがいるときは毎日叩き込まれる厳しい礼儀作法。
そのBGMで聞かされるのは、昔のレディ・クラリッサがいかに優秀な女王候補であったかの自慢話だ。かの女王選定の儀ではあと少しで女王になれたのに、とつぜん偽女王が現れて選定者の九賢者猫を欺き、まんまと本物の女王におさまったという、恨みと妬みの愚痴も尽きることなくあふれ出る。
ルビーの過去の記憶映像を早送りで見ていたレディ・ドルリスとレディ・エルデリットすら、あまりに何度も同じような場面が繰り返されるのでうんざりしたほどだ。
「魔法が使える知恵も知識もある魔法猫なのに、どうして自らが〈魔法猫の女王〉になるだなんて戯言を言うのでしょう……」
あれだけ魔法を操れるならば、先達の魔法猫から訓練なりを受けているはず。
ならば、魔法の訓練の際に伝えられる〈魔法猫の掟〉を知らないわけがはないのだが……。
「なにゆえか、レディ・クラリッサは、魔法の強い魔法猫なら魔法猫の女王にもなれると、本気で信じていますのね」
「まあ、陛下。〈魔法猫の女王〉は、月の女神ルセルドナの化身にして代理人。昔も今も、この世界に女王陛下ただおひとりであることは、魔法猫にとっての、絶対の不文律でありますのに……」
「そうですわね。わたくしが魔法猫の女王として在ることは、月が夜空の女王であるがごとく、変わることのない事実。わたくしの存在を知りながら、わたくしが魔法猫の女王たりえる理由を理解していないとは……。そのような臣下がいようとは、驚くばかりですわ」
そんな不可解なレディ・クラリッサの行動原理を知るには……。
彼女の過去を調べるしかなかろう。




