ふつうの話を
川で釣った魚と塩を、壺に詰め、ふたをする。
「鵆川さんの魔述って、こう、何ヶ月単位で時間を加速できるとかあるの?」
「考えたこともないわ」
「そっか。この気候なら半年ぐらいは寝かせたいんだけどなあ」
「ねえこれ、醤油って言っても魚醤でしょ? さすがにあたしでも知ってるわよ。ナンプラーとかニョクマムとか、あたし食べられないんだけど」
「お、言うねえ」
紺屋さんがへらへらした。
「なによ」
あたしは本当は笑い出したいぐらいの気持ちなのに、がんばって不機嫌そうな顔をして、紺屋さんとのやりとりをもう少し楽しんでいたい。
「別に? まあまあ、とりあえずやってみようよ。ほら、直で直で。直に触って素早く効かせようよグレイトフルデッドみたいに」
「うわ、うそでしょこの人。会って間もない他人をジョジョネタで説得できると思ってる」
あたしはストイックに仏頂面を保ちながら、壺に触れた。
「鵆川さん、鵆川さん! この壺ミスタの帽子っぽい模様してない?」
紺屋さんが言って、さすがにがまんできず、あたしは爆笑した。
「もう止めてほんと! ジョジョの話やめて! 集中できないから!」
あたしは笑いながら本気で怒った。
「ごめんね。でも似てるなーって思ったらがまんできなくてさ」
「もう静かにしててよねほんとに!」
深呼吸して、目を閉じ、開く。
互い違いに回転する二重の魔法陣が、視界に浮かび上がる。
閉じこもっていた日々のことやこの森で魔述を使ってきた記憶が蘇ると、吐き気がして、頭が痛んだ。
その全部を受け止めて、あたしは、魔述をかける。
おいしくなるようにって祈りで、痛みも吐き気も塗りつぶして。
「できた……っぽいけど」
光ったり浮いたりとか、それらしいことはとくに起きない。
とにかく、壺の中の魚たちには、それなりの時間が流れたはずだ。
「どれどれ。うわあ、アミノ酸のにおいだ! 鵆川さんすごいよこれ!」
壺のふたを取った紺屋さんが、よく分からない言い回しで興奮した。
アミノ酸のにおいってなに。
「ほらほら鵆川さん」
「だから魚醤は苦手って言ってるじゃない。あれ臭すぎてあたし無理だから。紺屋さんが勝手に食べればいいでしょ」
「いいからいいから。ほらほら、これ相当アミノ酸だよ」
「分かったわよ」
あまりにも壺を押しつけてくるので、諦めて、においを嗅ぐ。
あたしは仰天したし、だれにでも分かる言い回しをすぐに思いついた。
「これ……鮭フレークだ」
それも、開封したてで一番おいしそうなにおいの時だった。
「ね、アミノ酸でしょ」
「あ、これ?」
「そう、これ。よしよし、うまく行ったぞ」
「で、でもこれ、なんであの嫌な臭いがしないのよ」
「ひとくちに魚醤っていっても、ニョクマムとかナンプラーがなんの魚からできているか知ってる?」
「え? さあ……」
考えたこともないけれど、どうせ普通に食べるには向かない、臭くて小さくてろくでもない魚に違いない。
「イワシだよ。海の魚だね」
「え、イワシって……あの、梅煮でおいしいイワシ?」
「鵆川さん、けっこう渋い趣味してるね。そうそう、そのイワシ。次に、鵆川さんが苦手な魚醤の香りの主な成分は、三硫化メチルっていう物質なんだ。腐ったキャベツとかたくあんとか、都市ガスに着けてある臭いの原因でもあるんだよ」
「さ、さん? なに?」
あたしは文系とか理系とかいうくくりさえ超越したひきこもりだ。
なにを読んでいても、数式とか聞いたことない単語とかが書いてあるとただちに思考をシャットダウンし、ざっと流すことにしている。
「それでね、この三硫化メチルっていうのは、海のプランクトンが発生させるものなんだ」
「あ、ああ! 待って待って、あたし分かったから! だからイワシでつくった魚醤は臭くて気持ち悪くて最悪なのね!」
「え、そこまで言う? 僕わりとナンプラー好きなんだけど」
「知らないわよ紺屋さんの好みは。それで、だから川の魚の魚醤は鮭フレークのいいにおいなのね!」
「例外はあるけどね。鮎の醤油は三硫化メチルの臭いがきつくなるらしいよ」
そう言って紺屋さんは、川魚の醤油を布にあけ、漉し取った。
布をぎゅっと絞るたび、赤くて透き通ったきれいな液体が、ちょろちょろと壺の中に落ちていく。
「醤油……すごいわね、ほんとに醤油っぽい」
「今日はこいつを使って、おいしいものを作っちゃおうか。たまには日本っぽいもの食べたいでしょ?」
あたしは高速で首を縦に振った。
途中で頭がちぎれちゃんじゃないかって思うぐらいの速度が出た。
三枚におろしたイワナにはったいを振って、石の上で焼く。
そこに紺屋さんは、水あめ(これも紺屋さんがつくったものだ)と混ぜた醤油を、容赦なく木さじで垂らしていった。
焼けた石に醤油が触れるたび、あの香ばしくて甘い、焦がし醤油の香りが立ち上がる。
そのにおいだけであたしは気絶しそうになる。
あまりにも体になじみすぎた醤油のにおいで、あたしはもう鳥肌が立ちっぱなしで、自分でもわけの分からない、反射みたいな涙が出てきそうだった。
紺屋さんは、かまどの隅っこでお湯をわかし、なんかの葉っぱを茹でた。
ゆであがったらぎゅっとしぼり、醤油をたらして、なにか粉っぽいものを散らす。
「イラクサだよ。それとこれはね、川魚の焼き節を粉にしたもの。鰹粉の代わりになんないかなって思ってさ」
あたしの視線は醤油まみれの川魚にしっかりフォーカスしていて、紺屋さんの話を完全に聞き流している。
水あめの混ざった醤油が熱されると、イワナの表面に、照りがでる。
だからこれをあたしは知っていて、昔からよく食べていて、別においしいともまずいとも思ったことがなくて、あるのが当たり前で、この世界では二度と手に入らないはずのものだった。
「お待たせいたしました。イワナの照り焼きと、イラクサの茹でびたしです」
あたしは本当に久しぶりに、魚の照り焼きと出会う。
お箸で、魚の身を割る。
湯気がたちのぼって、たれが断面を流れ落ちていって、手が震える。
つまんで、口に入れる。
あまじょっぱいたれ。
ほろほろの身。
とろとろの皮と油。
「だ、だめよ……これはだめになる」
あたしはうめいた。
ミリシアさんの言葉が、今になって体にしみる。
これはたしかに、だめになりそうな味だ。
「ああ、よくないぞこれは……ううう、お酒飲みたすぎる。きりっきりに冷えた天狗舞とかで流し込みたすぎる……」
あまりにだめになりそうなので、慌てて、イラクサのおひたしを食べる。
しゃくしゃくで、醤油がしみていて、ほうれん草のおひたしみたいで、懐かしすぎて、あたしはあっちでもこっちでもよくなかったりだめになりそうだった。
異世界の川岸で、日本人ふたりが、故郷の味に悶絶してしまう。
二人して言葉もなく、あたしたちは照り焼きとおひたしを急いで掻き込んだ。
食べ終わって、紺屋さんはにっこりとほほえんだ。
この世の善意という善意を、根こそぎかきあつめてきたみたいな顔で。
「ありがとう、鵆川さん。久しぶりに日本の味に出会えたよ」
「え、いや、あたし……? あたしは別に、なにも……この魚だって、紺屋さんが焼いたものだし」
紺屋さんは、少しだけまじめな顔をした。
「僕はただの料理人だよ。素材がなくちゃなんにもできない。少なくとも鵆川さんの魔述がなかったら、照り焼きはつくれなかった」
あたしはまだ、自分がなにかできたんだって、信じられていない。
「それから、テグスもね。鵆川さんがたまたま作業をしていなかったら、釣りだってできなかったんだよ」
「で、でもあたしは、嫌だなって思ってやってただけだし、どう使うとか、なにも知らなかったわ。あたしになにかできたわけじゃない」
紺屋さんは、困ったように頬をかいた。
卑屈は生まれつきだと思っていたけど、ここまでかたくなに自分を認められないなんて、あたし自身、ちょっとびっくりしている。
「うーん、似てるなあ」
「似てるって、なにに似てるのよ? それもしかしてあたしへの悪口?」
「悪口に聞こえたらごめんね。鵆川さん、僕に似てるなあって思ってさ」
「はあ? あり得ないでしょそれ」
だって紺屋さんはとにかくなんでもできるし、おとなの男の人だ。
あたしとは何一つ接点がない。
ジョジョの四部が好きということ以外に、なにひとつ似ていない。
「自分になにかできるって信じるのは、難しいよね。自信を保ち続けるには、なにかできる自分であり続けなくちゃならないしさ」
紺屋さんは小骨をかまどに投げ込んだ。
あたしは出会ってからずっと、紺屋さんに驚かされている。
こんな風にあたしの気持ちを分かってくれる人なんて、今までどこにもいなかった。
「まあ、鵆川さんがそんな風に思ってるなら、今はいいよ。折にふれ褒めるから覚悟しておいてね」
「えっなによそれ。なんかすごく怖いんだけど」
「僕はほら、居酒屋の店主なんかやってたからね。人を褒めたりするのは得意だし好きなんだ。ためしに鵆川さんのこと褒めてみようか?」
「なんかやめて」
あたしが即座に言うと、紺屋さんはわらった。
「それじゃあ、ふつうの話でもしよっか。好きな漫画の話とかさ」
「ジョジョだけじゃなくて?」
「ジョジョだけじゃなくて」
それからあたしたちは、ふつうの話をする。
最初はぎこちなく、そのうちだんだん弾むように。
あたしは次女でA型で、ファイナルファンタジーとペルソナシリーズと艦隊これくしょんをプレイして、ハーレムもののアニメばかり観て、オオシマユミコとタムラユミとガラスの仮面を読む。
紺屋さんはひとりっ子でO型で、ドラゴンクエストとアトリエシリーズとゼルダの伝説をプレイして、ジャンルを問わず映画ばかり観て、ヨシナガフミとハギオモトとガラスの仮面を読む。
「紺屋さんもガラかめ読むのね。なんかちょっと意外な感じする」
「結局最後まで読めなかったなあ。いや、日本にいてもどうなるか分かんないけど。女海賊ビアンカの辺りとか最高だよね」
「分かる。あそこすごくいいわよね。あたしももう何回泣いたか分かんないもん」
「泣けるよねえ。何回読んでも何回でも泣ける」
あたしたちはけっこう長く、ガラスの仮面について語り合う。
あたしたちはふつうの話をとりとめもなく続ける。
最近読んで面白かった漫画のこと、観て面白かった映画のこと、行って面白かった場所のこと。
地元の名産品のこと、昔より夏が暑くなってる気がすること、秋が短くなってる気がすること。
好きなカフェのこと(あたしはサンマルクで、紺屋さんはベローチェ)、好きなファストフードのこと(あたしはモスで、紺屋さんはバーガーキング)、それから、それから。
話は尽きなくて、その全部がもう永久に手に入らなくて、だけどひとつひとつのことを思い出すたび、あたたかいなってあたしは思う。
だってあたしはもう世界のことを許している。
許してほしいって、思っている。
「紺屋さん、うさ耳のミリシアさんって人のこと、知ってる?」
あたしはようやく、あたしに優しくしてくれた人の名前を素直に口に出せる。
焦りも不安も薄れて、耳に当たる髪のさらさらした感じが、今はもう心地よく感じられる。
「あ、もしかしてこの辺に来てるの?」
「エルフのところにいるわよ。なんか温泉入ってた」
「温泉……温泉あるんだ」
「頼めばいれてくれると思うけど」
「わあ! じゃないじゃない、ミリシアさんの話だ。そっか、元気ならなによりだね」
なんか、軽い。
「いま、なんかこいつ軽いなって思ったでしょ、鵆川さん」
「思うわよふつう。こんな世界ではぐれたんだから」
「お、言うねえ」
紺屋さんはうれしそうにした。
「はぐれた一人がすごい魔述の持ち主でさ。実際のところ、あんまり心配してないんだよね」
「ふうん? まあ別になんでもいいけど、エルフのとこなら案内できるわよ」
「ありがとう、鵆川さん。お願いします」
あたしたちはエルフたちの集落に向かった。
糸を両手で揉み合わせていたヤオジンに声をかけると、
「うさ耳の嬢ちゃん? 今日は帰ってこないだろうなァ。髪だの肌だのがどうしたこうしたって息巻いて、結局ひとりで温泉に行っちまったよ」
想定とは違う答えが返ってきて、あたしは気まずい思いをした。
「そこら辺で寝るって言ってたから、明日になったら迎えをよこすつもりだ」
あたしは紺屋さんを見上げて苦笑し、首を横に振る。
この世界ではいつだって、あたしがなにかしようとする度に変なことが起きるのだ。
「それで、その横のお兄さんはどういうお兄さんだい?」
「どうも、紺屋康太と言います。ミリシアさんの友人でして、お会いできないかなーと思ったんですけど」
「はァ……あんた、ずいぶんとうまく俺たちの言葉をしゃべったもんだね、たまげたなァ。ああ、もしかしてシェアンにでかい魚をくれてやったのがコータかい?」
「なにしろシェアンは、鵆川さんを火から守ってくれましたからね。一番大きい魚を食べるべきでしょう」
ヤオジンは声をあげて笑った。
「そりゃ、シェアンを褒めてやらなきゃなァ。そうかいそうかい、それなら、深山の一統はあんたを歓迎するよ、コータ。まァ、ミリシアは明日になんなきゃ帰ってこないけど」
「僕はミリシアさんを待たせてばかりですからね。たまには待ちますよ」
紺屋さんは気楽な調子でそう言って、ヤオジンと話をはじめた。
まずは塩づくりについての質問をして、答えを聞くなりエルフたちを(ヤオジンが絶句するぐらい興奮しながら)ほめちぎった。
たしかに人を褒めるのは好きみたいだけど、得意ってわけじゃないなとあたしは思った。
深山の一統の由来について、大陸のはるか西からこの辺りまでやってきたエルフのことを語った。
気付けば太陽が沈み、火が焚かれ、エルフたちは紺屋さんの語るお話に夢中だった。
たき火が作るわずかばかりの灯りの中にあたしも座っていて、紺屋さんの話と、エルフたちの話を聞く。
シェアンがやってきて、あたしの背中に背中をくっつけて座った。
「火」
シェアンの声が聞こえて、声が出るときのからだの震えが背中ごしに伝わってきて、あたしはその心地よい震えをゆっくりとからだになじませていく。
「ありがと、シェアン」
「さかな?」
シェアンの言葉に、あたしは笑う。
「それは紺屋さんに頼んでくれない? あたし釣りみたいなの無理だから」
「そもそもなァ、もう白茅と火を守る必要はねえんだぞ、シェアン。白茅の血は止まってるんだ」
ヤオジンがシェアンをごぼう抜きにひっこぬいて、抱き上げた。
「ヤオジン、あの、ちょっとお願いがあるんだけど」
あたしはヤオジンを見上げる。
言葉を口にするときは、やっぱりこわくて、どこから話していいのか分からなくて、きっとそれは永久に変わらない。
「なんだい、白茅」
「その……下着、なくしちゃって。布があったら分けてくれない?」
抱いたシェアンの頭を撫でながら、ヤオジンがおっとりと微笑む。
あたしはヤオジンがこういう風に笑うって知らなかったな。
「実はといえば、シェアンが白茅のために、とびきりやわらかく編んだもんを用意しているよ。よその世界の巫女さんってのは、俺たちみたいな服を着つけないっていうからなァ」
自分の着ているすだれみたいな服をつまみあげて、ヤオジンが言う。
エルフたちが本当は優しいことを、あたしはもう知っている。
最初から知っていたんだ。
「あの、あのね、ヤオジン。あの……いままで、ごめんなさい。それと、ありがとう」
ヤオジンは、気にするなとでも言いたげに肩をすくめた。
「ごめんもありがとうも、白茅が言うことじゃないなァ。死んじまったもんが救われるのは、みんな、白茅のおかげだからさ。いつもありがとうなァ、白茅。白茅はなにも言わないけど、つらかったり、哀しかったりしたときは、なんでもみんなに言うんだぞ」
ずっと拒絶していたヤオジンの優しさを、エルフたちの優しさを、あたしはようやく受け入れる。
「うん……これからは、そうするわ」
あたしはようやく、異世界で生きはじめる。
エルフの住む、深い森の中で。




