シャンプーとスクラブ
褐色のかたまりを、桶に張った少量の湯に投げ込んで溶かす。
かたまりが溶ければ、湯にとろみがつき、泡だつ。
「液体石鹸だ」
「せっけん!?」
「うむ。知己の日本人が作ったもので、その品質たるや、ひとたび使えばヘカトンケイルの海藻石鹸など汚泥同然である。さあ、洗ってやろう」
手に取った液体石鹸をもこもこと泡立てながら、ミリシアが微笑む。
「え、いやっ、いいわよっ、自分でっ自分でやるわよ!」
「さみしいことを言うな、白茅。私は人の髪の手入れをしていないと我慢ならん性分なのだぞ」
無風の内海みたいに青く美しいピスフィの髪をくしけずるのは、ミリシアにとって、魂に紐付いた習慣である。
それだというのに、三日にわたっておあずけをくらっているのだから、ミリシアはだれかの髪の手触りに飢えていた。
「そらっ」
「ひゃあっ!」
すくみあがった白茅に背後から迫り、石鹸まみれの両手で頭をつかむ。
ねかせた指の腹で頭皮をしっかり揉むようにしてやれば、たちまち白茅の全身から力が抜けた。
「指通りが悪いな」
「ご、ごめんなさい」
「謝ることではない。一刻の後、この髪に美しさが宿ると考えただけでだめになりそうだ」
「だめに?」
問われたミリシアは、まじめくさった表情で仰々しくうなずいた。
「日本語であろう。知己がよく使っているよ。『だめになる』とか『よくない』というのは、実以て、他に形容しようのない感情を表すのだ」
「う、うん……?」
頭頂、耳のうしろ、後頭部までしっかりと揉み込んでやると、頭皮がやわらかさを取り戻した。
「さあ、ここからが正念場であるな」
「ま、まだ? えっ?」
「目を閉じていろ」
「うわぷっ!」
かけ湯をして泡を洗い落としたミリシアは、お風呂セットから小さな壺を取り出した。
「カメリアオイルに、ライムの精油を垂らしたものだ。これこそ我と我が髪を美しく保つ秘儀。白茅、我が銀髪を見よ。毛先に至るまで美しいであろう?」
「あの……うん」
「ふふん」
「えっ?」
「およそ人たるもの、老若男女、いついかなる場合においても、美しさを保つべきである。我が友には理解しがたいことのようであるがな」
興が乗ってきたミリシアは、白茅を置き去りにどんどん早口になっていった。
「泡と油である。分かるか、白茅。この二つが髪にとって重要なのだ。佳きごはんと佳き酒が人生を豊かにするように、泡と油が髪を豊かにするのだ」
「え、ええと……シャンプーと、トリートメント?」
「ああ、そうだ! 日本語ではそう呼ぶのだったな! とりーとめんと……佳良な言葉である」
手に壺の中身を垂らしたミリシアは、五本の指の間に白茅の髪を通し、毛並みに沿って滑らせた。
「……いい、におい。レモンみたい」
「そうであろう! ライムというのは素晴らしいものだぞ、白茅。魚醤に絞り入れて佳し、ろうそくに練り込んで焚いて佳し、そして髪になじませて佳し、である。このすがすがしい香は、肺や腎臓が腐るのを防ぎ、気持ちを前向きにしてくれる」
「えっ肺? 腎臓?」
「そう言われているのだ。白茅の世界でライムがどのように扱われているかは知らないがな」
痛んだところには特にしっかりとトリートメントを施してやり、いいだけ人の髪をもてあそんだところで、ミリシアは満足げに長く息を吐いた。
「お、終わった?」
「ああ、髪はな」
「髪は……」
「白茅は我が肌も褒めてくれたであろう。無論、私は肌に関しても努力を怠らない」
「肌」
白茅の表情が見る見る内にげっそりした。
ミリシアはここでいい加減に立ち止まるべきどうかか少し考えて、
「はちみつと塩をヤオジンに分けてもらったのだ」
己の楽しさを優先することに決めた。
「たっぷりのはちみつに、少しばかりの塩を混ぜ、ライムの精油を垂らしたものだ。これは日本語でなんと言うのだろうな」
「す、スクラブ?」
「スクラブ! 妙なる響きであるな。そうだ、スクラブだ。よいか、肘、膝、かかと、そしてデコルテである」
ミリシアは、白茅の鎖骨のちょっと下を、指でとんとつついた。
「適量を指先に伸ばしたら、決して力を入れずそっと撫でるのだ。塩が身の邪気を払い、はちみつが肌に力を与える。十日に一度行うだけで、白茅の膚は必ずや美しさを取り戻すであろう」
壺を白茅に押しつけながら、ミリシアは力強い早口で語りに語った。
白茅は聞いているのかいないのか、疲れ切ったような表情で、壺の中身を手にあけている。
「一日して、自らの髪に触れてみよ。自らのデコルテに触れてみよ。私の言葉が嘘偽りでなかったことに気づくはずだ」
白茅はぐったりしながらうなずいた。
ミリシアはすっかり満ち足りた思いだった。
よき友であるピスフィは、そもそもが貴種であり、おまけにまだ年若いため、自らを美しく保つことに無頓着だ。
しかしここに、美しく在りたいという思いを分かち合える者がいて、しかも髪を触ったりできたのだから、もうなんの文句もない。
「先に上がっているぞ、白茅。いずれまた、エルフの森で会おう」
思い詰めた表情でかかとをなでる白茅を残し、ミリシアは温泉を後にした。
世話を焼く一方で自分が髪も洗っていないしスキンケアもしていないと気づいたのは、夜も更け、ぱさぱさの髪に触れた時のことだった。
「ヤオジン、はなせっ! そして私のことは捨て置け! 私は温泉に入るぞ! 身命を賭してだ!」
「そうは言ってもなァ、今からじゃ着くころには夜になっちまうよ。夜目のきかないお嬢さんを、あんなところに放り出すってわけにもいかねえからなァ」
「だが、だが、私の髪が! 髪がぱさぱさしているのだ! 下等な岸壁にへばりつく下等な虫の下等な触角のようにだ!」
「こいつはよわったなァ。なんとか諦めてくれねえかなァ」
「ふぐぅううう! ぐうううう!」
◇
あたしは気づいていたよ。
うさ耳のミリシアさんがたぶん紺屋さんの知り合いで、はぐれた仲間なんだろうってことは。
だけどあたしはいつもみたいに何をどこから言えばいいのか分からなくて、まごまごしている内に話がどんどん先に進んで、ミリシアさんはすぐにいなくなった。
シャンプーと、洗い流さないトリートメントと、ボディスクラブ。
あたしがそれをどれだけ望んでいたか!
だけどあたしにはなにも分からなかった。
材料とか作り方とか、そういうのをなにも知らなくて、当たり前だ、そんなものはお風呂にいつも置いてあったし、なかったら近所のクリエイトか駅前のマツキヨに行けばよかった。
この世界のどこを探しても化粧水もリップスティックも見つからなくて、あたしの肌はどんどん荒れていって、裂けたくちびるは季節が一巡りするまで治らない。
にきびがどこにできても、なるべく触らないことぐらいの対処しかできなくて、まゆ毛はとっくにびっしり生えそろって、下向きのまつ毛はやたら目の中に入ってくる。
そういうものなんだって、あたしは諦めて……ちがう、そんなやさしい言葉じゃないな。
そういう世界だから、あたしは憎んでいるんだ。
だけど、憎んでいるだけだった。
はちみつと塩でスクラブになるなんてはじめて知ったし、クロックスに何度もこすれてがさがさだった足の裏が、かかとが、すこしだけすべすべさを取り戻している。
縄文エルフの森に迷い込んで、やっとあたしは気づいたんだよ、ほんとはあたしだって、からだをきれいに保ちたいんだって。
家にお風呂があって近所にドラッグストアがあるときは、そんなこと、考えもしなかったのに。
それどころか、やっきになって服だの化粧品だの買い込む連中を、ばかにさえしていたのに。
科学的になんの根拠もない水を一生懸命呑んでる連中をばかにして、でもあたしだって、どういう理屈で科学的根拠がないのかなんて知らなかったくせに。
なにも知らなかったくせに。
あたしはなにをして生きていたんだろう?
手元にはちみつも塩もあったのに、その二つを組み合わせるだけでかかとがすべすべになることさえ知らない。
ライムの香りが内臓に良いなんて馬鹿みたいな話を真顔で語るうさ耳の異世界人だって、その程度のことを知っているのに。
乾いた髪からレモン(ライムだっけ? 別になんでもいいけど)の香りがして、あたしは泣きたくなっている。
あんなに親切にされたのに、みじめな気持ちにしかなれない自分のことが、本当に嫌いだ。
どこかでだれかを見下さなくちゃ息も吸えない自分のことが、大嫌いだ。
あたしは伝えなくちゃいけないのに。
紺屋さんに、あなたの仲間が生きていて、しかも奇跡的にものすごく近所にいて、どう見ても健康そのものでボディケアについて熱弁していておっぱいは右の方がちょっと大きかったよって伝えなくちゃいけないのに。
あたしはなんの気力もなくて、もう生理なんて終わったっていうのに、隔離小屋に足を向けている。
「あれ? 鵆川さん?」
洞窟に紺屋さんがいて、あたしは立ちすくむ。
「なに、してるの」
「ええと……その……」
紺屋さんはさっと両手を後ろに回し、気まずそうな笑みを浮かべた。
「ちょっとやってみたいことがあって」
「うん」
あたしはうなずいて、半ばひからびた枝葉の布団の上に腰をおろした。
「おじゃましました」
なにかを後ろ手に隠したまま、紺屋さんは隔離小屋を出て行った。
この三日間、紺屋さんはどこかその辺に寝泊まりしているみたいで、昼になると、川の方から煙が上がっている。
ヤオジンたちはそれをちょっと気にしていたけど、シェアンが魚をもらった話を聞いてからは、もうまったく無関心になっていた。
自己嫌悪とわけのない不安がいっぺんにおそってきて、あたしはうめき声をあげる。
心臓がばくばく鳴って、いてもたってもいられないのに、なにをしたらいいのかぜんぜん分からなくて途方にくれて、それでも髪は良いにおいだしかかとはすべすべで、何もかもがあたしを情けない気持ちにさせる。
言わなくちゃいけない。
紺屋さんに伝えなくちゃいけない。
どうしてそれぐらいのこともできないの?
異世界まで来て一番の役立たずでいたいの?
あたしは立ち上がることに成功した。
隔離小屋から出ると、木々の隙間から、立ち上る煙が見えた。
きっとまた川沿いで、魚を釣ったり食べたりしているのだろう。
あたしはのろのろと歩く。
一歩ごと、行きたくない気持ちが高まっていく。
だけどきっと、はやく言わなきゃ、あたしは一生言えなくなる。
簡単だからとか気が乗らないとかの理由で後回しにして、そろそろやらなくちゃと思っているうちにどんどん時間が経って、いつの間にか、もうなにをどうやっても手遅れになっている。
そういうことばかり、あたしはしてきた。
細かなことが積もっていって、あたしは外に出られなくなった。
パーカーのフードを深くかぶって、鳥の声や風の音や足下で枝が折れる音を遮断する。
紺屋さんは、やっぱり川にいた。
かまどにかけた平たい石の上で、なにか黒いかたまりを炒っている。
ついでに、土器でお湯を沸かしている。
話しかけようとして、うまくできなくて、あたしはじっと紺屋さんを後ろから眺めていた。
そして、信じられないことに気づいた。
紺屋さんが炒っているのは、見間違いようもなく、幼虫の糞だった。
「えっ」
「うわあああ!」
あたしが息を呑む小さな音に、紺屋さんはものすごく反応した。
「わ、うわあ、鵆川さんかあ。ごめんね、急に大声出しちゃって」
あたしは呆然としながらも、とにかく首を横に振った。
紺屋さんはあたしの視線を追いかけて、石の上で炒られている糞にたどり着いた。
「ええとね、まず弁解させてくれないかな。まずは事実一。あちこち探検して、この幼虫がイラクサを食べてるってことを突き止めたんだ」
「う、うん」
あたしは固唾を呑んだ。
「事実二。蚕の糞を煮出したお茶って、蚕沙っていって、中国ではそこそこ有名なんだ」
「だ、だから? なんなのよいったい?」
「だからつまり、事実一と事実二より、イラクサを食べている幼虫の糞を煮出したら、蚕沙ネトルリーフティーみたいなものができるんじゃないかって、その……だめかな」
どうしてこの世界はこう、次から次へと息つく間もなく、あたしを混乱させるんだろう。
今更になってあたしは、この全部が丸ごと単なる悪い夢なんじゃないかと真剣に思いはじめた。




