温泉に入ろう
「なァ、ミリシア。温泉に入ってくれねえかなァ」
深山の一統のところに迷い込んで、四日目の朝だった。
ヤオジンにそんなことを言われたミリシアは、まっさきにうさ耳をつかんで、においをかいだ。
「温泉ってのは、塩が採れる場所なんだ。でなァ、あんたみたいな客人は、塩に力をくれるからなァ」
「ふむ?」
「つまりなァ、温泉にあんたは、汗だのなんだのを落としていくだろ? で、つくった塩を食べりゃ、俺たちにはあんたの力が宿るってわけだ」
文明人を以て自認するミリシアにとっては、控えめに言って気分の良い話ではない。
あの風味絶佳たる塩に他人の汗が混じっているかもしれないと考えれば、朝から気分がぐったりしてきた。
「まァ昔からの言い伝えでな。俺たちゃ温泉には入らないんだけど、なにしろ客人ってのは、俺たちにはない力を持っているからなァ」
「そういうことであれば、請け負おう」
とはいえ、文明人を以て自認するミリシアが、よその風習に下らないけちを付けることはない。
相手の力を得るため、肉体の一部を文字通り身体に取り入れるというのは、それなりによく聞く話だ。
商人として足を運んだ未踏領域で、自慢のうさ耳を切り取られかけたことさえある。
それに比べれば、好意的なよそものを風呂に入れて塩に呪術的な力を与える風習は穏当と言えたし、なによりも魅力的だった。
「湯に身を浸すのは久しぶりだ」
ヘカトンケイルでも、本土に土地を持つような門閥市民であれば入浴の習慣を持つ。
ネイデル家はヘカトンケイルの一等地に居を構える門閥市民であるが、週に一度は家族総出で風呂のある別宅に向かった。
あの温度と心地よさを想像するだけで、思わず笑みがこぼれた。
「こんなのもあるよ。あかすりだ」
と、ぼろ布を渡されれば、尚のこと心が躍る。
「他に要りようなもんがあったら、言ってくれ。なんでも用意するからなァ」
「はちみつと塩を少しばかり分けていただけるか?」
「あァ、かまわねえよ。なにに使うんだい?」
「我と我が身を美しく保つためには、是非とも必要であるな」
ヤオジンはきょとんとしたあと、のんびりとほほえんだ。
温泉への道のりは過酷をきわめた。
朝はやくにヤオジンと森を発ち、休憩を挟みながらひたすら山を昇りつめること、いかばかりだろうか。
植生すらもなんとなく変わりはじめたころ、ミリシアの目の前に塩田が現れた。
切り立った崖に、竹を組んでつくった階段状のやぐらを差しかけた、大きな構造物だった。
やぐらの平面には砂が敷かれていた。
竹の色は青々としており、これが最近つくられたものだと知れる。
「これは……たいしたものだな」
素直な驚きを告げれば、ヤオジンがやにさがった。
「こいつは苦労するんだ。なにしろ竹を切るってのは、一仕事だからなァ」
刃物と言えば石でできたものしかないのだから、たしかにしんどい作業だろう。
石斧を力いっぱい叩きつけてみても、打ちつけた当人がしなった竹にふっとばされて終わりだ。
「でなァ。砂の下にも、竹をめいっぱい敷き詰めてるんだ。竹の隙間にしたって、粘土だので埋めてる」
「実以て、目を奪われるような光景であるな。このような山奥に、塩田とは……」
ヤオジンはうれしそうに、塩づくりの労苦について説明してくれた。
温泉から汲み上げた湯を、平面に繰り返し撒くと、塩が砂に吸着して鹹砂となる。
鹹砂をあつめて木桶に移し、そこに温泉の湯を注いでやると、非常に塩分濃度の高い水、鹹水が得られる。
得られた鹹水を、量が半分になるまで煮詰めたら、炭で濾過し、今度は水気がなくなるまで火にかける。
「できた塩は竹のざるに入れて、洞窟にしまっておくんだ。そうすると、よくないものがぜんぶ抜け落ちる。それでようやく、食べられるってわけさ」
ミリシアは再び、深山の一統の知恵に感心した。
ヘカトンケイルでは潟を利用した製塩業が営まれているが、ここまで複雑な行程ではない。
大潮の日に海水を塩田に引き込んだら、蒸発と飽和と結晶化を待つだけだ。
それはそれで敬意を払うべき職人仕事ではあるのだが、単純すぎる故に熟練の勘を必要とし、粗悪な品が出回ることも少なくない。
その上、塩職人の多くは広い土地を囲い込んで一人で作業をしているため、市場価格にはちょっと偏執的なほど敏感だ。
少しでも値崩れの気配を感じるとたちまち塩の卸しを止めてしまうので、おおかたのヘカトンケイル人にとって、自国の塩は高級品だった。
「温泉はあっちだよ。俺が行けるのはここまでだ。塩づくりってのは女たちの仕事だからなァ」
一方で深山の一統の製塩方法には、分業化の精神が行き届いている。
にがりを切って枯らす手法まで、どこで覚えたものか身に付けているのだ。
ひとつひとつの簡単な手順をこなしていけば、非常に質の高い塩が手に入る。
「……売れるな」
ミリシアは呟き、心中でにやりと笑った。
この製塩方法をヘカトンケイルに持ち帰れば、ふんぞりかえった塩職人たちを、価格競争の悪夢のただなかに投げ込んでやれるだろう。
あの取り澄ましたろくでなしどもは、カピバラに与えるための低品質な塩をこちらに売りつけるときでさえ、施しを与えるような顔でぼったくってくるのだ。
ヤオジンが帰り、ミリシアは塩田をじっくり観察した後、いよいよ温泉を目指した。
地面を掘り下げた一角があって、その周囲では、木も草もあらかた刈り払われている。
丸太を土に埋めて作った階段をくだれば、そこに温泉が湧いていた。
水質はいささか泥っぽいようだが、あたたかい湯気が立ち上っている。
ミリシアはめまいがするほどの感動をおぼえた。
「だめだ、辛抱ならん! ああ、嬢、申し訳ありません! 嬢が何をしているのか知る術すら持ちませんが、きっとお辛い思いをされていることでありましょう。だというのに私は、私は……温泉に入るのです!」
虚空に向かって力強く宣言したミリシアは、鎧も脚絆も愛刀もひきちぎるように脱ぎ捨てて、生まれたままの姿で勢いよく温泉に飛び込んだ。
「ああ……あああああ!」
そして、吠えた。
膚という膚が粟だって、末端という末端がぴりぴりとしびれる。
ここまでの道のりでこわばったふくらはぎが、湯のあたたかさにほぐれていく。
頭からもぐって、湯の中で息を止める。
身体をやさしく締め付ける適度な水圧が心地いい。
「ぷはっ!」
顔を水から出して頭を振り、うさ耳にまとわりつく水気を切る。
濡れた膚の上で秋風が転がり、その冷たさが心地いい。
「……だ、だめになる……だめになるぞ! 私はだめになる!」
またもミリシアは力強く宣言し、なにかの恨みを晴らすみたいな勢いで、顔とうさ耳をばちゃばちゃと洗った。
もはや、明日か明後日の食事に自分の汗が混ざっている可能性など、この世でもっともどうでもよかった。
今この瞬間、お湯に身をひたしている瞬間こそがミリシアにとっては全てだ。
「ああ、よくない……なんてよくないんだ……温泉はよくない……」
仰向けになって全身を弛緩させれば、体があおむけに浮く。
口を半びらきにしたミリシアは、湯の上で木の葉のようにたゆたった。
あまりの心地よさに、浮かびながらうとうとしはじめた頃合いである。
「ひっ!」
短い悲鳴が、ミリシアの眠りをさえぎった。
「し、し、死んでる……ひとが死んでる!」
半目を開くと、温泉のふちで、すっぱだかの女がひとり、腰を抜かしていた。
ミリシアはしぶしぶ体を湯船に沈めると、すっぱだかの女に会釈した。
「え……生きてる? 獣人?」
素晴らしい寂幕や、我が身と天地が一つになったかのような陶酔に、まったく無粋な邪魔が入ったものである。
ミリシアは温泉の端っこに移動すると、湯船のその辺を手で示した。
すっぱだかで震えあがっていた女は、尚もびくつきながらうなずくと、
「お、お邪魔します」
火にでも踏み入るように、爪先からそうっと湯に入った。
「……あれ、なんの耳だろ」
ちらちらと視線が飛んできて、女が小声でつぶやく。
(待て、どうやら天地と一つになっている場合ではないぞ、ミリシア・ネイデル)
判断力を取り戻したミリシアは、ようやく気付いた。
(この言葉、白神のものだ)
女の言葉は、康太が使っているのと同じもの、即ち日本語だった。
(このような僻地で白神に出会うとはな。どうも私は奇縁に恵まれているようだ。さて、喚ばれたものか、はぐれか……)
一般的に白神と言えば、魔述と迷宮の力によって異世界人を呼び寄せるものだ。
中つ国諸国や魔王領においては未だに白神召喚が盛んだと聞くが、ヘカトンケイルではほとんど行われていない。
これは純粋に経済的な問題である。
魔述師の頭数を揃えるのにも、迷宮の奥深くに存在する秘儀の祭壇を目指すのにも、金がかかる。
減価償却の見込み無しに呼び出す意味はない。
ヘカトンケイル人に言わせれば、問題のほとんどは、白神が固定資産ではないという点にあるのだ。
少なくない数の白神が、逃げ出し、病に倒れ、金払いの良い主人に鞍替えし、少数民族や被差別民を寄せ集めて理想国家を興し即座に滅亡した。
異世界人を呑んでかかり、自分ひとりが文明人であるかのような顔をして、ありとあらゆる文化にけちをつけて回るのを生きがいとするような者もいる。
同じ予算を付けるのであれば、店舗を全面改装した方がまだ利益を見込めるというのが、ヘカトンケイルで商いをするひとびとの共通認識だった。
しかし、はぐれの白神となれば話は別だ。
康太のように破格の条件で契約できれば、あとは死ぬなり理想国家を興すなりで手から離れるまで、ひたすら利益を生み出しつづける。
つまりこのときミリシアが考えているのは、リクルートだった。
まずは穏当に接触し、人となりを確かめ、雇用に足る人材であればピスフィに接触させる。
「髪きれい……」
白神の、ぼそっとした呟きに、考えを中断させられた。
ミリシアが目を合わせれば、白神はさっとそらして、顔を洗った。
(ふむ?)
「肌あれてない……」
しばらくして、また白神が呟く。
「おっぱいおおきい……」
またも白神が呟く。
憧れや悔しさのにじみ出た、ささやき声だった。
見れば少女の髪は濡れていても分かるほどに痛んでいたし、肩や胸の辺りでは、赤い吹き出物がちらちらとあって、痛々しい。
痩せて骨ばった身体の、浮き出した鎖骨と肋骨が、ミリシアをもの悲しい気分にさせた。
推測するに、深山の一統のところに迷い込んだ、はぐれの白神なのだろう。
(自分を恥じよ、ミリシア。今この白神に必要なのは安定した雇用ではない)
ミリシアはできるだけ穏やかに見えるよう、微笑んでみせた。
少女はおびえ、うつむいた。
(さて、こうした際、康太であればどのように切り出したものかな)
しばし考えてみたが、妙案は浮かばない。
だからミリシアは、持って回ることなく切り出すことに決めた。
「すまないが、私には日本語が分かるのだ」
少女の反応は、見ていて気の毒なほどだった。
しばし絶句したかと思えば、今にも死にそうな表情で何度も「ごめんなさい」を繰り返した。
それから、湯船の隅で膝を抱え、言葉もなく、うつむいてしまう。
よく見ると頬がもごもごと動いている。
口の中の肉を奥歯で甘噛みしているのだ。
「ミリシア・ネイデル。ヘカトンケイルの商人だ。気になっていたようだから答えるが、この耳は兎のもの。あなたの名は?」
「ちっ、ちどりがわっ、ちがやっ……」
きつく目を閉じて、つっかえながら名乗る少女の姿が、哀しく思える。
異世界に放り出されてから過ごした日々のことが、目に浮かぶようだ。
「私の髪がきれいと言ったな」
「ご、ごめんなさい……分からないって、思ったのよ」
「褒められて苛立つ者はおるまい。こと、髪は常から気を払っている部分であるからな」
白茅がおずおずと顔をあげる。
「こちらに来てからは長いのか?」
「あ、こっち、えと……異世界に? い、一年とか、それくらいかしら」
「エルフの森で?」
白茅がうなずいた。
「このような場所では、我と我が身を美しく保つ術も無かろうな。気の毒に思うよ」
白神の世界の衛生観念は、おおむねこちらよりも進んでいる。
ミリシアからしても、異常性を感じるほどだ。
それが、石斧とイラクサの森で一年も過ごしているのだから、辛いことだろう。
「髪……枝毛が……切ってるけど、石のナイフだし。ぼさぼさになっちゃうのよ」
少女はぼそぼそと、断片的な言葉をつないだ。
「仕方ないとは言え、酷な話であるな。だが、私であれば力になれるかもしれんぞ、白茅」
「ちっちから、に?」
ミリシアは湯船から上がって、竹のかごを掲げてみせた。
「それ……?」
「この深き森に文明の曙光をもたらすもの。
お風呂セットである」
ミリシアは力強く宣言し、白茅は目をしろくろさせた。




