第9話 小児看護の さしすせそ。
Forest亭の夕食時は、いつも賑やかだ。
今日も食堂には宿泊客や常連客が集まり、あちこちから楽しそうな話し声が聞こえている。
私はというと、食堂の隅でリトの夕食に付き合っていた。
「リト、お口なくなってからね」
「ん!」
リトは頬をぱんぱんに膨らませたまま、次のパンに手を伸ばす。
「まだ入ってるでしょ。ごっくんしてから」
「んー!」
「はいはい。なくなったらね」
(ほんと、一歳児って口いっぱいに詰め込むなぁ)
前世でも何度「一回ごっくんしようね」と声をかけたことか。
ようやく飲み込んだのを確認してパンを渡すと、少し離れたテーブルから大きな声が聞こえた。
「やだ!」
見ると、今日Forest亭に泊まっている家族だった。
五歳くらいの男の子が、野菜の入った皿を前にして腕を組んでいる。
「一口だけ食べてみない?」
「やだ! いらない!」
「おいしいよ?」
「おいしくない!」
「まだ食べてないじゃない」
「やなの!」
(あー……これは言えば言うほど意地になるやつだな)
とはいえ、知らない家の食事に口を出すのも違う。
私は再びリトに目を戻した。
「リト、それは投げない」
「や!」
「や、じゃないの」
床へ落とそうとしたスプーンを回収する。
すると、さっきの男の子がこちらを見ていることに気づいた。
目が合う。
「……なに?」
「ん?」
「さっきから見てる」
「見てないよ」
「見てた!」
どうやら野菜を嫌がっているところを見られたのが気になったらしい。
(なるほど)
私は男の子の皿をちらりと見る。
「おにいちゃん、それ食べられるの?」
「……え?」
「お野菜」
男の子が一瞬黙った。
「食べられるよ」
「ほんと?」
「ほんと!」
「すごーい! おにいちゃん、お野菜食べられるの? かっこいい!」
「……これくらい食べられるし」
(よし、乗った)
男の子が野菜を一つ持ち上げる。
「見てて」
「うん!」
ぱくっ。
少し嫌そうな顔をしながらも、もぐもぐと噛んで飲み込んだ。
「わあ! 食べた! すごい!」
「これくらい普通だよ」
そう言いながら、口元はちょっと嬉しそうだ。
「もう一個も食べられるよ」
「ほんと?」
「見てて!」
二つ目も自分から口に入れた。
(素直でよろしい)
「食べられたね」
お母さんが驚いたように息子を見る。
「うん!」
「昨日は絶対食べなかったのに……」
男の子は得意げに胸を張った。
「ぼく、もうおにいちゃんだから」
「そっか。すごいね」
その顔を見ていると、ふと前世のことを思い出した。
『看護師さんのおかげで食べられました!』
退院前、嬉しそうに報告してくれたお母さんがいた。
別の子のお母さんには、退院してしばらく経ってから、
『入院中、看護師さんたちが何でもたくさん褒めてくれたおかげで、自己肯定感爆上がりの男の子に育ちましたよ!』
なんて笑いながら言われたこともあった。
(あれ、嬉しかったなぁ)
私たちにとっては、毎日の中の何気ない声かけだった。
ご飯を一口食べられた。
薬を飲めた。
採血で泣きながらも腕を出せた。
昨日できなかったことが、今日は少しできた。
そんな小さなことでも、できたらみんなで褒めた。
『できたね!』
『頑張ったね!』
『すごい!』
それがその子の中にちゃんと残っていたんだと知ったときは、看護師をやっていてよかったと思った。
「ルマ!」
「ん?」
「見て! もう一個食べた!」
「ほんとだ! すごいじゃん!」
「へへっ」
男の子が得意そうに笑う。
(うん。やっぱりこの顔、好きだな)
前世でも今世でも。
子どもが「できた」と笑う顔を見るのは、どうやら私は好きらしい。
「ルマ」
振り返ると、いつの間にかママが立っていた。
「なに?」
「あなた、本当に子どもの扱いが上手ねぇ」
「そう?」
「私より上手なんじゃない?」
「そんなことないよ」
(まあ、前世で何人相手してきたか分からないからね)
四歳児がそんなことを言えるはずもなく、笑ってごまかす。
「うまぁ」
今度は服を引っ張られた。
「ん?」
リトが自分の皿を指差している。
そこには野菜が一つ残っていた。
「リトも食べる?」
「や!」
「お野菜食べられたら、かっこいいよ?」
「や!」
「おにいちゃんみたいに一個だけ食べてみる?」
「やぁ!」
全力で首を横に振られた。
「すごーい! できるかな?」
「やぁぁ!」
「…………」
おかしい。
さっきと同じ方法のはずなのに。
リトは野菜の皿を私から遠ざけると、代わりに両手を伸ばしてきた。
「うまぁ、あっこ!」
「はいはい……」
抱き上げると、満足そうに私の肩へ顔を乗せる。
(身内には効かないらしい)
小児看護、まだまだ奥が深い。




