第73話 流水手洗い
翌日。
朝の仕事がひと段落して、私は裏庭でリトと遊んでいた。
「ルマー!」
聞き慣れた声に振り返ると、アーリとシイが裏口から顔をのぞかせていた。
「アーリ! シイ!」
「遊ぼー!」
「うん!」
二人のところへ駆け寄ろうとして――私は、はっと足を止めた。
「あっ、待って!」
「なに?」
「入る前に手、洗って!」
私が裏口のそばに作ってもらった手洗い場を指さすと、アーリとシイはそろって首を傾げた。
「手?」
「なんで?」
「お外から来たから!」
シイが自分の両手を表にしたり裏にしたりする。
「でも、汚れてないぞ?」
やっぱり、そうなるよね。
「見えなくてもついてるかもしれないの!」
「なにが?」
「悪いやつ!」
「悪いやつ?」
アーリまで不思議そうに自分の手を見つめる。
「カロナ先生がね、手には見えない悪いやつがついてるかもしれないんだって。それが季節の流行病を運んでるかもしれないの!」
「見えないの?」
「見えない!」
「じゃあ、どうやって見つけるんだ?」
「見つけられない!」
「えー?」
シイの顔がますます怪しくなる。
説明、難しい。
「だからね、ついてるかもしれないから洗うの!」
私は手洗い場の前に立った。
置かれているのは、水の魔石。
昨日、みんなで相談したあと、パパが用意してくれたものだ。
魔石に手を触れて少しだけ魔力を流すと、上からさらさらと水が流れ落ちる。
「こうやって洗うの!」
流れる水の下に両手を出す。
「手のひらとー、手の甲とー、指の間も!」
一度手についたものを別の人につけないためには、同じ水を溜めて使うより、流れる水で洗ったほうがいい。
だから、桶に水を溜めてみんなで使うのではなく、一人ずつ新しい水で洗えるようにしてもらった。
「わあ!」
水が流れ始めると、アーリが目を輝かせた。
「私もやる!」
「俺も?」
「シイも!」
「汚れてないのに……」
ぶつぶつ言いながらも、シイが魔石に触れる。
ほんの少し魔力を流すと、新しい水がさらさらと流れ始めた。
「おお」
「そのまま洗うの!」
二人とも、私の真似をして手のひら、手の甲、指の間まで擦っていく。
洗い終わった水は、そのまま下へ流れていった。
二人が手を洗い終えると、私はきれいなコップを三つ並べた。
「次はこれ!」
「まだあるの?」
「お口と喉もすすぐの!」
水の魔石からそれぞれのコップへ新しい水を入れる。
私は水を口に含んで、少し上を向いた。
「がらがらがらー」
アーリとシイがじっと私を見る。
「……変な音」
「変じゃないもん!」
「昨日、ママも言ってた!」
すると、そばで見ていたリトが嬉しそうに自分のコップを持った。
「リトもー!」
「じゃあ、みんなでやろ!」
四人で水を口に含む。
「がらがらがらー」
「がらがらがらー!」
「がらがらがら!」
「がーらがーら!」
裏口に妙な音が響き渡った。
「ちょっとあなたたち! 遊びじゃないのよ!」
食堂からママの声が飛んでくる。
「ちゃんとやってるよー!」
「ねー!」
アーリが笑う。
シイまで面白くなってきたらしく、もう一度コップへ水を入れようとしていた。
「一回でいいの!」
「なんだよー」
昨日まで私を変な目で見ていたママが注意する側になっている。
切り替えが早い。
そのあと私たちは裏庭で遊び始めた。
しばらくして、食堂のほうから聞き慣れた声がした。
「ヤト、いるかー?」
「あ、ロウだ!」
私はアーリたちを連れて食堂へ戻った。
ロウはいつもの席に腰を下ろし、パパと話をしていた。
「ちょうどいいところに来たわね。何か食べる?」
「いや、今日は飯じゃなくて……まあ、ちょっと気になってな」
そう言いながら、ロウは頬を掻いた。
「今年の季節の流行病、なんかマシじゃないか?」
私は足を止めた。
「マシ?」
「ああ。流行ってないわけじゃないんだ。熱だの咳だので薬を買いに来るやつはいる。だから今年も多めに薬草を仕込んでたんだが……」
ロウは腕を組む。
「思ったより減らねえんだよ」
「薬草が?」
「ああ。毎年なら、この時期はもっと忙しい。家族の誰かが罹ったと思ったら、何日かして今度は別のやつが薬を買いに来たりしてな。今年もそうなると思ってたんだが……なんか違う」
そこへ、入口の扉が開いた。
「こんにちは」
「カロナ先生!」
「お、カロナ。ちょうどいい」
ロウが手招きする。
「お前のところはどうだ? 今年の流行病」
カロナは一瞬黙った。
「……ロウもそう感じていたか」
「ってことは、お前も?」
「ああ」
カロナは私たちのそばまで来ると、静かに話し始めた。
「患者がいないわけではない。むしろ、流行そのものは例年と同じように始まっていると思う」
「だよな」
「だが、広がり方が少し違う」
カロナの言葉に、私は思わず身を乗り出した。
「この前、ルマと話してから、患者とその家族に手を洗うよう伝えているんだ」
「手?」
ロウが眉を寄せる。
「なんで手を洗うんだ?」
知らない。
本当にロウは何も知らないんだ。
「病人に触れた手や、その人が触った物を通して、目には見えない何かが次の人へ運ばれている可能性がある。そう考えてな」
カロナが続ける。
「まだ確かとは言えない。ただ、手を洗うよう伝えた家では、家族全員へ次々と広がることが少ないように感じている」
「……それでか?」
「分からない」
カロナはすぐに答えた。
「偶然かもしれない。今年の流行病そのものが弱い可能性もある。だが……」
そこで一度言葉を切る。
「私のところで診る患者の様子と、薬を扱うお前のところで同じ変化が起きているなら、試す価値はさらにありそうだ」
ロウはしばらく黙っていた。
やがて入口のほうを見る。
「そういや、さっきから気になってたんだが」
指さした先には、リトが描いた大きな絵。
水を浴びる二つの手と、コップを口に当てて上を向く私。
「あの妙な絵はなんだ?」
「みょーじゃない!」
「ぼく、かいた!」
リトが胸を張った。
「ねぇね!」
「これルマなのか?」
「ねぇね!」
「……似てる、のか?」
「似てるもん!」
私が抗議すると、アーリが絵と私を見比べた。
「髪は似てるよ」
「髪は!?」
シイが吹き出した。
カロナまで笑っている。
「その絵が、手を洗うことを知らせるためのものだよ」
「ああ?」
ロウがもう一度絵を見る。
それから、その下に作られた手洗い場へ視線を落とした。
「じゃあ、Forest亭に入ってくるやつは、みんなあれ使ってんのか?」
「そうよ!」
ママが胸を張った。
「魔石に魔力を流せば水が出るから、入ってきた人にはそこで手を洗ってもらってるの。ごはんの前にもね!」
ロウが手洗い場へ近づき、水の魔石を覗き込んだ。
「なるほど。溜めた水じゃなくて、そのたびに新しい水で洗うのか」
「そのほうがいいんだよ!」
私も横から口を挟む。
「洗った悪いやつが、お水の中に残ったら嫌でしょ?」
「……なるほどな」
ロウが納得したように頷く。
「病人に触れた手、か……」
その表情が少し真剣になる。
「待てよ。それなら、俺の店のほうが必要なんじゃないか?」
「薬屋だから?」
「ああ。具合悪いやつが薬を買いに来るんだぞ。金を受け取ったり、薬を渡したり、そのあと別の客にも触る」
カロナがゆっくりとうなずいた。
「私も診察の前後には、できるだけ流れる水で洗うようにしている」
「じゃあ俺もやるか」
ロウはあっさりと言った。
「水の魔石なら店にもある。入口に一つ置いて、流れる水で洗えるようにすりゃいいんだろ?」
「手のひらだけじゃなくて、指の間もだよ!」
「はいはい」
「ちゃんと聞いて!」
ロウが笑いながら私の頭をぽんぽんと叩く。
「じゃあ、その絵も借りるか」
「だめ!」
リトが慌てて絵の前に立った。
「ねぇね!」
「分かった分かった。取らねえよ」
ロウが両手を上げる。
「じゃあ俺の店の分は、また描いてくれ」
「かく!」
即答だった。
その日の夕方。
遊び終えたアーリとシイが帰ろうとして、裏口で靴を履いていた。
「帰ったら手、洗うんだよ!」
「分かったー!」
「家でもやるの?」
シイが聞く。
「やるよ! お外から帰ったときと、ごはんの前!」
「じゃあ母ちゃんにも言ってみる」
「私も!」
アーリが手を振る。
「またね、ルマ!」
「またねー!」
二人が走っていくのを見送る。
Forest亭の入口には、今日もリトの絵が立っている。
その下では、水の魔石から流れた水が、小さな音を立てて消えていく。
最初は、私が手を洗っていただけだった。
それを見たカロナが考えて。
Forest亭のみんなが始めて。
お客さんが真似をして。
今日はアーリとシイが覚えて帰った。
そして今度は、ロウの薬屋にも水の魔石が置かれる。
ほんの少しずつ。
だけど確かに、この街に新しい習慣が広がり始めていた。




