第72話 感染対策。ここでも感染委員に!?
翌朝。
私は食堂の手伝いを始める前に、裏口のそばで両手を洗っていた。
昨日までは少し周囲を気にしていたけれど、今日は隠す必要がない。手のひら、手の甲、指の間まで、流した水で丁寧に擦る。
洗い終えると、今度はコップに水を入れて口に含んだ。
「がらがらがら……」
「ルマ、また昨日の変なことしてるの?」
振り返ると、ママが呆れたように私を見ていた。
「変なことじゃないよ! カロナ先生に教わったんだよー!」
「カロナ先生に?」
「うん! カロナ先生がね、手には見えない悪いやつがついてるかもしれないって! それが、季節の流行病をうつしてるのかもしれないんだって!」
六歳らしく説明してみると、ママは自分の両手を表裏に返した。
「見えない悪いやつ? 何もついてないわよ?」
「見えないから分からないの。でも、お水で洗ったら落とせるかもしれないんだって。だから、お外から帰ったときと、ごはんの前に洗うの!」
「それで昨日も洗っていたの?」
「うん!」
「でも昨日は、汚れた箱を触ったからって言ってなかった?」
「き、昨日は箱も触ったの!」
危ない。
ママはまだ疑わしそうな顔をしていたけれど、ちょうどそのとき、食堂の扉が開いた。
「おはようございます」
「あら、カロナ先生」
昨日の約束どおり、カロナがForest亭へやってきた。
私はここぞとばかりにカロナのそばへ駆け寄った。
「ママが信じてくれないの!」
「だって、見えない悪いやつが手にいるなんて言うのよ」
「なるほど。見えない悪いやつか」
カロナは少しだけ笑ってから、静かにうなずいた。
「ずいぶん簡単な言い方になっているが、間違ってはいないよ」
「ほらー!」
私が胸を張ると、ママはますます驚いた顔をした。
厨房からパパとトータも出てきて、何事かとこちらを見ている。リトまで私のそばへ寄ってきた。
カロナはみんなに、昨日私へ話してくれたことを、もう一度説明した。
季節の流行病は、同じ家や同じ場所にいる人へ続けて広がることが多いこと。
病気の人に触れた手や、その人が触った物を通して、目には見えない何かが運ばれている可能性があること。
その何かが次の人へ移る前に、手から洗い流せば、病気になる人を減らせるかもしれないこと。
「まだ確かだとは言い切れません。ですが、外から帰ったとき、食事の前、それから病人の世話をした後に手を洗う。試してみる価値はあると考えています」
「それなら、うちでもやってみましょう」
ママはすぐに納得してくれた。
一度信じると行動が早いのが、ママのいいところだ。
「それで、ルマがさっきしていたのは?」
ママが、私の持っているコップを指さした。
「口と喉をお水ですすいでたの!」
「それもカロナ先生に教わったの?」
カロナが私を見る。
私はカロナを見る。
「……口や喉から身体に入るものもあるかもしれないよね?」
できるだけ子どもらしく尋ねると、カロナは顎に手を添えた。
「なるほど。手を洗うのと同じように、口や喉をきれいな水ですすぐということか。どれほど効果があるかは分からないが、身体を害するものでもない。こちらも試してみる価値はありそうだ」
「だって!」
「昨日の変な音は、それだったのね」
「変じゃないもん!」
みんなで相談し、Forest亭の入口近くに手を洗う場所を作ることになった。
「でも、お客さん一人ずつに説明するのは大変ね」
ママが腕を組んで考えていると、そのそばでリトが床に座り込み、紙の切れ端に炭筆を走らせ始めた。
丸い頭の下に、小さな身体。前へ突き出した両手には、何本もの線が降りかかっている。
その隣には、コップらしきものを口に当て、上を向いている人まで描かれていた。
リトは描き終えると、紙を持ち上げて私のところへ走ってきた。
「これ、ねぇね!」
「私?」
「おみず、じゃー。がらがら!」
どうやら、手を洗って口と喉をすすいでいる私を描いたらしい。
髪の形まで一生懸命描いてあって、確かに私に見えなくもない。
「上手に描けたね、リト」
頭を撫でると、リトは得意そうに笑った。
その絵をのぞき込んでいたママが、ぱっと顔を輝かせる。
「そうだわ。絵でお知らせするのもいいわね!」
「絵で?」
「字が読めない人にも、これなら何をすればいいか伝わるでしょう?」
なるほど。
説明を書くだけでは、読めない人には伝わらない。けれど、手に水を流している絵なら、見ただけでも何となく分かる。
「リト、こっちの大きな板にも描ける?」
「かく!」
パパが大きめの木の板を用意し、トータが描きやすい高さに置く。
リトはさっきの小さな絵を横に並べると、炭筆を握り直した。
水を浴びる二つの手。
コップを持って上を向く人。
少し曲がった線もあったけれど、何をしているのかはちゃんと分かる。
「こっちも、ねぇね!」
「どっちも私なの?」
「ねぇね!」
リトの中では、手を洗って口と喉をすすぐ人といえば、私らしい。
完成した絵を入口へ立てかけ、その下に手を洗うための大きな桶を置いた。
口をすすぐためのきれいなコップは、リトが一つずつ隙間なく並べてくれた。
昼前になり、最初のお客さんがやってきた。
「なんだ、この絵は?」
「ぼく、かいた!」
リトが誇らしそうに答える。
お客さんは絵と桶を見比べながら首を傾げた。
「手を洗えってことか? 別に汚れてないぞ」
やっぱり、最初の反応はママと同じだった。
私は桶の前へ立ち、さっきと同じ説明を繰り返した。
「カロナ先生がね、手には見えない悪いやつがついてるかもしれないって! それが、季節の流行病をうつしてるのかもしれないんだって!」
「カロナ先生が?」
「ああ。私からもお願いする」
まだ店内にいたカロナがそう言うと、お客さんは素直に桶の前へ立った。
「先生が言うなら、やってみるか」
私が水魔法で新しい水を流すと、お客さんは不思議そうに両手を擦り合わせた。
その様子を見ていた次のお客さんも、絵を確かめてから後ろへ並ぶ。
一人が洗えば、もう一人。
大人が洗えば、子どもも面白がって真似をする。
そして、一度納得したママは誰よりも積極的だった。
「はい、この絵と同じように、ごはんの前に手を洗ってくださいね! カロナ先生が言っていたんですから!」
入口からお客さんが入ってくるたびに声をかけ、口と喉のすすぎ方まで私と一緒に実演している。
昨日まで不思議そうに私を見ていた人と同じとは思えない。
やがてForest亭では、「いただきます」の前に、小さな水音が聞こえるようになった。
食事の前に手を洗う。
ただそれだけのことが、この世界では新しい。
季節の流行病が、これですべて防げるわけではない。それでも、できることを一つずつ始めればいい。
入口に置かれたリトの絵を見ながら、私はそっと笑った。
こうしてForest亭に、また一つ新しい習慣が増えた。




