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『のんびり暮らしたい宿屋の娘、今日も子育て相談を受けています』 ~元小児科看護師の異世界暮らし~  作者: 入野 カフェイン


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第71話 手洗い・うがいは基礎基本

 春の陽射しはすっかり暖かくなり、Forest亭の窓から入ってくる風も柔らかい。


 寒い時期は、もうとっくに終わっている。


 それなのに、ここ数日、食堂では咳や鼻をすする音をよく聞くようになっていた。


「季節の流行病にかかる人が増えているみたいね」


 ママもそう言いながら、空になった皿を片づけている。


 季節が移り変わる頃になると、同じような症状を訴える人が増える。それを、この街では『季節の流行病』と呼ぶらしい。


 咳、鼻水、喉の痛み。ときどき熱を出す人もいる。


 前世でいう風邪に近いものだろう。


 高い熱を出して寝込む人は少ないようだけれど、最初は一人だけだった咳をするお客さんが、次の日には二人、そのまた次の日には三人と、少しずつ増えていた。


 市場へ買い物に行ったときも、店先で咳き込んでいる人を何人か見かけた。


 Forest亭へ戻った私は、裏口のそばで水魔法を使った。


 両手に水を流しながら、手のひらを擦る。指の間と爪の先まで洗い終えると、今度はコップに水を入れた。


 口に含んで、上を向く。


「がらがらがら……」


「ルマ、何してるの?」


「んぐっ」


 驚いて、危うく水を飲み込みそうになった。


 振り返ると、ママが不思議そうな顔で立っていた。


「さっき、ずいぶん丁寧に手を洗っていたでしょう? 手が汚れていたの?」


「えっ」


 言われてみれば、こちらの世界では、手を洗うのは泥や食べ物で汚れたときくらいだ。


 外から戻ったからといって、わざわざ洗う人はいない。


「えっと……帰りに、汚れた箱を触ったから!」


 咄嗟に嘘をついてしまった。


「そうなの? それならいいけど。今のは?」


「口が……ちょっと気持ち悪かったから、お水ですすいでたの」


「上を向いて?」


「の、喉も気持ち悪くて!」


 ママは首を傾げたものの、「変な子ねえ」と笑って厨房へ戻っていった。


 その背中を見送り、私はコップを持ったまま固まった。


 危なかった。


 ……じゃなくて。


 もしかして、この世界には、病気を防ぐために手を洗ったり、うがいをしたりする習慣がない?


 食器は洗うし、身体や服が汚れればきれいにする。けれど、目に見えないものを洗い流すという考えは、あまりないのかもしれない。


 だからといって、私が突然その必要性を説明するのもおかしい。


 六歳の子どもが、誰にも知られていない方法を急に語り始めたら、さすがに不自然だ。


 まず、この世界では、季節の流行病がどうして起こると考えられているのか。それを知らなければならない。


「ママ、カロナ先生のところに行ってきてもいい?」


「どこか具合が悪いの?」


「ううん。聞きたいことがあるの」


「暗くなる前に帰ってくるのよ」


「はーい!」


 私はForest亭を飛び出し、カロナの診療所へ向かった。


 診療所の待合には、いつもより多くの人がいた。


 鼻をすすっている子ども。時々咳き込む女性。だるそうに椅子へ座っている男性。


 季節の流行病は、思っていた以上に広がっているらしい。


 邪魔をしないよう端の椅子で待ち、最後の患者が診察室から出てくるのを見届けてから、カロナに声をかけた。


「カロナ先生」


「ルマじゃないか。どうしたんだい?」


 カロナは疲れているはずなのに、いつもの落ち着いた声で私を迎えてくれた。


「聞きたいことがあるの」


「どこか痛いのか?」


「ううん。季節の流行病って、どうして広がるの?」


 カロナがわずかに目を見開いた。


「また難しいことを聞くね」


「分からないの?」


「昔から、季節が変わると身体の中の巡りが乱れ、咳や鼻水が出ると考えられている。気候の変化に身体がついていけないのだとね」


「でも、それならみんな一緒になるんじゃないの?」


「そう。私も、そこが気になっていたんだ」


 カロナは診察机に片手を置き、考えながら続けた。


「一人が季節の流行病にかかると、同じ家の者が順番に似た症状を訴えることがある。特に、そばで看病をしていた者はかかりやすい。同じ店や仕事場で続けて患者が出ることもある」


「季節が変わったからだけじゃないの?」


「おそらくはね。咳と一緒に何かが飛んでいるのか。それとも、病人が触れた物や、その物に触れた手が何かを運んでいるのか……。目には見えないから、まだ確かなことは言えないが」


 やっぱりカロナは、もう気づきかけている。


 私は答えを言いたくなるのを堪えて、首を傾げた。


「手についたその“何か”って、お水では流れないの?」


「水で?」


 カロナの視線が、自分の手へ落ちる。


 そのまま長い間、何も言わなかった。


「……傷についた泥や異物は、水で洗い流してから治療する」


「うん」


「もし流行病を広げる何かも、同じように手へ付着しているのなら……」


 カロナは顔を上げた。


「そうか。次の者に触れる前に、洗い流せばいいのか」


 その声には、さっきまでになかった確信が混じっていた。


「患者を診た後に手を洗う。外から戻ったときや、食事の前にも洗えば、手から口へ運ばれるものを減らせるかもしれない」


「それなら、病気になる人も減る?」


「必ず防げるとは、まだ言えない。だが、試す価値はある。身体を害する方法でもないからね」


 カロナは立ち上がると、部屋の隅にある水桶へ向かった。


「診療所では今日から始めよう。患者たちにも、私から理由を説明する。Forest亭にも、改めて話をしに行くよ」


「ほんと?」


「ああ。このところの広がり方は、私も気になっていたんだ。君の疑問のおかげで、ようやく一つの方法が見えた」


 カロナが水を汲み、両手を丁寧に擦り合わせる。


 私は何も知らない子どもの顔で、その様子を見つめた。


 心の中では、何度もうなずきながら。


 そう、それ。


 それが、手洗いです。


 この街で初めての、季節の流行病を防ぐための手洗いは、カロナの診療所に響く小さな水音から始まった。

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