第69話 十人十色
昼を少し過ぎた頃。
Forest亭の食堂は、ようやく忙しさの山を越えていた。
さっきまでほとんど埋まっていた席にも空きが出て、厨房から聞こえる音も少しだけゆっくりになっている。
私は空いたテーブルの食器を集めながら、次はどこを片付けようかと見回した。
その時。
「もう……どうして飲んでくれないの」
小さな声が聞こえた。
見ると、食堂の端の席に、赤ちゃんを抱いた女の人が座っている。
さっきから何度か見かけているお客さんだ。
腕の中には、まだ小さな赤ちゃん。
その隣には哺乳瓶が置かれていた。
女の人は赤ちゃんを抱きながら、少し困った顔をしている。
「飲まないの?」
料理を運んできたママが声をかけた。
「そうなの。ごめんなさい、せっかくお湯までいただいたのに」
「そんなの気にしなくていいわよ」
「ありがとうございます。でも、この子……本当にミルクを飲んでくれなくて」
ミルク。
その言葉に、私の耳が反応した。
食器を持ったまま、なんとなくそちらを見る。
「母乳なら飲むんです。でも、ミルクは全然」
「あら」
「そろそろ家族にも預けられるようにしたいんですけど……哺乳瓶をくわえさせても、すぐに出しちゃって」
女の人が困ったように笑う。
「この子、ミルクが嫌いみたいで」
ミルクが嫌い。
私は手に持っていた食器を片付けてから、そっと近づいた。
「のまないの?」
女の人が私を見る。
「あら。こんにちは」
「こんにちは」
私は赤ちゃんを見る。
ほっぺたはふっくら。
顔色も悪くない。
お母さんの腕の中で、元気そうに手を動かしている。
少なくとも、今すぐどうこうという感じではなさそうだ。
「ほんとに全然飲まないのよ」
「おっぱいは?」
「それならよく飲むの」
「いつも?」
「ええ」
ふむ。
母乳は飲む。
でもミルクは飲まない。
前世でも、珍しい話じゃなかった。
哺乳瓶が嫌。
乳首の感触が嫌。
ミルクの味が嫌。
飲ませる人が違うと嫌。
逆に、お母さんがいると母乳を求めて哺乳瓶を嫌がる子もいた。
赤ちゃんだって、それぞれだ。
「ちょっと試してみる?」
女の人が哺乳瓶を持った。
「ほら」
赤ちゃんの口元へ持っていく。
口に入った。
一瞬だけ吸う。
ちゅっ。
そして。
「んべ」
舌で押し出した。
「ほらね」
お母さんが苦笑する。
「いつもこうなの」
私は哺乳瓶を見る。
中にはまだほとんどミルクが残っている。
「いつも、どのくらいのあったかさ?」
「え?」
「ミルク」
「温度?」
「うん」
女の人が哺乳瓶に触れた。
「人肌くらいよ。熱かったら危ないでしょう?」
「うん」
人肌。
もちろん、それ自体がおかしいわけじゃない。
熱すぎるものを赤ちゃんに飲ませるわけにはいかないし、作ったあとに温度を確認するのは大事。
でも。
私はもう一度赤ちゃんを見る。
「もうちょっと、あったかくしてみたら?」
「温かく?」
「うん。あつあつじゃなくて、いまよりちょっとだけ」
女の人が不思議そうな顔をした。
「でも、赤ちゃんのミルクって人肌くらいがいいんじゃないの?」
「うーん」
どう説明しよう。
六歳児が赤ちゃんのミルクについて妙に詳しいのもおかしい。
「このこ、あったかいほうがすきなのかも」
「好み?」
「うん!」
そう。
好み。
前世の病棟にもいた。
同じミルク。
同じ哺乳瓶。
同じ乳首。
それなのに、少しぬるくなった途端に飲まなくなる子。
作ったばかりの少し温かめの時ならよく飲むのに、時間が経つと口を閉じる子。
大人だってそうだ。
熱いお茶が好きな人もいれば、少し冷ましてからじゃないと飲めない人もいる。
ぬるいコーヒーが嫌いな人だっている。
だったら。
赤ちゃんに好みがあっても、おかしくない。
「でも、熱すぎたら危ないわよね?」
ママが聞く。
「うん。だから、ちょっとだけ」
私は指で、ほんの少しという形を作った。
「いまより、ちょっと」
女の人は少し迷ってから、哺乳瓶を見た。
「……やってみようかな」
ママがお湯を用意する。
哺乳瓶を少し温めて。
女の人が何度も確認する。
「これくらい?」
「熱くない?」
「大丈夫。さっきよりは温かいけど」
なら、試してみてもいいと思う。
「じゃあ……もう一回ね」
赤ちゃんを抱き直す。
哺乳瓶の乳首を口元へ。
赤ちゃんが口を開いた。
ちゅっ。
「……」
みんな黙った。
ちゅっ。
ちゅっ。
ごくん。
「……え?」
女の人が固まった。
ちゅっ。
ごくん。
ごくん。
「飲んでる」
ママが小さな声で言った。
「飲んでる……!」
女の人の声が大きくなる。
びっくりした赤ちゃんが一瞬吸うのをやめた。
「あっ、ごめんごめん!」
慌てて声を小さくする。
私は思わず笑った。
再び口元へ持っていくと。
ちゅっ。
ごくん。
さっきより明らかに飲んでいる。
全部を一気に飲むわけじゃない。
途中で止まったり。
少し口からこぼしたり。
それでも。
さっきみたいに、すぐ舌で押し出すことはなかった。
「……温度だったの?」
女の人が信じられないように哺乳瓶を見る。
「たぶん!」
たぶん。
ここは大事。
一回飲んだからといって、絶対に温度が原因だったとは限らない。
たまたま今はお腹が空いていたのかもしれない。
気分がよかったのかもしれない。
次はまた飲まないかもしれない。
赤ちゃんなんて、そんなものだ。
でも。
試してみることはできる。
「私、ずっとミルクが嫌いなんだと思ってた」
「ミルクじゃなかったかもね」
「こんなことで変わるのね……」
こんなこと。
だけど。
こういう小さな違いが大きかったりする。
前世でもそうだった。
「飲まない」
その一言だけでも、理由はいくらでもあった。
味。
温度。
姿勢。
乳首。
周りの音。
眠さ。
お腹の空き具合。
その子が何を嫌がっているのか。
どうしたら少し楽になるのか。
一個ずつ試して。
一個ずつ探していく。
それが、結構大事だった。
「ルマ、よく思いついたわね」
ママが感心したように言う。
「え」
まずい。
「なんとなく!」
便利な言葉。
なんとなく。
六歳児は大体これで乗り切れる。
「赤ちゃんにも好みがあるってことかしら」
「たぶん!」
私はもう一度言った。
すると。
赤ちゃんが哺乳瓶から口を離した。
「もういらない?」
お母さんが尋ねる。
赤ちゃんは答えない。
当然だ。
代わりに。
お母さんの胸元へ顔をぐりぐり押しつけ始めた。
「あら」
「……」
私は見つめる。
ぐりぐり。
「そっちはいるんだ」
女の人が笑った。
「やっぱりおっぱいの方が好きみたい」
まあ。
それは仕方ない。
ずっと飲んできたものだし。
何より、大好きなお母さんに抱っこしてもらいながら飲める。
強い。
母乳、強い。
「でも、少しでも飲めるって分かっただけで安心した」
女の人は嬉しそうに、残ったミルクを見る。
「次から、もう少し温かめで試してみます」
「うん。でも、あつくしすぎないでね」
「ふふ。分かったわ」
よかった。
私は空になった食器を持って、再び仕事へ戻る。
その途中。
後ろからママの声が聞こえた。
「ルマ、あっちのテーブルもお願い」
「はーい」
私は手を伸ばす。
布巾がふわっと浮かび上がった。
赤ちゃんにも好みがある。
飲まないなら。
嫌いだと決めつける前に、ちょっと変えてみる。
温度を少し変えるだけで飲めることだってある。
前世では当たり前に考えていたこと。
でも。
こうして誰かが少し安心した顔をしてくれると。
やっぱり嬉しい。
私は布巾を魔法で滑らせながら、ちらっと赤ちゃんを見る。
お母さんに抱かれて。
今度は満足そうな顔で母乳を飲んでいた。
「……そっちのほうがいいんかい」
思わず小さく呟く。
まあ、いいか。
ミルクも少し飲めた。
今日はそれで十分だ。




