第63話 春のぬくもり
朝。
目を開けると、白いカーテンがゆっくりと膨らんでいた。
ふわりと膨らんではしぼんで、またふわり。少し開けていた窓から入ってきた風が、私の頬を撫でていく。
「……きもちいい」
布団の中でごろんと寝返りを打つ。
少し前までは、朝起きたらまず寒かった。布団から足を出すだけで後悔して、暖房の魔法を使って部屋を暖めて、できることなら春まで布団と一体化していたかった。
でも今は違う。
窓を開けたままでも寒くないし、かといって暑くもない。風は少しひんやりしているけれど、日差しは暖かい。
ずっとこのくらいならいいのに。
ぼんやりカーテンを眺めていると、下からトントントンと一定の速さで包丁の音が聞こえてきた。
パパだ。
その向こうからはママの声もする。
「今日はいい天気になりそうねえ」
誰かと話しているらしい。
さらに、廊下からぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。
「リト! 走るなって!」
トータ兄ちゃんの声。
「はーい!」
ぱたぱたぱたぱた。
「走ってるだろ!」
「……ふふ」
思わず笑った。
今日もいつもの朝だ。
特別な予定はない。新しい料理を作る予定もないし、冒険者さんたちが変な魔獣を持ってくる予定も――たぶんない。
Forest亭が開いて、お客さんがご飯を食べて、泊まっている人たちが出かけて。また誰かが帰ってきて、夜になったらみんなでご飯を食べる。
そんな日。
私はもう一度、布団に顔を埋めた。
「……あとちょっと」
気持ちのいい朝は、二度寝にも向いている。
――と思ったのに。
「ルマー! 起きてるー?」
下からママの声がした。
「おきてるー!」
「じゃあ降りてきてー!」
「はーい!」
返事をして、もう一度布団に潜る。
…………。
「ルマー?」
「いまいくー!」
仕方ない。
起きよう。
朝のForest亭は、いつも通り賑やかだった。
宿泊していたお客さんたちが朝食を食べ、ママはテーブルの間を行ったり来たり。パパは厨房で料理を作り、トータ兄ちゃんもその横で手伝っている。
暖かくなってから、食堂の窓も開けるようになった。外から入ってきた風がカーテンを揺らし、焼いたパンの匂いを食堂の中へ運んでいく。
私は窓際の椅子に座って、その風を浴びていた。
「ルマ!」
厨房からパパの声。
「なにー?」
「洗い物!」
「はーい」
返事をして、動かない。
「ルマ!」
「やってる!」
「どこがだ!」
パパが厨房から顔を出した。
私は厨房を指差す。
パパが振り返ると、そこではふわりと浮いた皿が水の中をくるくる回っていた。汚れが落ちると別の水ですすがれて、最後は風で水滴を飛ばす。乾いた皿はそのまま棚へ、一枚、また一枚と戻っていく。
「ほら」
「……お前、一歩も動いてないだろ」
「まほうが、うごいてる」
「屁理屈を覚えるな」
「おしごとは、こうりつ!」
「誰に教わったんだ、そんな言葉」
前世です。
「ルマ」
今度はママに呼ばれた。
「これ、厨房までお願い」
「はーい」
ママが空いた皿を重ねる。
私は指をちょいっと動かした。
ふわり。
皿が浮かび上がり、そのまま厨房へ飛んでいく。
「便利ねえ」
「ママまで使うな!」
パパの声が飛んできた。
「いいじゃない。早いんだから」
「ほら!」
「ルマは得意げになるな!」
パパだけが納得していない。
そんなやり取りをしている横では、リトが何やら真剣な顔をしていた。
テーブルの端に並べられた旅ごはんの包みを、指を一本ずつ動かしながら数えている。
「いち、に、さん、よん……」
ママが気づいた。
「リト、旅ごはんあといくつ?」
「まって!」
もう一度、最初から数え直す。
「いち、に、さん、よん、ご、ろく!」
リトが顔を上げた。
「ろっこ!」
ママが実際に数えて確認する。
一、二、三、四、五、六。
本当に六個だった。
「正解!」
ママが笑うと、リトも嬉しそうに笑った。
すると、そのやり取りを近くで見ていた宿泊客の女の人が声をかけた。
「まあ。もうちゃんと数えられるの?」
リトが振り返る。
「うん!」
「六個も分かったの? すごいねぇ」
ぴたっとリトが止まった。
「……すごい?」
「すごいよ。ちゃんと全部数えられたんでしょう?」
リトの顔が、みるみる嬉しそうになる。
「ろっこ!」
もう一回言った。
「そうなの。この子、数えるの得意なのよ」
ママまで嬉しそうだ。
「ね、リト?」
「うん!」
得意げ。
ものすごく得意げ。
胸まで張っている。
そして。
「パンもかぞえる!」
「え?」
リトが今度はパンの入った籠へ走る。
「いち、に、さん……はち!」
どうやら完全にスイッチが入ったらしい。
「はちこ!」
「八個もあるの?」
宿泊客が聞く。
「うん!」
確認すると、本当に八個。
「まあ、すごいねぇ」
「すごい!」
今度は自分で言った。
「リト、これも!」
私も近くにあった小さな皿を指差す。
「ルマ、煽るな」
トータ兄ちゃんが厨房から言う。
でもリトはもう数え始めている。
「いち、に、さん、よん!」
「せいかい!」
「よんこ!」
「リト、かぞえるのじょうず!」
「うん!」
褒められるたびに、どんどん笑顔になっていく。
分かりやすい。
かわいい。
「わたしよりじょうず!」
そう言うと、トータ兄ちゃんが手を止めた。
「……それはどうなんだ?」
「なにが?」
「姉として」
失礼な。
「ルマだって数えられるでしょ?」
ママが笑いながら言った。
「かぞえられる!」
「じゃあ、あそこに重ねてあるお皿、何枚?」
「え?」
見る。
結構ある。
「…………いっぱい」
「じゅうに!」
横からリトが答えた。
数える。
本当に十二枚。
「……」
「リトの勝ちだな」
トータ兄ちゃんが笑う。
「しょうぶしてない!」
「かった!」
リトは勝ったつもりらしい。
「かった!」
「しょうぶしてないもん!」
「かったー!」
宿泊客まで笑い出した。
なんで。
昼になると、Forest亭はいつものように忙しくなった。
料理を作るパパ。その隣で手伝うトータ兄ちゃん。食堂を動き回りながら、なぜかどのテーブルでも一度は立ち話をしているママ。
リトは頼まれてもいないのに、まだ時々何かを数えている。
そして私は。
「ルマ! そこの野菜!」
トータ兄ちゃんに呼ばれる。
「はーい」
ふわりと野菜の籠を浮かせ、そのまま厨房へ送る。
トータ兄ちゃんが受け取った。
「ありがと。やっぱ便利だな」
「でしょ?」
「トータ、褒めるな。ますます動かなくなる」
パパが言う。
「だって便利じゃん」
「ほら!」
「ルマは喜ぶな」
厳しい。
昼の忙しさが過ぎる頃には、食堂も少し静かになっていた。
開け放った窓から、また風が入ってくる。朝より少し暖かい。
外を見ると、裏庭の草が風に揺れていた。
私はそのまま外へ出た。
暖かい。
空は青く、冬の間はほとんど見なかった小さな虫が草の上を飛んでいる。
私は裏庭の真ん中に寝転がった。
「はぁー……」
気持ちいい。
土と草の匂い。遠くから聞こえる街の音。Forest亭から聞こえてくる食器の音。
目を閉じる。
「ルマ」
トータ兄ちゃんの声。
「なに?」
「そこで寝たら服汚れるぞ」
「いいの」
「ママに怒られるぞ」
「…………」
起きた。
トータ兄ちゃんが笑う。
「はや」
「おこられたくない」
「じゃあ最初から寝るなよ」
それはそれ。
これはこれ。
夕方。
少し涼しくなった風が、また食堂を通り抜けていく。
営業が一段落して、家族みんなで少し遅めのご飯を食べた。
「それでね、今日泊まってるお客さんが――」
ママが今日あったことを楽しそうに話している。
パパは食べながら頷いた。
「それ、昨日も聞いたぞ」
「違うわよ。昨日とは別の話」
「同じ客だろ?」
「同じ人でも今日と昨日じゃ話すこと違うでしょ!」
「そうか?」
「そうよ!」
いつもの二人。
トータ兄ちゃんは横で笑っている。
リトは――。
「……ろっこ……」
眠そうな顔で呟いていた。
「何が六個なの?」
ママが聞く。
「……ぱん……」
まだ数えてる。
「もう数えなくていいぞ」
パパが笑った。
リトは目をこすりながら、それでもちょっと嬉しそうだった。
今日、「すごいねぇ」と言われたことがよっぽど嬉しかったらしい。
私はパンを齧りながら、みんなを見る。
転生したばかりの頃は、何もかもが知らないものだった。
この家もForest亭も、パパもママもトータ兄ちゃんも、生まれたばかりだったリトも。
それが今では、朝に聞こえるパパの包丁の音も、ママのよく通る笑い声も、トータ兄ちゃんに怒られるリトの足音も、食堂から聞こえるお客さんたちの声も、窓から入ってくる風も、全部いつものものになった。
新しい料理が生まれなくても、何か特別なことが起きなくても、こうして朝が来て、みんながいて、Forest亭がいつも通り開いて、夜になったら同じテーブルでご飯を食べる。
こういう日が、一番好きなのかもしれない。
明日もきっと、同じように朝が来る。
それでいい。
むしろ、それがいい。
「ルマ」
「ん?」
パパが私を見る。
「食い終わったなら、皿持ってこい」
「……」
私は残っていたパンを口いっぱいに詰めた。
「いま、いそがしい」
「何がだ」
「もぐもぐしてる」
「食い終わったらな」
逃げられなかった。
私は自分の皿を見て、そっと指を動かす。
ふわっ。
「今日は自分で持ってこい」
「まだなにもしてない!」
「しようとしただろ」
「してない!」
「皿浮いてるぞ」
見る。
浮いていた。
「……」
トータ兄ちゃんが吹き出し、ママも笑う。それにつられて、リトまで眠そうな顔で笑った。
窓から、柔らかい風が入ってくる。
今日もForest亭は、いつも通りだった。




