第52話 おむつ交換の攻防戦
春になって、Forest亭には子ども連れのお客さんも少しずつ増えてきた。
その日泊まっていたのは、まだ小さな男の子を連れたお母さんだった。
朝食を終えたあと、ママと楽しそうに話していたのだけれど、途中で男の子が椅子から降りて、食堂の中をとことこと歩き始める。
「あら、元気ねえ」
「もう、本当にずっと動いてるんです」
お母さんは笑いながら追いかけて、男の子を抱き上げた。
「最近はおむつを替えるのも大変で。寝かせたらすぐ動いちゃうし、立たせてもまだふらふらするし……」
「このくらいの時期って大変よねえ」
ママが頷く。
私は近くのテーブルでパンを食べながら、その会話を聞いていた。
よく動く子のおむつ交換。
分かる。
非常によく分かる。
なぜなら、我が家にもいるからだ。
「リトー!」
ちょうどそのとき、ママに呼ばれたリトが奥からやってきた。
「なにー?」
「おむつ替えようか」
「やー!」
ほら。
元気いっぱいである。
ママが捕まえるより先に、私は椅子から降りた。
「ルマやる!」
「お願いしてもいい?」
「うん!」
リトのところへ行って、新しいおむつを持ってくる。
「リト、たって」
「たつ!」
リトは椅子の背につかまって立った。
そのまま古いおむつを外して、新しいものに替える。
右足。
左足。
整えて。
「おわり!」
「はやい!」
リトはすぐに走っていった。
その様子を見ていたお母さんが、目を丸くしている。
「寝かせないのね」
「うん。リト、うごくから」
寝かせて逃げられるなら、最初から立ってもらえばいい。
今のリトはその方が圧倒的に早い。
「でも、うちの子はまだ一人で立つのが不安定で……」
お母さんの腕から降ろされた男の子は、椅子につかまって立ってみせた。
確かに立てる。
でも、片手を離した途端に身体がぐらりと揺れた。
お母さんが慌てて支える。
「まだ危ないのよね」
「んー……」
私は男の子を見る。
立ちたい。
でも、一人ではまだ少し危ない。
だったら。
「……ふたりでやったら?」
「二人?」
「うん!」
なんだか今、いいことを思いついた気がする。
私は近くにいたママを呼んだ。
「ママ、リトたたせて!」
「また替えるの?」
「れんしゅう!」
「さっき替えたばっかりよ?」
そうだった。
仕方がないので、おむつ交換のふりだけすることにした。
ママが立っているリトの身体を後ろから支える。
「ひとりが、こうするの」
私はリトの足元にしゃがんだ。
「もうひとりが、おむつ!」
「ああ……!」
お母さんが納得したように頷いた。
一人で全部やろうとすると大変でも、二人いるなら役割を分ければいい。
(これ、立ちたい子なら結構早いかも)
もちろん、いつも二人いるとは限らない。
それに、その子が立つのを嫌がるなら使えない。
でも、使えるときには使えばいい。
「ルマちゃん、すごいわね。弟くんのおむつ、いつも替えてるの?」
「うん!」
「まだ五歳よね?」
「ごさい!」
胸を張る。
「どうしてそんなに慣れてるの?」
「リトで、いっぱいれんしゅうした!」
嘘ではない。
前世まで含めれば、数えたくないくらい替えているけれど。
「でもね」
お母さんが少し困ったように笑った。
「この子、もう少し小さい頃は寝返りがすごくて。寝かせて替えようとしても、足を入れたと思ったらくるって回っちゃって」
「あー!」
それも分かる。
少し前のリトが、まさにそうだった。
おむつを広げる。
足を入れる。
くるん。
「まって」
戻す。
もう一度、足を入れる。
くるん。
「…………」
おむつ交換という名の攻防戦である。
「あのときはね」
私は床に座って、自分の膝を曲げてみせた。
「こうしてた!」
「足を曲げるの?」
「うん。おなかのほうに、ちょっと」
膝を軽く曲げて、お腹の方へ寄せる。
無理に押さえるのではなく、ころんと横を向きにくい姿勢にして、その間にさっと替える。
「こうしたら、リト、ころんってしにくかったよ」
「あら、それなら私にもできそう」
お母さんが男の子を見ながら笑った。
私はなんだか嬉しくなった。
子どもって、みんな違う。
寝返りしたくて仕方がない子もいる。
立ちたくて仕方がない子もいる。
じっとしている子もいれば、一秒たりとも止まってくれない子もいる。
前世の病棟でも、同じ年齢だからといって同じ方法がうまくいくわけじゃなかった。
(その子にあうやりかたが、いちばんだよね)
寝返りがすごいなら、寝返りしにくい姿勢で手早く。
立つ方が楽なら、立って。
まだ一人で立つのが危ないなら、誰かに支えてもらう。
一つのやり方にこだわらなくてもいい。
「ありがとう、ルマちゃん。今度やってみるわ」
「うん!」
私にとっては、それだけの話だった。
だから。
その親子が町へ帰ったあと、お母さんが同じくらいの子どもを育てる友人に、この日のことを話したことも。
「Forest亭にね、子どものことにすごく慣れてる女の子がいるの」
そんな話が、また一つ。
誰かから誰かへと渡っていったことも。
私は、まだ知らない。
その頃の私はというと。
「リトー!」
「なにー?」
「おむつ!」
「やー!」
「なんでー!」
逃げていく弟を追いかけていた。
子どもの扱いが上手い女の子。
そんな噂が広がり始めていることには、もちろん気づいていなかった。




