第47話 春の芽生え
朝。
目が覚めたとき。
最初に気づいたのは、空気だった。
「…………」
布団から顔を出す。
寒くない。
いや。
寒くないことはない。
でも、いつもの朝とは違う。
少し前までなら、布団から出した鼻の先が冷たくなって。
もう一度潜り込みたくなっていた。
それが今日は。
「……さむくない」
私は布団から這い出した。
窓の向こうから、鳥の声がする。
ちゅん。
ちゅんちゅん。
「…………」
なんだろう。
いつも聞いていたはずなのに。
今日は、やけに大きく聞こえる。
私は寝台から降りて、窓へ近づいた。
外は明るい。
屋根に積もっていた雪は、もうほとんど残っていない。
道の端に少しだけ。
冬の忘れ物みたいに、白い塊があるくらいだった。
「……おお」
なんだか。
世界が少しだけ明るくなった気がする。
◇
一階へ降りる。
「おはよー」
「おはよう、ルマちゃん」
ママの声が返ってくる。
そして。
私は足を止めた。
食堂の窓が、開いていた。
「ママ」
「なあに?」
「まど、あいてる」
「開けたわよ」
「さむい」
「もう春よ」
「…………」
私は開いた窓を見る。
外から風が入ってくる。
冷たい。
でも。
冬の風とは少し違う。
頬に当たっても、痛くない。
「……はる?」
「そう。もう春」
ママはそう言いながら、窓辺の布を整えた。
厨房からパパの声がする。
「今日は暖炉いらないかもな」
「朝だけ少しつけたら?」
「そうするか」
「…………」
いつも通り魔法であたたかい空気を広げた。
暖炉がいらない。
それはつまり。
本当に。
「はるだ」
口に出してみる。
なんだか嬉しくなった。
◇
朝ごはんを食べたあと。
私は外へ出た。
昨日までと同じ町。
なのに、少し違って見える。
厚い上着を着ている人が減っている。
店先の窓が開いている。
冬の間は足早に歩いていた人たちが、今日は少しゆっくり歩いている。
道はところどころ濡れていた。
雪が解けたせいだろう。
うっかり踏むと、靴の裏に泥がつく。
「うわ」
危ない。
春。
意外と汚い。
私は泥を避けながら歩く。
市場を覗くと、並んでいるものも少し変わっていた。
見慣れない葉野菜。
小さな豆。
柔らかそうな緑色の葉。
「これ、なに?」
「春に採れる野菜だよ」
店のおばさんが教えてくれる。
「もう少し暖かくなったら、もっと増えるよ」
「もっと?」
「ああ。これからだ」
これから。
その言葉が、なんだかいい。
冬の間。
町から何かがなくなっていたわけではない。
みんな普通に暮らしていた。
でも。
春になると。
町が少しずつ外へ広がっていくみたいだった。
荷馬車が通る。
旅人が歩いている。
市場には荷物が増えている。
子どもたちの声が聞こえる。
冬の間、閉じていたものが。
少しずつ開いていく。
そんな感じ。
「…………」
私は大きく息を吸った。
冷たい空気。
土の匂い。
どこかから、焼いたパンの匂い。
(春だなあ)
◇
Forest亭へ戻ると。
ママが厚い布を抱えていた。
「なにしてるの?」
「冬物を片づけようと思って」
食堂で使っていた厚手の布や、寒い日に窓際へ掛けていたもの。
それを一枚ずつ外している。
「これも?」
「それも」
私は小さな布を一枚持った。
「これ、どこ?」
「そっちに置いて」
「はーい」
……。
…………。
私は手を止めた。
(また働いてる)
おかしい。
春になった瞬間から働いている。
「ルマちゃん?」
「なんでもない」
布を置く。
これはお手伝い。
仕事ではない。
そういうことにしておこう。
◇
ふと。
思い出した。
私は裏庭へ向かった。
「どこ行くの?」
「にわ!」
扉を開ける。
まだ草は少ない。
木も、全部が緑になっているわけではない。
でも。
土の色が冬とは違う。
少し湿って。
柔らかそうで。
私は庭の隅へ向かった。
「あった」
しゃがみ込む。
少し前。
ここで見つけた、小さな芽。
寒い風の中。
土からほんの少しだけ顔を出していた。
それが。
「おおきくなってる」
小さな葉が開いていた。
まだまだ小さい。
手のひらよりずっと小さい。
でも。
あのときより、確実に伸びている。
私は指先で触れないように、じっと眺めた。
(あのときは、まだこんなに小さかったのに)
春は。
今日、突然来たような気がしていた。
朝起きたら暖かくなって。
窓が開いて。
ママが「春よ」と言ったから。
春になった。
そんな気がしたけれど。
たぶん違う。
少しずつ雪が解けて。
少しずつ風が変わって。
少しずつこの芽が伸びて。
ずっと。
春は近づいていたのだ。
私が気づかなかっただけで。
「…………」
春か。
前世では。
春といえば。
桜。
暖かい風。
新生活。
新年度。
それから。
新人。
「…………」
新人。
四月。
新人指導。
新しい業務。
委員会。
年度目標。
「…………」
私は首を振った。
(やめよう)
せっかくの春なのに。
仕事を思い出してしまった。
悲しいかな。
看護師十年目の習性である。
でも。
今は違う。
私は五歳。
新人指導をしなくていい。
委員会もない。
年度目標もない。
研修もない。
春だ。
ただの春だ。
「…………」
最高では?
私はその場に、ごろんと寝転がりそうになった。
……土が湿っているのでやめた。
五歳児でも、それくらいの判断力はある。
◇
「ルマー!」
遠くから声がした。
振り返る。
リトがこっちへ走ってくる。
「なにしてるの?」
「はる、みてる」
「はる?」
「うん」
リトは周りを見回した。
そして。
「どれ?」
「…………」
春という物体を探している。
「これ」
私は小さな芽を指差した。
リトがしゃがむ。
「ちっちゃい」
「おおきくなったんだよ」
「ふーん」
興味があるのかないのか。
リトはしばらく芽を見ていたけれど。
すぐに立ち上がった。
「遊ぼ!」
「なにする?」
「走る!」
「…………」
春になったからといって。
なぜ走らなければならないのか。
五歳の私には分からない。
中身三十歳には、もっと分からない。
「ルマ、はやく!」
「まってー!」
結局。
走った。
◇
夕方。
Forest亭の前に座って、私は町を眺めていた。
昼間より少し冷たい風が吹いている。
まだ完全に暖かくなったわけじゃない。
春になったからといって。
明日から全部が変わるわけでもない。
でも。
これから。
外で遊べる時間が増える。
市場に並ぶものも増える。
旅人も増える。
Forest亭も、きっと忙しくなる。
釣りにも行ける。
料理に使えるものも増える。
知らない場所へも行ってみたい。
「…………」
やりたいことが。
少しずつ頭に浮かんでくる。
私は足をぶらぶらさせた。
「ことしのはる、なにしようかな」
すぐには決まらない。
まあ。
いいか。
今日決めなくても。
春は。
始まったばかりなのだから。
私は顔を上げる。
冬より少しだけ長くなった夕方の空。
どこかで鳥が鳴いている。
町からは、人の声。
Forest亭からは、晩ごはんの匂い。
そして。
頬を撫でる風は。
もう。
冬の風ではなかった。
春が来た。




