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『のんびり暮らしたい宿屋の娘、今日も子育て相談を受けています』 ~元小児科看護師の異世界暮らし~  作者: 入野 カフェイン


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第4話 #転倒転落リスク状態

 寝返りができるようになった。


 今まで天井しか見えなかった世界が、右を向ける。左も向ける。頑張ればうつ伏せにもなれる。


(素晴らしい)


 とはいえ、行動範囲はまだ狭い。


 ある日、ベッドの上で暇を持て余していた私は、少し離れたところに置かれた布のおもちゃに目をつけた。


(あれ、取れそう)


 寝返りを打って手を伸ばす。


 届かない。


(もうちょっと……)


 身体をよじり、さらに手を伸ばした。


 ずるっ。


(あ)


 思った以上に身体が前へ滑った。


 目の前に床が見える。


(やばっ)


 慌てて戻ろうとするけれど、頭は重いし、腕は短い。どうにもならない。


 その瞬間、前世の記憶が蘇った。


『ほんの少し目を離しただけなんです』


 ベッドから転落した子どものお母さんが、泣きそうな顔で話していた。


『昨日までは、こんなに動かなかったのに……』

『おむつを取ろうと後ろを少し見ただけなのに…』


 そのとき私は、


『びっくりしましたよね。赤ちゃんって、昨日できなかったことが急にできるようになりますもんね』


 なんて説明していたけれど。


(……なるほど)


 今なら分かる。


(こうやって赤ちゃんはベッドから落ちるんだ)


 ものすごく納得した。


 いや、納得している場合ではない。


(落ちる落ちる落ちる――!)


「ルマ!」


 身体が傾いた瞬間、横から伸びてきた手に掴まれた。


「もう! 何してるの!」


 フルコだった。


「昨日までこんなところまで来なかったじゃない」


(そうなんだよねぇ)


 赤ちゃんって、急にできるようになるんだよねぇ。


 前世では何度も親御さんに説明した。


 まさか今世で、説明される側どころか原因そのものになるとは思わなかった。



     ◇ ◇ ◇



 それからしばらくして。


 私はついに、ハイハイを習得した。


(自由だ……!)


 四つん這いだけど。それでも、誰かに運ばれなければ何処にも行けなかった頃とは大違いだ。


 そんな私には、前々から気になっていた場所がある。


 自宅の廊下の先にある、一枚の扉。


 フルコもヤトも毎日のようにそこを出入りしている。開くたびに賑やかな声が聞こえ、美味しそうな匂いが漂ってくる。


(今日こそ行く)


 フルコは洗濯中。ヤトの姿もない。


 私は廊下を進んだ。


 ぺた、ぺた、ぺた。


(遠いな……)


 大人なら数歩なのに、今の私には大遠征である。


 ようやく扉の前まで来た、そのとき。


「ルマ?」


(げ)


 振り返ると、トータが立っていた。


「なにしてるの?」


「あー!」


 私は扉を指差した。


「あっち行きたいの?」


「あー!」


「……いいよ。ぼくがつれてってあげる」


(兄よ……!)


 まさかの協力者を得た。


 トータが扉を開けると、賑やかな声と料理の匂いが一気に押し寄せてきた。


 その向こうには、いくつものテーブル。知らない人たちが楽しそうに料理を食べている。


(食堂だ!)


 カウンターの向こうではヤトが料理を作り、フルコが皿を運んでいる。


「今日の煮込みもうまいな!」


「でしょ? ヤトが朝から作ってたのよ」


(結構繁盛してるなぁ)


 さらに階段から、荷物を持った男性が降りてきた。


「おはようございます」


「あら、おはようございます。よく眠れました?」


(……眠れた?)


 私は階段を指差す。


「あー?」


「上? お客さんのお部屋だよ」


(客室!?)


 食堂に客室。


(うち、宿屋もやってるんだ)


 近くの客が笑いながら言った。


「やっぱりForest亭は落ち着くなぁ」


(Forest亭)


 どうやら、それが我が家の宿屋兼食堂の名前らしい。



     ◇ ◇ ◇



「ルマ、にわ行く?」


 トータについて食堂の奥へ進むと、おもちゃや絵本の置かれた小さな部屋があった。


 その奥の扉を開けると、眩しい光が差し込む。


 外だ。


 大きな木に草花、風に揺れる洗濯物。そして少し離れたところには、見慣れた自宅の裏口がある。


(ここ、自宅の裏庭と繋がってるんだ)


「ルマ、こっち!」


(待って。こっちはハイハイなんだって)


 トータを追って庭へ出る。


 草が手のひらに触れ、風が頬を撫でた。


 宿屋に食堂。美味しそうな料理に、賑やかな人たち。


(結構いいところに生まれたかも)


「――トータ?」


 背後から声がした。


 兄が固まった。


 私も固まった。


 振り返ると、フルコが腰に手を当てて立っている。


「何してるの?」


「……ルマが、にわ行きたいって」


(売ったな、兄よ)


「ルマはまだ喋れないでしょ!」


「でも言ったもん!」


(言ったけど)


 フルコにひょいっと抱き上げられる。


「トータも勝手に連れていかないの」


「はーい……」


 こうして兄妹揃って、自宅へ強制送還された。


 でも、今日の収穫は大きい。


 我が家は宿屋兼食堂、Forest亭。


 フルコの腕の中から、遠ざかる扉を見る。


(……次は二階だな)


 反省はしている。


 しかし、それとこれとは、別の話だ。

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