第32話 秋の終わり、冬の始まり
朝、目が覚めて最初に思った。
――寒い。
布団から出した足を、すぐに引っ込める。
「さむ……」
昨日までは、朝晩が少し冷えるなあ、くらいだった。
でも今日は違う。
頬に触れる空気がひんやりしていて、息を吸うと鼻の奥が少しだけつんとする。
窓の向こうは薄い朝靄に包まれていた。
風が吹くたび、庭の木々がさわさわと揺れる。
その音を聞きながら、私は毛布を鼻の下まで引き上げた。
ふわりと、布と自分の体温が混ざった匂いがする。
「あったかぁ……」
もう一回寝ようかな。
前世では、こんな寒い朝でも容赦なく鳴るアラームに叩き起こされていた。
まだ外が暗いうちに家を出て、冷たい風の中を病院まで歩いて――。
それに比べれば今は。
「ルマー! 起きなさーい!」
階下からママの声が響いた。
「……はぁーい」
前世でも異世界でも、朝は容赦がないらしい。
階段を下りると、一階はいつもと違う匂いがした。
普段なら朝食のパンやスープの匂いが一番に鼻へ届く。
でも今日は、その奥に乾いた木の匂いが混じっている。
食堂の隅には薪の束。
椅子は壁際へ寄せられ、テーブルの上には何枚もの布や毛布が山になっていた。
「おはよ、ルマ」
毛布の向こうから、トータ兄ちゃんの顔がひょこっと出る。
「おはよ……。なにしてるの?」
「冬支度だって」
「ふゆじたく?」
首を傾げると、ママが奥からさらに大きな毛布を抱えて現れた。
「そうよ。もっと寒くなる前に、お客さんのお部屋も冬用に替えないとね」
どさっ。
毛布が落ちると、ふわっと埃が舞った。
「けほっ」
「ごめんごめん!」
ママが笑いながら手でぱたぱた扇ぐ。
私は目の前の山を見上げた。
「……これ、ぜんぶ?」
「全部!」
にっこり。
いやいやいや。
Forest亭には二階と三階に客室がある。
つまり、その部屋数だけ寝具があるわけで。
改めて見ると、なかなかの量だ。
「いっぱい……」
「さあ、今日は忙しいわよー!」
なぜかママだけが楽しそうだった。
外へ出た瞬間。
「ひゃっ!」
思わず肩をすくめた。
風が冷たい。
家の中で感じる寒さとは全然違う。
頬を撫でていく風がひやっとして、耳の先まで冷たくなる。
けれど空は高く、雲はほとんどない。
秋の終わりらしい、澄んだ青色だった。
裏庭には次々と毛布が運び出されていく。
ばさっ。
ママとトータ兄ちゃんが大きな毛布を広げるたび、風をはらんで大きく膨らんだ。
「わぁ!」
帆みたい。
私は思わず見上げる。
陽の光を通した毛布が、一瞬だけ柔らかく光った。
「ルマ、それ持てる?」
「もてる!」
渡されたのは、小さめの布だった。
両腕いっぱいに抱える。
洗った布から、ほんのり石鹸の匂いがした。
「よいしょ、よいしょ……」
足元には、乾いた葉っぱ。
歩くたびに、
かさっ。かさっ。
小気味いい音がする。
ちゃんと働いている。
五歳児としては、かなりの戦力になっているはずだ。
たぶん。
「ルマー」
後ろから声がした。
振り向く。
リトが干す前の毛布の山から、顔だけ出していた。
「なにしてるの?」
「ふわふわ!」
「……うん」
見れば分かる。
「ルマも!」
「わたし、おてつだいしてるから」
私はお姉ちゃんだ。
ここは毅然とした態度を――。
リトが毛布へ、ぼふっと顔を埋めた。
「ふわふわ!」
「…………」
風に揺れる毛布。
柔らかそう。
……ちょっとだけなら。
私は持っていた布を届けてから、そっとリトの横へ戻った。
そして。
ぼふっ。
「ふわぁ……」
思った以上に気持ちいい。
頬に当たる毛布は柔らかくて、少しひんやりしている。
鼻を埋めると、布の匂いと、外の乾いた空気の匂いが混ざっていた。
「ふわふわ!」
「ふわふわだねぇ」
そのまま二人でごろごろしていると、
「二人ともー?」
ママの声。
びくっ。
毛布から顔を出す。
腰に手を当てたママが立っていた。
「それ、誰が運ぶのかしら?」
「…………」
「…………」
リトと顔を見合わせる。
「トータにいちゃん?」
「ルマ」
「はい」
怒られました。
お昼前になると、パパが裏庭へ薪を運び始めた。
ごとっ。
ごとん。
腕いっぱいの薪が、壁際に積み上げられていく。
私は近くにしゃがみ込んだ。
薪の切り口には、いくつもの輪っか。
指先で触れてみると、ざらざらしている。
「パパ、これもふゆじたく?」
「ああ。寒くなったら毎日使うからな」
「いっぱいつかう?」
「いっぱい使うぞ。食堂も客室も暖めなきゃならんからな」
パパが薪を一本置く。
こん。
乾いた、硬い音がした。
近づくと、木の皮と土、それから少し甘いような匂いがする。
私はもう一度、くんくんと鼻を動かした。
「いいにおい」
「薪が?」
「うん」
パパも一本持ち上げて匂いを嗅ぐ。
「そうか?」
「おそとのにおいする」
「ははっ。ずっと外に置いてたからな」
そう言われると、それだけのことなんだけど。
なんだか好きな匂いだった。
乾いた木。
冷たい風。
足元の枯れ葉。
全部が混ざって、秋の終わりの匂いがする。
「パパ、これは?」
私は細い薪を一本持ち上げた。
「お、それならルマでも運べそうだな」
「もってく!」
両手で抱えて、薪置き場まで運ぶ。
こん。
「できた!」
「助かるぞ」
褒められた。
よし。
今度こそ、ちゃんと戦力になっている。
午後。
今度は厨房から甘い匂いが漂ってきた。
さっきまでの木の匂いとは全然違う。
甘くて、少し酸っぱくて、鼻の奥がくすぐられる。
匂いにつられて厨房を覗くと、大きな鍋から白い湯気が立ち上っていた。
ぐつぐつ。
赤い果物が、とろりと煮崩れている。
その横には肉や野菜、いくつもの瓶と壺。
「パパ、なにつくってるの?」
「冬の保存食だ」
「ほぞんしょく?」
台に手をかけ、ぐっと背伸びする。
鍋から上がった温かい湯気が顔に当たった。
冷えていた鼻が一気に温まる。
「冬になると、今みたいに何でも手に入るわけじゃないからな。肉は干したり塩漬けにしたり、野菜も長く置けるようにしておくんだ」
「おやさい、なくなるの?」
「全部じゃないけど、少なくなるな」
「へぇー……」
並んだ食材を眺める。
そうか。
当たり前だけど、この世界にはスーパーがない。
真冬でも季節に関係なく野菜や果物が並んでいる、なんてことはない。
大きな冷蔵庫だってない。
たくさん採れる時に採って。
食べられる形にして。
寒い季節まで大切に残しておく。
前世では、そんなことを意識したことなんてほとんどなかった。
「ルマ、味見するか?」
「する!」
思考は一瞬で中断された。
パパが小さな匙で、煮詰めた果物を少しだけすくってくれる。
湯気と一緒に、甘い香りが鼻先まで届いた。
「熱いからな」
「うん」
ふー。
ふー。
ぱくっ。
「あまっ」
舌の上に濃い甘さ。
そのあと、きゅっと酸っぱい味が追いかけてくる。
「うまぁ……!」
パパが吹き出した。
「出たな、ルマの“うまぁ”」
「だって、おいしい!」
「そうかそうか」
すると背後から、
「リトも!」
……来た。
さらに、
「俺も味見したい」
トータ兄ちゃんまで来た。
「お前ら、匂いに敏感だなぁ」
パパが呆れながら笑う。
厨房には鍋の煮える音と、私たちの声。
果物の甘い匂い。
干すために切った肉の香辛料の匂い。
火にかけた薪の、ほんの少し焦げた匂い。
いろんな匂いが混ざっていた。
夕方。
朝から干していた毛布は、お日さまの熱を少しだけ残して客室へ戻された。
抱えると、昼間よりふっくらしている気がする。
顔を埋めてみる。
「……いいにおい」
お日さまの匂い。
――と言っても、本当に太陽に匂いがあるわけじゃないんだろうけど。
でも、これは絶対にお日さまの匂いだ。
窓の隙間もパパが直してくれて、朝に感じた冷たい風は入ってこなくなった。
薪は壁際にきれいに積み上げられ、厨房には保存食の瓶や壺がずらりと並んでいる。
そして食堂の暖炉には、新しい薪が入れられた。
ぱちっ。
ぱちぱち。
火の粉が小さく跳ねる。
赤い炎が薪の表面を舐め、黒く焦がしていく。
朝に嗅いだ乾いた木の匂いが、今度は煙の匂いに変わっていた。
ほんの少し香ばしくて、暖かい匂い。
私は暖炉の前に座り、両手を火へ向ける。
「あったかぁ……」
冷えていた指先が、じんじんと温まっていく。
外では風が、
ひゅう。
と窓を撫でていった。
庭の木々がざわざわと揺れ、乾いた葉っぱが地面を転がっていく。
でも、その音もここでは遠い。
食堂には、暖炉の火が爆ぜる音。
お皿とスプーンが触れ合う音。
お客さんたちの笑い声。
厨房から聞こえる、包丁のとん、とん、という音。
それから。
「ルマー! ご飯よー!」
ママの声。
振り返れば、トータ兄ちゃんが料理を運んでいる。
リトは暖炉の近くで、すっかり眠そうな顔をしていた。
鼻をくすぐるのは、パパの料理と薪の煙の匂い。
暖炉の熱で頬がぽかぽかする。
私は膝を抱えながら、その景色を眺めた。
冬って、寒いだけだと思っていた。
でも。
寒くなるから、毛布を用意する。
薪を集める。
食べ物を蓄える。
みんなで働いて。
最後には、暖かい場所に集まる。
そうやって冬を迎えるのも――。
なんだか、悪くない。
「ルマー?」
「あ、はーい!」
立ち上がって、もう一度だけ窓の外を見る。
冷たい風が吹く、秋の終わり。
背中では、暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。
今年も、冬が来る。




