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『のんびり暮らしたい宿屋の娘、今日も子育て相談を受けています』 ~元小児科看護師の異世界暮らし~  作者: 入野 カフェイン


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30/82

第30話 急変時はPAT法?ABCD?

 朝の空気が、少しずつ冷たくなってきたこの頃。


 Forest亭の扉を開けるたび、ひんやりとした風が入り込んでくる。


「さむっ」


 思わず肩をすくめた。


 少し前まで、朝から暖かかったのに。

 季節が変わるのって、本当に早い。


 入口には、この前リトと作った秋の飾り。


 赤や黄色の葉っぱに、コロの実とトゲマツの実。

 風が吹くたび、葉っぱが小さく揺れている。


「ルマー! 扉開けっぱなしにしないでー!」


「はーい!」


 ママの声に、慌てて扉を閉める。


(もうすぐ、もっと寒くなるのかなぁ)


 この世界で迎える季節が、またひとつ進んでいく。


 そんなことを考えていた朝だった。



     ◇ ◇ ◇



 お昼時。


 Forest亭の食堂は、今日もたくさんのお客さんで賑わっていた。


「いらっしゃいませー!」


 ママの元気な声。


 食器が触れ合う音。


 楽しそうな話し声。


 厨房からは、パパが料理を作る音と、美味しそうな匂いが流れてくる。


 いつものForest亭。


 いつものお昼だった。


 その中に、小さな子どもを連れた家族がいた。


 お父さんとお母さん。


 それから、二歳くらいの男の子。


 頬をいっぱいに膨らませながら、美味しそうにご飯を食べている。


(かわいい)


 さっき目が合ったときには、にこっと笑ってくれた。


 私は空いた食器を厨房へ運んで、また食堂へ戻る。


 その途中。


「…………」


 ふと、足が止まった。


「ん?」


 さっきの男の子。


 椅子に座ったまま、ぼーっとしている。


 片方の手を首元に当てたまま、動かない。


(……なんか変)


 最初は、眠くなったのかなと思った。


 二歳くらいなら、ご飯を食べながら眠くなることだってある。


 でも。


 もう一度、男の子を見る。


「…………」


(違う)


 顔色が悪い。


 さっきまで赤かった頬から、色がなくなっている。


 口を開けている。


 苦しそう。


 なのに――。


(咳、してない)


 咳き込んでいない。


 泣いてもいない。


 声も聞こえない。


 首元を押さえたまま、苦しそうに口を動かしている。


 胸の奥が、ざわっとした。


(息……できてない?)


 まさか。


(喉に、詰まらせてる?)


「ママ」


「なぁに?」


「あの子、なんか変だよ?」


「え?」


 ママが私の視線を追う。


 男の子を見た瞬間、その表情が変わった。


「大変!」


「え?」


 男の子のお母さんが顔を上げる。


「どうしたの!?」


 慌てて男の子の肩に触れる。


「ねえ! どうしたの!?」


 返事がない。


「あなた! この子……!」


 お母さんの声が震える。


「どうした!?」


 お父さんも勢いよく立ち上がった。


 ガタンッ!


 椅子が倒れる。


「息が……! どうしよう!」


「何か詰まったのか!?」


 二人とも完全に混乱していた。


「ヤト!」


 ママの声が、食堂に響く。


「ヤト、来て! 早く!」


「どうした!?」


 厨房からパパが飛び出してきた。


 食堂にいたお客さんたちも、何事かとこちらを見る。


「この子、急に……!」


「息ができてないみたいなの!」


 私は男の子を見る。


(落ち着いて)


 顔色。


 呼吸。


 声。


 咳。


 前世で何度も何度も確認してきたこと。


 苦しそうなのに、声が出ない。


 咳もできていない。


(やっぱり……)


 気道異物。


 食べ物が、喉に詰まっている。


 そう考えた瞬間。


 前世で何度も習った対応が、一気に頭の中を駆け巡った。


 背部叩打法。


 腹部突き上げ法。


(どうする)


 男の子を見る。


 二歳くらい。


 まだ身体も小さい。


(まず、背中……!)


「パパ!」


「なんだ!?」


「後ろから背中叩いたら、出てこないかな!?」


「背中?」


「うん! 喉に何か詰まってるかも!」


 パパが男の子を見る。


 一瞬だけ迷ったあと、すぐに頷いた。


「分かった」


 パパが男の子の身体を支える。


「どこだ?」


「このへん!」


 私は自分の背中、肩甲骨の間を指差した。


 パパの大きな手が上がる。


 バンッ!


 一回。


「…………!」


 出ない。


(お願い……)


 男の子の口元を見る。


 まだ出ていない。


 頭の中では、もう次の方法を考えていた。


(出なかったら――)


 でも、その前に。


「パパ、もう一回!」


「分かった!」


 バンッ!


「――っ!」


 男の子の身体が大きく揺れた。


「げほっ!」


「!」


 ぽろっ。


 小さな食べ物のかけらが、床へ落ちた。


 一瞬。


 食堂が静まり返った。


「げほっ、げほっ……!」


「出た!」


 そして。


「う……うわぁぁぁぁん!」


 大きな泣き声が、Forest亭いっぱいに響いた。


「……!」


(泣いた)


 声が出てる。


 ちゃんと泣けてる。


(息、できてる……!)


「よかった……」


 自分の口から、声が漏れた。


「よかった……!」


「よかった……本当に……!」


 お母さんが男の子を抱きしめる。


「ごめんね……! ごめんね……!」


 男の子は真っ赤な顔で泣きながら、お母さんの服をぎゅっと握っていた。


 お父さんも、二人を包むように抱きしめる。


 その姿を見た瞬間。


 ふっと。


 身体から力が抜けた。


「……あれ」


 足に力が入らない。


 自分の手を見る。


 少し、震えている。


 胸の奥では、心臓がどくどくと大きな音を立てていた。


(……怖かった)


 急に。


 本当に急に、怖くなった。


 もし、出なかったら。


 もし、間に合わなかったら。


 もし、あのまま――。


(やめよ)


 考えたくない。


 さっきまでは、そんなことを考える余裕なんてなかった。


 ただ。


 息ができてない。


 何とかしなきゃ。


 それだけだった。


 でも今は。


 目の前で男の子が泣いている。


 大きな声で。


 うるさいくらいに。


(よかったぁ……)


 その泣き声が。


 今は、たまらなく嬉しかった。


「ルマ」


「……ん?」


 顔を上げる。


 パパが私を見ていた。


「よく気づいたな」


「……うん」


 大きな手が、私の頭に乗る。


 いつもみたいに。


 ぐしゃぐしゃっと撫でられた。


「怖かっただろ」


「…………」


 その一言で。


 鼻の奥が、つんとした。


「……ちょっと」


 声が震えた。


「そうか」


 パパが私の前にしゃがむ。


 そして。


 ぎゅっ。


 大きな腕に抱きしめられた。


「もう大丈夫だ」


「…………うん」


 あったかい。


 パパの服に顔を埋めた途端。


 さっきまで張り詰めていたものが、一気にほどけていく。


 目の奥に溜まっていたものが、ぽろっと落ちた。


「……よかったぁ」


「ああ」


「あの子……息できて、よかった……」


「ああ。よかったな」


「……うぅ」


 一粒。


 もう一粒。


 ぽろぽろと涙が落ちる。


 助かってよかった。


 本当に。


 本当に、よかった。


 それと同じくらい。


 怖かった。


 前世では、私は看護師だった。


 何かが起これば、動かなきゃいけない側だった。


 怖くても。


 心臓がどれだけ速くなっていても。


 患者さんの前では、落ち着いていなきゃいけなかった。


 泣くのは後。


 怖がるのも後。


 まず、目の前の子どもを助ける。


 それが仕事だった。


 でも。


 今の私は。


 パパの腕の中で泣いている、五歳の子どもだ。


(……そっか)


 今は。


 怖かったって言ってもいいんだ。


 泣いてもいいんだ。


「……パパ」


「ん?」


「もうちょっと……」


「ん?」


「……ぎゅってしてて」


 一瞬だけ間があって。


 パパの腕に、もう少し力が入った。


「ああ」


「……うん」


 あったかい。


 私はもう少しだけ、パパの服に顔を埋めた。


 パパは何も言わず。


 私の背中を、ゆっくり撫で続けてくれていた。



     ◇ ◇ ◇



 少しして。


 ようやく涙が止まった。


 私はパパの腕の中から、そっと顔を上げる。


「……もう大丈夫」


「本当か?」


「うん」


「ならいい」


 そう言いながらも、パパの手はまだ私の頭に乗っていた。


 私はもう一度、男の子を見る。


 お母さんに抱っこされて。


 時々しゃくり上げながらも、ちゃんと泣いている。


 顔色も、さっきよりずっといい。


(……よかった)


 もう一度、心の中で呟く。


 でも。


(異物は出たけど……)


 これで絶対に大丈夫。


 とは限らない。


「ママ」


「なに?」


「アネシアさんと……カロナ先生、呼んでもらおう?」


「二人とも?」


「うん」


 私は男の子を見る。


「ちゃんと診てもらった方がいいと思う」


 ママも男の子を見て。


 すぐに頷いた。


「分かったわ。呼んでくる」


「うん」


 ママがForest亭を出ていく。


 入口の扉が開いて。


 ひんやりとした秋の風が、食堂の中へ入り込んだ。


 私とリトが作った赤い葉っぱの飾りが。


 ゆらゆらと揺れる。


 いつものForest亭。


 いつもの食堂。


 さっきまでとは違って。


 少しずつ、いつもの話し声が戻り始めていた。


「ルマ」


「ん?」


 隣に立っていたパパが、もう一度私の頭を撫でた。


「もう大丈夫だ」


「……うん」


 私はパパの服の裾を、ぎゅっと掴んだ。


 前世では。


 誰かを守る側だった私が。


 今は、こうして守ってもらえる。


(……あったかい)


 今日は。


 それが、いつもよりずっと嬉しかった。

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