第30話 急変時はPAT法?ABCD?
朝の空気が、少しずつ冷たくなってきたこの頃。
Forest亭の扉を開けるたび、ひんやりとした風が入り込んでくる。
「さむっ」
思わず肩をすくめた。
少し前まで、朝から暖かかったのに。
季節が変わるのって、本当に早い。
入口には、この前リトと作った秋の飾り。
赤や黄色の葉っぱに、コロの実とトゲマツの実。
風が吹くたび、葉っぱが小さく揺れている。
「ルマー! 扉開けっぱなしにしないでー!」
「はーい!」
ママの声に、慌てて扉を閉める。
(もうすぐ、もっと寒くなるのかなぁ)
この世界で迎える季節が、またひとつ進んでいく。
そんなことを考えていた朝だった。
◇ ◇ ◇
お昼時。
Forest亭の食堂は、今日もたくさんのお客さんで賑わっていた。
「いらっしゃいませー!」
ママの元気な声。
食器が触れ合う音。
楽しそうな話し声。
厨房からは、パパが料理を作る音と、美味しそうな匂いが流れてくる。
いつものForest亭。
いつものお昼だった。
その中に、小さな子どもを連れた家族がいた。
お父さんとお母さん。
それから、二歳くらいの男の子。
頬をいっぱいに膨らませながら、美味しそうにご飯を食べている。
(かわいい)
さっき目が合ったときには、にこっと笑ってくれた。
私は空いた食器を厨房へ運んで、また食堂へ戻る。
その途中。
「…………」
ふと、足が止まった。
「ん?」
さっきの男の子。
椅子に座ったまま、ぼーっとしている。
片方の手を首元に当てたまま、動かない。
(……なんか変)
最初は、眠くなったのかなと思った。
二歳くらいなら、ご飯を食べながら眠くなることだってある。
でも。
もう一度、男の子を見る。
「…………」
(違う)
顔色が悪い。
さっきまで赤かった頬から、色がなくなっている。
口を開けている。
苦しそう。
なのに――。
(咳、してない)
咳き込んでいない。
泣いてもいない。
声も聞こえない。
首元を押さえたまま、苦しそうに口を動かしている。
胸の奥が、ざわっとした。
(息……できてない?)
まさか。
(喉に、詰まらせてる?)
「ママ」
「なぁに?」
「あの子、なんか変だよ?」
「え?」
ママが私の視線を追う。
男の子を見た瞬間、その表情が変わった。
「大変!」
「え?」
男の子のお母さんが顔を上げる。
「どうしたの!?」
慌てて男の子の肩に触れる。
「ねえ! どうしたの!?」
返事がない。
「あなた! この子……!」
お母さんの声が震える。
「どうした!?」
お父さんも勢いよく立ち上がった。
ガタンッ!
椅子が倒れる。
「息が……! どうしよう!」
「何か詰まったのか!?」
二人とも完全に混乱していた。
「ヤト!」
ママの声が、食堂に響く。
「ヤト、来て! 早く!」
「どうした!?」
厨房からパパが飛び出してきた。
食堂にいたお客さんたちも、何事かとこちらを見る。
「この子、急に……!」
「息ができてないみたいなの!」
私は男の子を見る。
(落ち着いて)
顔色。
呼吸。
声。
咳。
前世で何度も何度も確認してきたこと。
苦しそうなのに、声が出ない。
咳もできていない。
(やっぱり……)
気道異物。
食べ物が、喉に詰まっている。
そう考えた瞬間。
前世で何度も習った対応が、一気に頭の中を駆け巡った。
背部叩打法。
腹部突き上げ法。
(どうする)
男の子を見る。
二歳くらい。
まだ身体も小さい。
(まず、背中……!)
「パパ!」
「なんだ!?」
「後ろから背中叩いたら、出てこないかな!?」
「背中?」
「うん! 喉に何か詰まってるかも!」
パパが男の子を見る。
一瞬だけ迷ったあと、すぐに頷いた。
「分かった」
パパが男の子の身体を支える。
「どこだ?」
「このへん!」
私は自分の背中、肩甲骨の間を指差した。
パパの大きな手が上がる。
バンッ!
一回。
「…………!」
出ない。
(お願い……)
男の子の口元を見る。
まだ出ていない。
頭の中では、もう次の方法を考えていた。
(出なかったら――)
でも、その前に。
「パパ、もう一回!」
「分かった!」
バンッ!
「――っ!」
男の子の身体が大きく揺れた。
「げほっ!」
「!」
ぽろっ。
小さな食べ物のかけらが、床へ落ちた。
一瞬。
食堂が静まり返った。
「げほっ、げほっ……!」
「出た!」
そして。
「う……うわぁぁぁぁん!」
大きな泣き声が、Forest亭いっぱいに響いた。
「……!」
(泣いた)
声が出てる。
ちゃんと泣けてる。
(息、できてる……!)
「よかった……」
自分の口から、声が漏れた。
「よかった……!」
「よかった……本当に……!」
お母さんが男の子を抱きしめる。
「ごめんね……! ごめんね……!」
男の子は真っ赤な顔で泣きながら、お母さんの服をぎゅっと握っていた。
お父さんも、二人を包むように抱きしめる。
その姿を見た瞬間。
ふっと。
身体から力が抜けた。
「……あれ」
足に力が入らない。
自分の手を見る。
少し、震えている。
胸の奥では、心臓がどくどくと大きな音を立てていた。
(……怖かった)
急に。
本当に急に、怖くなった。
もし、出なかったら。
もし、間に合わなかったら。
もし、あのまま――。
(やめよ)
考えたくない。
さっきまでは、そんなことを考える余裕なんてなかった。
ただ。
息ができてない。
何とかしなきゃ。
それだけだった。
でも今は。
目の前で男の子が泣いている。
大きな声で。
うるさいくらいに。
(よかったぁ……)
その泣き声が。
今は、たまらなく嬉しかった。
「ルマ」
「……ん?」
顔を上げる。
パパが私を見ていた。
「よく気づいたな」
「……うん」
大きな手が、私の頭に乗る。
いつもみたいに。
ぐしゃぐしゃっと撫でられた。
「怖かっただろ」
「…………」
その一言で。
鼻の奥が、つんとした。
「……ちょっと」
声が震えた。
「そうか」
パパが私の前にしゃがむ。
そして。
ぎゅっ。
大きな腕に抱きしめられた。
「もう大丈夫だ」
「…………うん」
あったかい。
パパの服に顔を埋めた途端。
さっきまで張り詰めていたものが、一気にほどけていく。
目の奥に溜まっていたものが、ぽろっと落ちた。
「……よかったぁ」
「ああ」
「あの子……息できて、よかった……」
「ああ。よかったな」
「……うぅ」
一粒。
もう一粒。
ぽろぽろと涙が落ちる。
助かってよかった。
本当に。
本当に、よかった。
それと同じくらい。
怖かった。
前世では、私は看護師だった。
何かが起これば、動かなきゃいけない側だった。
怖くても。
心臓がどれだけ速くなっていても。
患者さんの前では、落ち着いていなきゃいけなかった。
泣くのは後。
怖がるのも後。
まず、目の前の子どもを助ける。
それが仕事だった。
でも。
今の私は。
パパの腕の中で泣いている、五歳の子どもだ。
(……そっか)
今は。
怖かったって言ってもいいんだ。
泣いてもいいんだ。
「……パパ」
「ん?」
「もうちょっと……」
「ん?」
「……ぎゅってしてて」
一瞬だけ間があって。
パパの腕に、もう少し力が入った。
「ああ」
「……うん」
あったかい。
私はもう少しだけ、パパの服に顔を埋めた。
パパは何も言わず。
私の背中を、ゆっくり撫で続けてくれていた。
◇ ◇ ◇
少しして。
ようやく涙が止まった。
私はパパの腕の中から、そっと顔を上げる。
「……もう大丈夫」
「本当か?」
「うん」
「ならいい」
そう言いながらも、パパの手はまだ私の頭に乗っていた。
私はもう一度、男の子を見る。
お母さんに抱っこされて。
時々しゃくり上げながらも、ちゃんと泣いている。
顔色も、さっきよりずっといい。
(……よかった)
もう一度、心の中で呟く。
でも。
(異物は出たけど……)
これで絶対に大丈夫。
とは限らない。
「ママ」
「なに?」
「アネシアさんと……カロナ先生、呼んでもらおう?」
「二人とも?」
「うん」
私は男の子を見る。
「ちゃんと診てもらった方がいいと思う」
ママも男の子を見て。
すぐに頷いた。
「分かったわ。呼んでくる」
「うん」
ママがForest亭を出ていく。
入口の扉が開いて。
ひんやりとした秋の風が、食堂の中へ入り込んだ。
私とリトが作った赤い葉っぱの飾りが。
ゆらゆらと揺れる。
いつものForest亭。
いつもの食堂。
さっきまでとは違って。
少しずつ、いつもの話し声が戻り始めていた。
「ルマ」
「ん?」
隣に立っていたパパが、もう一度私の頭を撫でた。
「もう大丈夫だ」
「……うん」
私はパパの服の裾を、ぎゅっと掴んだ。
前世では。
誰かを守る側だった私が。
今は、こうして守ってもらえる。
(……あったかい)
今日は。
それが、いつもよりずっと嬉しかった。




