第26話 Forest亭の、いつもの一日。
Forest亭の朝は早い。
まだ外が薄暗いうちから、一階の厨房では音がしている。
トントントン。
一定のリズムで響く、包丁の音。
ぐつぐつとスープが煮える音。
焼き始めたパンの香ばしい匂いが、階段を通って二階までふんわりと上がってくる。
「……いいにおい」
目を覚ました私は、布団の中で鼻をくんくんさせた。
(今日も始まったなぁ)
Forest亭の一日が。
◇ ◇ ◇
「父さん、これ?」
「ああ。そっちに運んでくれ」
「分かった」
一階へ降りると、すでにトータが厨房にいた。
パパの隣で、切った野菜の入った器を運んでいる。
「にーに、おはよ」
「おはよ」
「朝からお手伝い?」
「うん」
「えらいねぇ」
「なんでルマが褒めるんだよ」
パパが笑った。
「ルマも手伝うか?」
「する!」
「じゃあ、これをフルコに持っていってくれ」
「はーい!」
食堂では、ママが朝食の準備をしていた。
窓を開けると、朝の冷たい空気が入り込む。
「おはようございます。よく眠れました?」
「ああ。ぐっすりだったよ」
「それはよかった!」
宿泊していたお客さんたちが、次々と階段を降りてくる。
椅子を引く音。
食器が触れ合う音。
話し声。
笑い声。
さっきまで静かだったForest亭が、少しずつ目を覚ましていく。
「お待たせしました!」
ママが料理を運ぶ。
「トータ、パンお願い!」
「うん!」
トータも籠を抱えて、その後ろをついていった。
「はい」
「ありがとう」
お客さんがパンを一口食べる。
「うん。うまいな」
その言葉に、厨房に戻ろうとしていたトータがちらっと振り返った。
「そのパン、トータも手伝ったのよ」
「母さん!」
ママが余計なことを言ったらしい。
「そうなのか?」
「……ちょっとだけ」
「じゃあ余計にうまいな」
「…………」
トータの口元が、ほんの少し緩んだ。
(嬉しいんじゃん)
私は見なかったことにしてあげた。
◇ ◇ ◇
昼になると、Forest亭は朝とは比べものにならないくらい賑やかになる。
ジュウウウッ――!
厨房から肉の焼ける音が響いた。
香ばしい匂いが食堂いっぱいに広がる。
「フルコ! 二番できたぞ!」
「はーい!」
「トータ、こっちのパンお願い!」
「分かった!」
「ルマー! その布取って!」
「はい!」
「リトも!」
「リトは座ってて!」
「いや!」
(こちらも絶好調です)
食堂にはお客さんの話し声と笑い声。
厨房からはパパの声。
ママはテーブルの間を行ったり来たり。
トータも小さな身体で、できることを探して動き回っている。
「トータ、これ下げてくれる?」
「うん」
「ありがとう」
空になった皿を抱えて厨房へ戻る途中。
「ごちそうさま!」
お客さんから声をかけられた。
「今日もうまかったよ」
「あ……うん!」
「また来るからな」
「うん!」
トータは厨房へ駆けていく。
「父さん!」
「ん?」
「さっきの人、また来るって!」
「そうか」
パパは料理を作る手を止めない。
でも、少しだけ嬉しそうだった。
その顔を見て。
トータもまた、嬉しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
昼の忙しさが落ち着いた頃。
今度は、今日泊まるお客さんがやってきた。
カラン――。
「ただいま!」
入ってきた男の人が、大きな声で言った。
「おかえりなさい!」
ママも当たり前のように返す。
「…………?」
隣にいたトータが首を傾げた。
「ルマ」
「ん?」
「あの人、ここに住んでるの?」
「え?」
「だって、ただいまって」
「あー……」
その人の顔には見覚えがある。
何度かForest亭に泊まりに来ている人だ。
「住んでないよ」
「じゃあなんで?」
「んー……」
私は少し考えた。
「ここに帰ってきたって感じするんじゃない?」
「ここに?」
「たぶん」
「ふーん……」
トータはまだ少し不思議そうだった。
でも。
「今日はいつもの部屋空いてる?」
「もちろん!」
「よかった。あの部屋、落ち着くんだよなぁ」
そんな会話を聞きながら。
トータはしばらく、そのお客さんを見ていた。
◇ ◇ ◇
夜。
最後のお客さんが部屋へ戻ると、賑やかだった食堂が急に静かになった。
パパは厨房を片付け。
ママはテーブルを拭く。
私は椅子を戻して。
トータは食器を運んでいた。
リトは――。
「ねむい……」
「もう寝なさい」
「いや……」
(眠たいのにイヤイヤする元気はあるんだ)
ママに抱っこされたリトが、奥へ連れていかれる。
「トータ」
厨房からパパが声をかけた。
「ん?」
「今日はよく手伝ってくれたな」
「うん」
「疲れただろ」
「ちょっと」
「じゃあ明日は遊んでこい」
「…………」
トータが食器を置いた。
「父さん」
「ん?」
「明日も手伝っていい?」
パパの手が止まった。
「いいけど……どうした?」
「今日、楽しかった」
「そうか?」
「うん」
トータが食堂を見回す。
朝から何人もの人が座った椅子。
たくさんの料理が並んだテーブル。
今はもう、誰もいない。
「みんな、美味しいって言ってた」
「ああ」
「また来るって言ってた人もいた」
「ああ」
「あと……」
少しだけ言葉に迷って。
「ただいまって言ってた人もいた」
「…………」
「ここ、この人たちの家じゃないのに」
パパが笑った。
「そうだな」
「でも、帰ってきたみたいだった」
「ああ」
トータはしばらく黙っていた。
それから。
「俺、大きくなったら」
ぽつり。
「ここで働きたい」
私は思わずトータを見た。
パパも、何も言わない。
「父さんみたいに料理もしたいし」
「うん」
「宿の仕事もしたい」
「……そうか」
パパはそれだけ言った。
でも。
その声は、いつもより少しだけ優しかった。
「じゃあ、まずは皿を割らずに運べるようにならないとな」
「今日、一枚も割ってない!」
「昨日割っただろ」
「あれはリトがぶつかったから!」
奥から声がする。
「リトわるくない!」
「聞こえてたの!?」
ママの笑い声が響いた。
私も笑った。
◇ ◇ ◇
その夜。
「にーに」
「なに?」
「宿屋するの?」
「まだ先だよ」
「大きくなったら?」
「……うん」
「じゃあルマ、お客さんになる」
「なんでだよ」
「泊まりに来る」
「ルマもここに住んでるだろ」
「あ」
「変なの」
「じゃあ、ご飯食べにくる」
「だから住んでるって」
「じゃあ……」
「もういいよ」
二人で笑った。
トータは料理が好きだ。
パパの料理も。
ママの笑い声も。
この宿にやってくる人たちも。
きっと、Forest亭そのものが好きなんだ。
(跡取りだから、じゃないんだな)
誰かに決められたわけじゃない。
自分で。
ここにいたいと思った。
朝になれば、また厨房から包丁の音がする。
美味しい匂いがして。
たくさんの「おはよう」があって。
誰かの「美味しい」が聞こえる。
そして時々。
この家に住んでいない誰かの、
「ただいま」が聞こえる。
そんな、いつも通りのForest亭の一日。
でもトータにとっては。
いつか振り返ったとき。
今日が、未来を決めた日になるのかもしれない。




