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『のんびり暮らしたい宿屋の娘、今日も子育て相談を受けています』 ~元小児科看護師の異世界暮らし~  作者: 入野 カフェイン


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26/82

第26話 Forest亭の、いつもの一日。

 Forest亭の朝は早い。


 まだ外が薄暗いうちから、一階の厨房では音がしている。


 トントントン。


 一定のリズムで響く、包丁の音。


 ぐつぐつとスープが煮える音。


 焼き始めたパンの香ばしい匂いが、階段を通って二階までふんわりと上がってくる。


「……いいにおい」


 目を覚ました私は、布団の中で鼻をくんくんさせた。


(今日も始まったなぁ)


 Forest亭の一日が。



     ◇ ◇ ◇



「父さん、これ?」


「ああ。そっちに運んでくれ」


「分かった」


 一階へ降りると、すでにトータが厨房にいた。


 パパの隣で、切った野菜の入った器を運んでいる。


「にーに、おはよ」


「おはよ」


「朝からお手伝い?」


「うん」


「えらいねぇ」


「なんでルマが褒めるんだよ」


 パパが笑った。


「ルマも手伝うか?」


「する!」


「じゃあ、これをフルコに持っていってくれ」


「はーい!」


 食堂では、ママが朝食の準備をしていた。


 窓を開けると、朝の冷たい空気が入り込む。


「おはようございます。よく眠れました?」


「ああ。ぐっすりだったよ」


「それはよかった!」


 宿泊していたお客さんたちが、次々と階段を降りてくる。


 椅子を引く音。


 食器が触れ合う音。


 話し声。


 笑い声。


 さっきまで静かだったForest亭が、少しずつ目を覚ましていく。


「お待たせしました!」


 ママが料理を運ぶ。


「トータ、パンお願い!」


「うん!」


 トータも籠を抱えて、その後ろをついていった。


「はい」


「ありがとう」


 お客さんがパンを一口食べる。


「うん。うまいな」


 その言葉に、厨房に戻ろうとしていたトータがちらっと振り返った。


「そのパン、トータも手伝ったのよ」


「母さん!」


 ママが余計なことを言ったらしい。


「そうなのか?」


「……ちょっとだけ」


「じゃあ余計にうまいな」


「…………」


 トータの口元が、ほんの少し緩んだ。


(嬉しいんじゃん)


 私は見なかったことにしてあげた。



     ◇ ◇ ◇



 昼になると、Forest亭は朝とは比べものにならないくらい賑やかになる。


 ジュウウウッ――!


 厨房から肉の焼ける音が響いた。


 香ばしい匂いが食堂いっぱいに広がる。


「フルコ! 二番できたぞ!」


「はーい!」


「トータ、こっちのパンお願い!」


「分かった!」


「ルマー! その布取って!」


「はい!」


「リトも!」


「リトは座ってて!」


「いや!」


(こちらも絶好調です)


 食堂にはお客さんの話し声と笑い声。


 厨房からはパパの声。


 ママはテーブルの間を行ったり来たり。


 トータも小さな身体で、できることを探して動き回っている。


「トータ、これ下げてくれる?」


「うん」


「ありがとう」


 空になった皿を抱えて厨房へ戻る途中。


「ごちそうさま!」


 お客さんから声をかけられた。


「今日もうまかったよ」


「あ……うん!」


「また来るからな」


「うん!」


 トータは厨房へ駆けていく。


「父さん!」


「ん?」


「さっきの人、また来るって!」


「そうか」


 パパは料理を作る手を止めない。


 でも、少しだけ嬉しそうだった。


 その顔を見て。


 トータもまた、嬉しそうに笑った。



     ◇ ◇ ◇



 昼の忙しさが落ち着いた頃。


 今度は、今日泊まるお客さんがやってきた。


 カラン――。


「ただいま!」


 入ってきた男の人が、大きな声で言った。


「おかえりなさい!」


 ママも当たり前のように返す。


「…………?」


 隣にいたトータが首を傾げた。


「ルマ」


「ん?」


「あの人、ここに住んでるの?」


「え?」


「だって、ただいまって」


「あー……」


 その人の顔には見覚えがある。


 何度かForest亭に泊まりに来ている人だ。


「住んでないよ」


「じゃあなんで?」


「んー……」


 私は少し考えた。


「ここに帰ってきたって感じするんじゃない?」


「ここに?」


「たぶん」


「ふーん……」


 トータはまだ少し不思議そうだった。


 でも。


「今日はいつもの部屋空いてる?」


「もちろん!」


「よかった。あの部屋、落ち着くんだよなぁ」


 そんな会話を聞きながら。


 トータはしばらく、そのお客さんを見ていた。



     ◇ ◇ ◇



 夜。


 最後のお客さんが部屋へ戻ると、賑やかだった食堂が急に静かになった。


 パパは厨房を片付け。


 ママはテーブルを拭く。


 私は椅子を戻して。


 トータは食器を運んでいた。


 リトは――。


「ねむい……」


「もう寝なさい」


「いや……」


(眠たいのにイヤイヤする元気はあるんだ)


 ママに抱っこされたリトが、奥へ連れていかれる。


「トータ」


 厨房からパパが声をかけた。


「ん?」


「今日はよく手伝ってくれたな」


「うん」


「疲れただろ」


「ちょっと」


「じゃあ明日は遊んでこい」


「…………」


 トータが食器を置いた。


「父さん」


「ん?」


「明日も手伝っていい?」


 パパの手が止まった。


「いいけど……どうした?」


「今日、楽しかった」


「そうか?」


「うん」


 トータが食堂を見回す。


 朝から何人もの人が座った椅子。


 たくさんの料理が並んだテーブル。


 今はもう、誰もいない。


「みんな、美味しいって言ってた」


「ああ」


「また来るって言ってた人もいた」


「ああ」


「あと……」


 少しだけ言葉に迷って。


「ただいまって言ってた人もいた」


「…………」


「ここ、この人たちの家じゃないのに」


 パパが笑った。


「そうだな」


「でも、帰ってきたみたいだった」


「ああ」


 トータはしばらく黙っていた。


 それから。


「俺、大きくなったら」


 ぽつり。


「ここで働きたい」


 私は思わずトータを見た。


 パパも、何も言わない。


「父さんみたいに料理もしたいし」


「うん」


「宿の仕事もしたい」


「……そうか」


 パパはそれだけ言った。


 でも。


 その声は、いつもより少しだけ優しかった。


「じゃあ、まずは皿を割らずに運べるようにならないとな」


「今日、一枚も割ってない!」


「昨日割っただろ」


「あれはリトがぶつかったから!」


 奥から声がする。


「リトわるくない!」


「聞こえてたの!?」


 ママの笑い声が響いた。


 私も笑った。



     ◇ ◇ ◇



 その夜。


「にーに」


「なに?」


「宿屋するの?」


「まだ先だよ」


「大きくなったら?」


「……うん」


「じゃあルマ、お客さんになる」


「なんでだよ」


「泊まりに来る」


「ルマもここに住んでるだろ」


「あ」


「変なの」


「じゃあ、ご飯食べにくる」


「だから住んでるって」


「じゃあ……」


「もういいよ」


 二人で笑った。


 トータは料理が好きだ。


 パパの料理も。


 ママの笑い声も。


 この宿にやってくる人たちも。


 きっと、Forest亭そのものが好きなんだ。


(跡取りだから、じゃないんだな)


 誰かに決められたわけじゃない。


 自分で。


 ここにいたいと思った。


 朝になれば、また厨房から包丁の音がする。


 美味しい匂いがして。


 たくさんの「おはよう」があって。


 誰かの「美味しい」が聞こえる。


 そして時々。


 この家に住んでいない誰かの、


 「ただいま」が聞こえる。


 そんな、いつも通りのForest亭の一日。


 でもトータにとっては。


 いつか振り返ったとき。


 今日が、未来を決めた日になるのかもしれない。

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