第24話 イヤイヤには、イヤイヤを
風邪をひいてから、数日後。
「ルマー、もう大丈夫?」
「うん! 元気になったよー!」
私は両手を上げて、その場でぴょんっと跳ねてみせた。
喉も痛くない。
鼻水も出ない。
身体も軽い。
(完全復活!)
「よかったわねぇ」
Forest亭の前でママと話していた近所のおばさんが笑った。
「この前はずっと寝てたんでしょう?」
「そうなの。珍しく大人しくしてたわ」
「珍しくってなに!」
「だって最初は『これくらいなら大丈夫』って起きようとしてたじゃない」
「…………」
(それは忘れてください)
今日は朝からいい天気だった。
昨日降った雨のおかげか、空気は少しひんやりしている。
昼下がりのForest亭の前には、ママと近所のお母さんたちが集まっていた。
「でも、子どもが元気ないと心配よねぇ」
「ほんと。元気すぎるくらいがいいわよ」
「元気すぎても大変だけどねぇ」
「あはは、確かに」
いわゆる井戸端会議というやつである。
そんな平和な昼下がり――。
「いやぁぁぁぁ!!」
「…………」
「…………」
Forest亭の中から絶叫が響いた。
「いや! いやなの!」
扉から飛び出してきたのは、リト。
なぜか片方だけ靴を履き、もう片方は裸足だった。
「あらあら」
「リトくん、どうしたの?」
「おそといく!」
「じゃあ、もう片方も靴履こうか」
ママがしゃがんで靴を差し出す。
「いや!」
「でもお外行くんでしょう?」
「いく!」
「じゃあ靴履かないと」
「いやぁぁ!」
「…………」
お母さんたちから笑い声が漏れた。
「あらぁ、リトくんもそんな時期なのね」
「うちもあったわぁ」
「何を言っても嫌なのよね」
「そうなのよ!」
ママが大きく頷く。
「朝からずーっとよ。着替えも嫌、ご飯も嫌、お風呂も嫌。放っておいたら、それも嫌!」
「大変ねぇ」
「もう一日何回『いや』って聞いてるか分からないわ」
「いや!」
「ほら!」
また笑い声が上がる。
(本日も絶好調ですねぇ)
私はリトの前にしゃがんだ。
「リト」
「いや!」
「まだ何も言ってないよ」
「…………」
「お外行くの?」
「いく」
「何して遊ぶ?」
「……おそとであそぶ」
「そっかぁ」
ちらりと空を見る。
そういえば昨日は、結構雨が降っていた。
「リト」
「なに?」
「昨日、雨いっぱい降ったでしょ?」
「うん」
「大きい水たまり、できてるかもよ?」
「!」
リトの顔が変わった。
「みずたまり!?」
「あるかも!」
「みにいく!」
「ねーねも見たいなぁ」
「いっしょいく!」
「行こ行こ。じゃあ、お靴どっち履いていく?」
「こっち!」
リトがさっきまで拒否していた靴を指差した。
「はい、どうぞ」
「リトする!」
「はいはい」
自分で足を入れて。
ぐっと押し込んで。
「できた!」
「できたねぇ」
「みずたまり!」
「探しに行こっか」
「うん!」
「…………」
なんだか静かだ。
振り返る。
ママを含め、お母さんたちがこっちを見ていた。
「……なに?」
「ほら!」
なぜかママが得意げに言った。
「こういうの、ルマすごく上手なのよ」
「え?」
「上手だったわねぇ」
「私なら『いいから履きなさい』って言っちゃうわ」
「分かるわぁ」
「でもルマは、リトが何をしたいのか考えてるのよね」
「そう?」
自分では、そんなに特別なことをしているつもりはない。
「この前のお風呂もそうだったのよ」
(あ)
「お風呂?」
「そう。何を言っても『いや!』って床に転がってたの」
「いやだった!」
リト本人が元気よく参加する。
「そうそう。私が何を言っても駄目だったのに、ルマが『お風呂であわあわして遊ぼ』って言ったら――」
「あわあわした!」
「急に自分からお片付けして、お風呂に行ったのよ」
「まあ!」
「ルマちゃん、子どもとの関わり方が上手なのねぇ」
「そうなのよ」
ママが嬉しそうに笑う。
(なんでママが得意げなの)
「そういえば、前にお薬を嫌がってた子にも何かしてなかった?」
「え?」
(そっちも覚えてるんですか)
「あったあった。粉のお薬だったかしら?」
「そうなの。ルマったら、どうやったら飲みやすいか色々考えて――」
「ママ」
「なあに?」
「そろそろ水たまり行ってきます」
「あら、そう?」
「うん!」
(これ以上はなんか恥ずかしい)
「ねーね、はやく!」
「はいはい」
リトに手を引かれ、私は逃げるようにその場を離れた。
◇ ◇ ◇
「あったー!」
「ほんとだ。大きいねぇ」
Forest亭から少し歩いたところ。
道の端に、昨日の雨でできた大きな水たまりが残っていた。
水面には青い空と白い雲が映っている。
「ねーね、みて!」
「見てるよ」
「いく!」
「え?」
ばしゃん!
「…………」
リトの片足が、水たまりの中に入った。
「リト」
「きゃはは!」
「靴、濡れるよ」
「もういっかい!」
「いやいやいや」
ばしゃん!
「…………」
もう片方も入りました。
「ねーね! みて!」
「見てる。非常によく見えてるよ」
(帰ったらママになんて言おう)
リトは楽しそうに水たまりを踏んでいる。
ばしゃん。
ばしゃん。
水しぶきが太陽の光を浴びて、きらきらと輝く。
「ねーねも!」
「私はいいよ」
「いっしょ!」
「靴濡れるもん」
「いや! いっしょ!」
「私にもイヤイヤするの?」
「する!」
「するんだ……」
仕方なく、水たまりの端をつま先でちょんと踏む。
ぱしゃ。
「きゃはは! ねーねも!」
「ねーねはこれくらいで十分です」
「もっと!」
「それは嫌です」
「いやぁ!」
「どっちがイヤイヤ期なんだか」
雨上がりの道に、二人の笑い声が響いた。
◇ ◇ ◇
その頃。
Forest亭の前では、まだお母さんたちの話が続いていた。
「でも、本当に不思議ねぇ」
「何が?」
「ルマちゃんよ。五歳なのに、子どもとの関わり方が妙に慣れてるっていうか」
「そうねぇ」
ママが少し考える。
「私も、ときどき思うのよ」
「でしょう?」
「でも、リトはルマのことが大好きだから」
ママはふっと笑った。
「お姉ちゃんだから分かることもあるのかもしれないわね」
「いいお姉ちゃんねぇ」
「そうなの」
ママが嬉しそうに笑ったことを。
その場にいたお母さんたちが、ルマという名前を少しだけ覚えたことを。
その頃の私は、もちろん知らない。
「リトー! 待ってー!」
「ねーね、こっちー!」
私はただ。
びしょびしょになった弟を追いかけるのに、忙しかった。




