第32話 茶菓子
知恵が案内した部屋は、準備が整えられており、卓の上には茶と茶菓子が用意されていた。
尹怜が店から離れた一番奥に、朴紘範が店側の席に座り、それぞれ茶を口に含んだ。
ほんのり甘みのある爽やかな味わいのする茶だった。
菓子はトルモクに出したものと同じものだった。
外側は甘塩っぱい味付けをした半透明の塊でテングサで固めたものだった。
ゆっくりと噛み締めると、中からはほんのりと酸味が効いた甘い餡がたっぷり出てきた。
違う甘さが口の中で溶け合い至福の時を感じる味だった。
「美味いな、これ」
「本人に伝えてあげればいいじゃないですか……」
「逃げられるから言えないだろ」
朴紘範は尹怜を見てため息をつくと同時に、普通に言えば逃げられなくなるでしょうに、と半ば呆れていた。
「知恵さん、このお菓子、とても美味しいですよ」
「ありがとうございます」
知恵は部屋には入らず、店側で朴紘範に礼を言った。
「白俊はいないのか?」
尹怜が聞くと、紙飛行機が尹怜の前に飛んできた。
尹怜は怪訝そうな顔をして広げてみると、
"買い物に出かけました。お二人で囲碁でもやっててください"
と書いてあった。今度は碁盤が二人の前に滑り込んできた。
朴紘範は、碁盤の準備をし、尹怜を呼んだ。
「左副承旨殿、せっかくですから一局やりましょう」
「ああ」
パチン、パチンと石を置く音が部屋に響いていた。
勝負に興味があったのか、知恵はいつの間にか朴紘範の後ろにいた。
そして肩越しに碁盤をそーっと静かに二人の勝負を見つめていた。
尹怜が石を置いたその途端、知恵がつぶやいた。
「あと百三十五手」
その言葉に驚いた朴紘範が後ろにいる知恵を見る。
「私は気にせず続けてください」
知恵にそう言われて、今度は朴紘範が石を置く。再び尹怜が石を置くと、また知恵がつぶやいた。
「あと九十七手」
その後、知恵は尹怜が石を置くたびにつぶやいていた。
時には数字が少し増えるが、基本的にどんどん減っていった。
「この方と碁を打って楽しいんですか?」
知恵は朴紘範にしか聞こえないように質問することにしたようだ。
「ええ、まあ。楽しいですよ」
朴紘範は微笑みながら、また知恵にだけ聞こえる声で答えた。
二人の勝負は、朴紘範の勝ちで終わった。知恵はつまらなさそうに碁盤を見ていた。
そこに、ヨリがやってきた。
「おかえりなさいませ」
知恵は主人を迎えるように、ヨリに挨拶をし、部屋の中へ案内した。
ヨリはわずかな笑顔で知恵の挨拶に答え、奥に入っていった。
尹怜と朴紘範が碁盤を囲んでいるのを見て、少し嬉しそうな顔をしたヨリ。
「ヨリさん、どうぞ」
そう言って朴紘範はヨリに席を譲り、尹怜とヨリの勝負が始まる。
朴紘範は黙って見ている。知恵はその後ろから碁盤を覗き込んでいる。
二人が石を置くたびに、あと何手、あと何手と相変わらずぶつぶつ言っている。
朴紘範は黙って知恵のつぶやきを聞いている。
尹怜とヨリが楽しそうなのをよそに、知恵は心底つまらなさそうな表情をして石の動きを眺めている。
そして、朴紘範に耳打ちをした。
「あの二人、普通と違うことをやっているだけで、あんまり強くないですね」
朴紘範が知恵の方を振り返ると、知恵は反対側を通り、ヨリに出す茶と菓子の準備をしに奥に行った。
(あの子も、厄介ですねぇ……)
朴紘範は知恵の姿を追いながらそんなことを考えていた。
囲碁をやる時は、ある程度先まで考えてから石を置く。だがあの子は、一手打った直後に最後まで読み切ってしまう。
尹怜もなかなか曲者だが、ヨリも白俊も相当だ。知恵はさらに上をいくかもしれない、そう考えていたらほんの少し可笑しくなってきた。
この男の周り、いや、自分か?いずれにせよ、奇人変人しかいないようだ、と思ったからだった。
そこへ白俊が帰ってきた。
「遅くなってすまんな」
「おかえりなさいませ」
知恵はお茶と茶菓子を二人分乗せた盆を持ち、師匠に対して挨拶をした。
白俊は入ると同時に店を閉めた。
「みんないるのか?」
「はい。皆様お集まりです」
「知恵、それは俺が持ってくわ」
「うがいと手洗いはなさいましたか?」
「さっき外でやったで」
「ではお願いします」
白俊は知恵から盆を受け取り、部屋の中に入っていった。
「なんや、また囲碁か。ほんまに好きなんやなぁ」
部屋にいる面々に声をかけた後、知恵に聞いた。
「この茶と菓子は誰の分や?」
「見習いさんと師匠の分です。
使い終わった食器は各自で洗ってください」
「ああ、わかった。
皆聞いたな、食器は自分で洗うてくださいね」
その場にいる全員が頷く。
「ヨリ、この茶と菓子、お前の分や。俺のはこっち」
そう言って、お茶をごくりと飲んだ後、パクリと菓子を口に詰め込んだ。
「知恵、これ美味いやないか。売れるんちゃうか?」
「作ってくれる人探してください。この味を再現できないくらいの人がちょうどいいかなぁ」
「なんやその注文……」
「適雑堂が元祖になるでしょ」
「ああ、そゆことか。
ヨリ、誰か探しといてくれるか?」
ヨリはコクコクと頷いた。
「皆さんこれから、例の話をしますよね。その前にちょっと一言だけ……いいですか?」
「ええで、はよ言うたらええ」
「店の前に、排水溝を作りたいです」
「なんやそれ?」
「手を洗ったり、口をすすいだりした水をその辺に撒き散らすのは、美しくないし、衛生的でもない。
だから作りたい。
土地家屋の持ち主に許可をとってもらいたいです」
ヨリは帳面に文字を書いて広げた。
「確認しておくからちょっと待て、って言うとるで」
「許可が降りたら早速工事を始めます。
許可されないときは、撒き散らさないものだけ作ります」
「わかった。そこは好きにせぇ」
「はーい」
そう言って知恵は、店の片付けを始めた。
後にこの排水溝工事は、この適雑堂周辺の一角に広まるのだった。
「さて」
白俊が声を出した。
「じゃぁ、例の話を始めよか」




