第31話 おいしい水
数日後の夕方、知恵が適雑堂で接客をしている。手数料集金代行だ。
知恵は人見知りが激しいが、接客の仕事はきちんとこなしていた。
トルモクに自分が作った菓子を出して、手数料を集金するついでにちゃんと噂話も拾っている。
「知恵さん、この菓子はすごく美味しいですね。
中から出てくるトロッとした甘い周りの甘塩っぱいと相性がすごくいいですよ」
「お気に召していただけましたか」
「気にいるも何も、最高ですね。
今の季節にあってるし、手でつまんで食べられるのも、洗い物が少なくていいですよ。
金持ちが好みそうだ。売ったらいいのでは?」
「偶然できたので、作り方をまとめて再現できるようになったらそうしましょうかね」
知恵はそう言って笑いながら、心の中でつぶやいた。
(再現できるけど、飲食は利益率低いからなぁ)
「これを作るには、美味しい水が必要なんですけど、井戸によって水の味が違うものなんでしょうか?」
「そいつは飲み比べてみないとわかりませんよ」
「飲み比べしたことがあるんですか?」
「水源によって微妙に違うことがありますよ。菓子に食事に飲み物で水を分けることができたら嬉しいですねぇ……
我々民にはそれも難しいですよ。
私は近くの井戸を使ってますけど、そこがたまたまお気に入りの味の水なんですよ」
「そうなんですね。その井戸、どこにあるか教えていただけますか?
私もぜひ使ってみたいです」
「この前の通りの向こう側に、水場がいくつかあるでしょう。ここから三つ目の水場の井戸ですよ」
「そこの井戸、人は落ちていないですよね?」
「もちろんですよ、人が落ちた井戸は大体枯れているんですよ」
「なんでそんなに枯れ井戸に人が落ちるんですか?」
「見張りもいなければ、滅多に人が近づかないから、ふとした拍子で子供が落ちることがよくあったんですけどね」
「あらまぁ、かわいそうに」
「子供は柔らかいから、助かることも多いんだけど、大きくなるとダメだね」
「三年前に、何人か立て続けに落ちたんですけどね、年頃のお嬢さん方四人はみんなダメだったんですよ」
トルモクは次の瞬間、慌てて言い直した。
「あ、違う違う。最後の一人は助かったんだった。
当時、助かったから噂にするなという話になってたな、助かった人に失礼だろうってみんなが言ってた」
「そうですね、ご本人にとっては、お辛い記憶ですよね」
「でもその件があってから、枯れ井戸を埋めてるんですよ」
「その対策で、井戸の事故は減ったんですか?」
「この辺じゃ聞かなくなりましたね」
「美味しい水の井戸ですが……」
知恵は紙と筆を取り出し、目の前の通りに何があるのかをトルモクに書いてみせた。
そして井戸の場所に印をつけた。
「ここですか?」
「いえ、こっちです」
「こっちの井戸は?」
「こっちは枯れてます。確か埋められている井戸ですよ。
どこぞの家の使用人が落ちたっていう話です。
トルモクは、今度は知恵が書かなかった場所を指差しながら言った。
「この辺が尹家のお嬢様が落ちた場所で……」
知恵はそこにも印をつけていった。
「こっちが、朴家のお嬢様、でこっちの方に……」
トルモクは、ちょっと離れたところを指差していた。
「こっちが助かったお嬢様」
「枯れ井戸が、随分たくさんあるんですね」
「屋敷の工事だとか、道の整備だとか言って工事があると水の流れが変わるみたいなんですよ。
使っていた井戸が枯れると生活が不便になるんですよね。工事は井戸水の流れに注意してやってもらいたいもなんですけどね……
まぁ難しいですかね」
トルモクは、話し終えて満足したのか、そろそろ帰って明日の準備をしますと言って店を後にした。
(工事ねぇ……計画なしなんだろうなぁ)
知恵は立ち上がり、先ほど書いた紙を部屋の中に持っていった。
歩きながら別のことを考えていた。
(お菓子は見習いさんに相談してみよう)
外から店の様子を伺っていた二人がいた。左副承旨尹怜と、弘文館校理朴紘範であった。
「あれはなんだ?ちゃんと接客してるじゃないか」
朴紘範は静かに尹怜の方に顔を向けた。
「怖い顔をして睨みつけてみてるから逃げられるんじゃないですか?」
「俺の顔のどこが怖い?」
「そういう雰囲気も含めて怖いのでしょう」
朴紘範は涼しい顔をして言ったが、尹怜はその言葉を聞いてますます不機嫌そうな顔をした。
「さぁ、行きますよ。左副承旨殿」
「お前が先に入れ。俺が最初に行くと門前払いを食らう」
「わかりました」
朴紘範は穏やかな表情をして答えて、店の中に入っていった。
尹怜は、朴紘範に隠れるようにしてついていった。
「知恵さん、こんばんは」
「校理殿、いらっしゃいませ」
知恵はここで一瞬怯んだ。気配で尹怜を感じ取ったのだった。
「えーっと、大変申し訳ございませんが、少々お待ちいただけますでしょうか」
朴紘範は不思議そうな顔をする。
「後ろに左副承旨殿がいらっしゃいますね。準備をするのでそこを動かず、少々お待ちくださいませ」
「はい、わかりました」
尹怜は朴紘範の後ろで眉毛を釣り上げていた。
しばらくすると、知恵が戻ってきた。
「お部屋の準備ができました。どうぞお入りください。
校理殿、大変申し訳ないのですが、左副承旨殿と私の間に入るように移動をお願いいたします」
「はい。では失礼致します」
朴紘範は穏やかな笑みを浮かべていたが、尹怜はますます眉を吊り上げていた。
尹怜のその表情を見た朴紘範は、ため息をついて言った。
「そういう顔をするから、逃げられるのでは?」
二人はそんな会話をしながら、知恵が準備した部屋に入っていった。




