第28話 確認
ヨリは口を両手で押さえて尹怜を見つめていた。
尹怜もまた、呆然とヨリを見つめていた。
『どうしてわかるんですか?』
「いや、俺もその、わからない。
ただ、声が聞こえる」
やがて二人の表情は、困惑の表情に変わっていく。
『そんな……私の考えていることが左副承旨殿に全部わかるんですか?……困ります』
「俺も、その、それは困る……」
ヨリは尹怜を見ていられなくなり、後ろを向き部屋から出て行こうとした。
「あ、待て」
尹怜がそう言って、ヨリの手首を咄嗟に掴んだ。
ヨリは尹怜の方へ向き直り訴えかける。
(これ以上、考えを読み取られるのは困ります。
……離してください)
その姿勢のまま、二人は見つめあっていた。ただ時間だけが流れた。
(あれ?左副承旨殿?今はわからないのですか?)
尹怜が、ヨリから手を離した。そして沈黙を破るように答えた。
「今は何も考えていないのか?」
ヨリは首を傾げて尹怜を見つめ続けている。
尹怜は考え続けていた。何がきっかけでヨリの声が聞こえるようになったのかを思い起こしていた。
そしてある結論に達した。
尹怜は、今度は左手の指でヨリの指先に軽く触れてみた。
『今のは何ですか?』
「実験だ」
ヨリは困った表情をして、再び口に手を当てた。
しばらくそのまま動かなかったが、左手で、尹怜の右手の指先に触ってみた。
(今、私の声が聞こえてますか?)
尹怜は瞬き一つせずヨリを見ている。
(わかりますか?)
尹怜に反応がないことを確認した。その後お辞儀をして部屋を出ていった。
部屋を出た後、ヨリはため息をついた。
(ものを渡すときに、師匠と手が触れてもこんなことはなかったのに……)
同じ頃、適雑堂。
店は空いているが、今日も変わらず何も売っていない。
たまに人が来て様子を見ることがあるが、何も売るものはないとわかるとすぐに立ち去っていく。
知恵は店の奥にある生活空間で横になってぼんやりしていたところ、店内に客が入ってきた音がしたので、起き上がった。
白俊が、店内を通り抜け、中まで入ってきた。
その表情は、げっそりとして憔悴しきっていた。
部屋に入ると、荷物を置き、バタッと倒れ込んだ。
「あかん、疲れ果てた」
知恵は、湯呑みにキイトル水を入れて白俊の前に出した。
白俊は、うつ伏せで倒れながらも、器用に目の前にある湯呑みに入っているキイトル水を飲み干した。
「ああ、うまい」
白俊はそういうと、体を起こして座り首と肩を回した。
知恵がテングサと麦芽糖で作った菓子を白俊に出した。
「いただきまぁす」
白俊は夢中で食べた。
「どうしたの?」
「唐華楼、あそこあかんわ、ほんまに」
知恵は黙って白俊を見ていた。
「悪口と一門の噂ばっかりで、大変やった……」
白俊にしては珍しく、その声は本当に元気がなく、明らかに疲れているのがわかる声だった。
「そんなに苦痛な話ばかりなの?」
「ああ、そうや。
でも、数日耐えた甲斐があってな、王妃の事故がなんで記録になっていないかがわかったんや」
「何があったの?」
「実は……」
知恵は、今度は湯呑みにキイトルソウ茶を入れて白俊に出した。
日が暮れようとしていた頃、弘文館で朴紘範は自席で書類の束に囲まれていた。
古い資料を次から次へと読み漁っていた。
経典や歴史書の確認だけではなく、経国大典(朝鮮王朝の最高法典)と合わせて、承政院日記の確認も行なっていた。
承政院日記はちょうど三年前のものが手元にあった。
何度読んでも王妃の事故の記録はないに等しい。
辰の月の記録には、これしか書かれていない。
"事故で枯れ井戸に十六歳の女性が転落した"
一方、それ以外の事故の記録はもっとはっきりしている。
"高鈴尹氏の息女、尹志宇十六歳、井戸に転落し、遺体で見つかる。
殺人の疑いもあるという者もいたが、
状況と市中の様子から判断して、自殺とされた。"
"久慈朴氏の息女 朴美香十六歳、水の残る枯れ井戸に転落し、遺体で見つかる。
殺人の疑いも捨てきれないという者もいたが、
遺体の状況と市中の聞き取り調査により、事故または自殺と判断された。"
尹怜の家も、自分の家も、錦城金氏には並ぶほどの家門である。
一番勢力のある家門は錦城金氏だ。とはいっても、ここまで露骨に書き方が異なるのはおかしい。
奇跡的に生還したからか、それとも、生還した後の王妃が別人のように変わったから徹底的に隠したのか。
朴紘範は、記録がこのようになった理由が気になっていた。
神峰申氏の事件についても確認してみる。
"両班一家惨殺事件発生。被害のあった家は神峰申氏、私邸にて使用人も刀で切られて殺された。
息女申英理は、父親が隠し奇跡的に私邸から脱出した。
命からがら逃げる途中、井戸に転落。奇跡的に助かる。高鈴尹氏に保護された。
目撃者なし、犯人の手がかりなし。"
そして不思議なことに、行方不明の申英理の話は承政院日記のどこにも出てこない。
申家もまた立派な家門であることには変わりがない。
この家門の令嬢が行方不明になったというにも関わらず、どこにも記録がないのは何かの意図があるとしか考えられない。
朴紘範は、これにも何か理由があると感じていた。
朴紘範は、顔を上げてまっすぐ前を見た。
一人で考えるより当時の状況を知る人に聞いた方が良いと判断して、一旦家に戻ることにした。
私邸に着くと、領議政である父が部屋にいる姿を確認した。
朴紘範は着替えた後、父の元に向かった。
外の景色を眺めている父親に挨拶をすると、酒を飲むよう勧められた。
使用人がやってきて、朴紘範の分の食事と盃を置いていった。
朴紘範は、父から注がれた酒をゆっくりと飲み干した。
「最近調子はどうだ?」
「はい。おかげさまで息災無く過ごしております。
父上より命を受けました件、わずかではありますが、わかったことがございます」
「ほう」
朴紘範は周囲を見回した。
「誰もおらぬ。構わず続けよ」
「申家の事件は一旦別物と考えて、井戸の事件は三件ではなく四件ありました。
唐家の使用人が被害者でした」
「それから、王妃の件、記録が薄く事件か事故か判断が難しい状況です」
「そうか」
領議政は表情を変えずに立ち上がり、部屋から出ていった。
しばらくすると戻ってきて、二冊の書物を朴紘範に渡した。
「これは……」
「今ここで読め」
朴紘範は記録をしっかりと読んだ。
そしてとうとう、探していた王妃の事故の調査記録を見つけたのだった。




