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時禍戦記 ―時を喰らう者―  作者: 綾瀬 灯


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第五章・記憶の代償

 山の風は冷たく、葉のざわめきが遠くの鐘のように響いた。三人は円を描くように向かい合い、時間の裂け目はその中心で微かに震えていた。ユラの掌に握られた符は青白く光り、紙片の縁からは細い蒼い糸が伸びて、空気を縫うように揺れている。玄斎は朔の顔を見据えた。若者の瞳にはまだ決意の炎が宿っているが、その奥にある幼さが父の胸を締めつける。


「朔、聞け」


玄斎の声は静かだが、刀よりも重かった。


「お前が何者であれ、私はお前を斬る前に、父として話す義務がある」


朔は一瞬だけ目を細めた。刃先は地面を向けたまま、しかしその指先は震えている。


「父上の言葉など、もう遅いのではないですか」


彼の声は冷たいが、どこか脆い。


玄斎はゆっくりと歩み寄り、朔との間合いを詰めた。弥八は一歩下がり、二人の背後を固める。ユラは符を胸に押し当て、唇を噛んでいる。


「私は昔、夜に小さな手を握ったことがある」


玄斎は思い出すように言った。


「その手は温かく、震えていた。私はその手を守ると誓った。名も知らぬ子のために、私は剣を取ったのだ」


朔の瞳が揺れた。断片的な映像が彼の胸を掠める──白い布、泣き声、そして温かな掌。映像は刃のように鋭く、すぐに消えた。彼は無意識に刀を緩めた。


「その手は、私のものかもしれない」


朔は小さく呟いた。


「だが、私がここにいる理由は変わらぬ。未来が歪むのを、私は許せない」


玄斎はその言葉を受け止め、さらに一歩近づいた。


「お前が未来を守るというなら、まず知るがいい。未来は一つではない。お前が抱く“正しい未来”も、誰かの“壊れる未来”なのだ。選ぶのはお前自身だ。誰かに代わりに選ばせるな」


朔の表情が崩れた。刃先が震え、彼の肩から血が滴った。だがその血は、彼の存在を確かにする証でもあった。朔は目を閉じ、深く息を吐いた。


「父上の言葉、聞きました。だが私の決意は変わらぬ。未来を守るために、私はここにいる」


ユラは符を高く掲げた。紙片の文字が踊り、蒼い光が渦を巻く。彼女の額に汗が滲み、指先は白くなるほど力を込めている。術は既に始まっていた。時間の裂け目が波紋のように広がり、周囲の空気が粘りを帯びる。


「これが終われば、朔は消えるか、あるいは安定するかもしれない」


ユラの声は震えている。


「だが代償は必ずある。私が払うべき代償は、私の記憶の一部だ。術の核となる知識を私自身の記憶で封じる。そうすれば、時の喰らいは餌を失う」


玄斎はユラを見た。彼女の目には後悔と覚悟が混じっていた。弥八は短く唸り、刀の柄を握り直す。朔は静かに膝をつき、父の言葉を待つように俯いた。


ユラは符を胸に押し当て、低い詠唱を始めた。言葉は古く、耳慣れぬ音節が風に溶けていく。符の光が強まり、彼女の周囲に小さな破片が舞い上がった。破片は記憶の欠片のように煌めき、空中で砕け散るたびに、ユラの顔から一つの表情が消えていく。


最初に消えたのは、彼女の師の顔だった。ユラは一瞬だけ目を閉じ、何かを探すように手を伸ばしたが、指先は空を掴むだけだった。次に消えたのは、研究室で夜を明かした日の匂い、そして幼い頃に母が編んでくれた布の模様。ユラの目に浮かんでいた光は、少しずつ薄れていく。


「ユラ!」


弥八が叫んだ。だがユラは詠唱を止めない。彼女の声は次第に細くなり、符の光は白く、そして鋭くなった。時間の裂け目は収束し始め、蒼い糸が朔の周囲を巻き取るように絡みついた。


朔は顔を上げた。彼の瞳に、初めて恐れが宿る。記憶の欠片が彼の胸に触れ、震えを呼び起こす。朔は叫びたかったのかもしれない。だが言葉は出ず、ただ両手で刀を握りしめるだけだった。


「止めてくれ」


朔の声はかすれていた。


「誰か、止めてくれ」


玄斎はその声を聞き、胸の奥が引き裂かれるような痛みを覚えた。父としての本能が刃を振るわせろと叫ぶ。だが将としての理性が、もっと大きな秩序を守れと命じる。彼は刀を鞘に戻すことを選んだ。言葉だけで朔を止められるなら、言葉を尽くすべきだと。


「朔、聞け」


玄斎はゆっくりと歩み寄り、若者の肩に手を置いた。


「お前は一つの可能性だ。だが可能性は変わる。お前が選ぶなら、私はお前を許す。お前が消えることを望むなら、私はそれを止めはしない。だが最後に、父として一つだけ伝えたい」


朔は震える声で答えた。


「何を、伝えるのですか」


玄斎は目を閉じ、遠い夜の記憶を呼び起こした。小さな手の温もり、夜風に揺れる蚊帳、そして幼い笑い声。言葉は短く、しかし真実だった。


「生きよ。お前がどの未来を選ぼうとも、生きよと私は言う」


その言葉が朔の胸に届いたのか、彼の肩が小さく震えた。刃先が地面に落ち、朔は膝をついたまま、顔を上げた。目には涙が光っている。だがその涙は、決意を溶かすものではなかった。むしろ、何かを確かめるためのものだった。


ユラの詠唱は頂点に達し、符は最後の光を放った。蒼い糸が朔を包み込み、彼の輪郭が揺らぎ始める。朔の姿は薄くなり、影が消えるように剥がれていった。だが完全に消えることはなかった。代わりに、彼の輪郭の中に小さな静寂が生まれ、そこに新しい何かが芽吹く気配があった。


ユラは膝をつき、両手を胸に当てた。彼女の目は虚ろで、口元には微かな安堵が浮かんでいる。弥八が駆け寄り、彼女の肩を支えた。ユラは何かを探すように周囲を見回したが、探すべきものがもうそこにないことをすぐに悟った。


「術は……終わったのか」


弥八が呟く。声は震えている。ユラは小さく頷いた。だがその頷きには、何かが欠けていた。彼女の瞳の奥にあった光が、確かに薄れている。


朔はゆっくりと立ち上がった。彼の姿は以前よりも確かで、輪郭は安定している。だがその目は、どこか遠くを見ているようだった。記憶の断片が消え、代わりに新しい静けさが宿ったのだ。彼は玄斎を見つめ、そして小さく笑った──それは悲しみと救いが混じった笑みだった。


「父上」


朔は静かに言った。


「私は……分かりました。未来は、私だけのものではないと」


玄斎は胸の中で何かが緩むのを感じた。だが同時に、ユラの顔を見て胸が締めつけられた。彼女は何を失ったのか、まだ言葉にできない。弥八はユラの手を握り、固く目を閉じた。


山の風が再び吹き、時間の裂け目はゆっくりと閉じていった。蒼い光は消え、空はいつもの色を取り戻す。だが世界のどこかに、小さな欠落が残った。誰かの記憶の一片、あるいは未来の一筋の可能性──それはもう戻らない。


朔は刀を鞘に収め、玄斎に一礼した。


「父上、私は行きます。未来を、見届けます」


その声には迷いがない。彼は山道の方へ歩き出し、やがて木々の影に溶けていった。玄斎はその背を見送りながら、静かに呟いた。


「生きよ、と言ったのは本心だ。だが父として、いつでも戻って来いとも言おう」


ユラは何かを探すように口を開けたが、言葉は出なかった。弥八が代わりに言葉を紡ぐ。


「殿、ユラ様は……術の代償を払われました。だが、彼女はまだ我らの側におります」


弥八の声は震えていたが、そこには確かな敬意があった。


玄斎はユラの顔を見つめた。彼女の瞳は以前とは違う。記憶の一部を失ったその瞳には、しかし新しい決意が宿っているようにも見えた。彼は深く息を吐き、刀の柄を握り直した。


「ならば、我らは進むのみだ」


玄斎は静かに言った。


「時の禍は消えたわけではない。忠成はまだ動いている。朔が選んだ未来を、我らは見届けねばならぬ」


山の風が答えるように吹き、三人はそれぞれの足取りで歩き出した。記憶の代償は払われ、未来の影は少しだけ薄くなった。だが戦いは続く。時はまだ、喰われることをやめてはいなかった。

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