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時禍戦記 ―時を喰らう者―  作者: 綾瀬 灯


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第六章・時の谷の乱舞

山道は急に狭まり、木々が天を覆うように迫っていた。玄斎の馬は汗を飛ばし、弥八の息は荒い。ユラは鞍の前で符を握りしめ、目を閉じていた。風が変わる。空気が重く、時間の粘りを含んだように感じられた。


「ここが時守の谷か」


弥八が低く呟く。声は木々に吸われ、遠くで反響した。谷の入口には古びた鳥居があり、そこに刻まれた古い文字が青白く震えている。鳥居をくぐると、世界の輪郭が一瞬だけ滲んだ。


谷の奥からは遠い太鼓のような音が断続的に聞こえてくる。だがその音は規則を持たず、速くなったり遅くなったり、まるで誰かが鼓を叩く手の速度を変えているかのようだった。馬の蹄が地面を打つたび、周囲の影が微かにずれて見える。


「忠成の気配は?」


玄斎が訊く。ユラは符を握り直し、薄く頷いた。


「谷の奥、古い祠の辺りです。術の残響が強く、時間の歪みが集中しています」


その言葉に玄斎の背筋が伸びる。


谷の中腹、朽ちた石段を上ると、視界が開けた。そこには小さな集落があり、家々の軒先には時守の紋が掲げられている。だが人影はまばらで、残された者たちの顔には疲労と恐怖が刻まれていた。ある者は同じ動作を何度も繰り返し、飯を盛る手が何度も往復している。時間の歪みが日常の輪郭を引き裂いていた。


「止まれ」


玄斎が声を上げると、集落の端から黒装束の者たちが現れた。忠成の旗を掲げた兵たちだ。彼らの動きはぎこちなく、時折同じ動作を繰り返す者がいる。矢が飛び、刃が閃き、戦いが瞬時に始まった。


だが戦場は常識を拒んだ。矢は放たれた瞬間に二度、三度と軌道を変え、届いたはずの者の背をすり抜けていく。斬撃は当たった瞬間に消え、相手の鎧に跡だけを残す。弥八が一人の兵を斬ると、その兵は一瞬で若返り、再び立ち上がって斬りかかってきた。時間の流れが断片化し、戦闘は狂騒へと変わる。


「気をつけろ!」


玄斎は叫び、弥八と共に間合いを取る。ユラは符を掲げ詠唱を続ける。だが術の残響は強く、彼女の声は谷の波に飲まれそうになる。兵たちの中に忠成の姿は見えない。代わりに黒装束の中に混じる一人の術師が、青白い光を放っていた。ユラの顔が一瞬硬直する。


「ユラ、あれは?」


玄斎が指差す。ユラは唇を噛み、目を閉じた。


「あれは……時の残滓を操る者。忠成が手を組んだ術師の一人です。術の核を補強し、歪みを固定しようとしている」


その言葉に玄斎の胸が締めつけられた。


術師が手を振ると、空気が裂け、黒い蝶のような影が群れを成して飛び出した。影は兵士たちの周りを舞い、触れた者の記憶を削り取る。兵士は一瞬、何者かに操られたように動きを止め、次の瞬間には別人のように振る舞う。弥八が一人の兵を捕らえようとすると、その兵は自分の名すら忘れたように呆然と立ち尽くした。


「記憶を喰う……」


ユラの声が震える。


「術はただ未来を呼ぶだけではない。過去をも削り、存在の輪郭を薄める。忠成はそれを利用して、民の意志を消し去ろうとしているのだ」


玄斎は怒りを噛み殺し、前へと突き進んだ。刀が閃き、術師の影を斬る。だが影は刃をすり抜け、術師の笑みだけが残る。術師は指を鳴らし、時間の波が玄斎の周囲で逆巻いた。彼の視界に過去の戦場の断片が重なり、かつての敗北や失った者たちの顔が一瞬で押し寄せる。玄斎は刃を握る手が震えるのを感じた。


「殿!」


弥八が叫び、玄斎の背後から斬り込む。弥八の刃が術師の袂を切り裂き、術師は驚きの声を上げた。その隙に玄斎は踏み込み、術師の胸元に刀を突きつける。だが術師は笑い、掌を玄斎の胸に押し当てた。瞬間、玄斎の記憶の一部が冷たく剥がれ落ちる。幼い日の匂い、ある夜の約束、名前の一つが霞んだ。


玄斎は膝を折りそうになり、刃を押し返す。血の味が口に広がる。弥八が術師を押さえつけ、ユラが符を振るって術の波を抑えようとする。だが術師は冷ややかに笑い、囁いた。


「お前の血は美味い。時を裂く血は未来を変える力を持つ。忠成はそれを欲した。お前が自らの手で未来を断つならば、我らはそれを利用するだけだ」


その言葉が谷に落ちると、遠くの祠の方から大きな轟音が響いた。石が崩れ、古い扉が開く。そこから現れたのは、忠成その人だった。彼は甲冑を纏い、顔には狂気と確信が混じっている。背後には、朔の姿があった。若者は以前よりも落ち着いて見えたが、その瞳には決意の光が残る。


「玄斎」


忠成の声は冷たく、谷の空気を震わせた。


「お前の血が時を喰らう。ならばそれを断ち、我らの未来を築くのみだ」


朔は一歩前に出る。だがその足取りは静かで、刃は鞘に納まっている。玄斎の胸に父としての怒りと将としての理が同時に燃え上がる。弥八は刀を構え、ユラは符を高く掲げる。谷の風が一瞬止まり、全員の呼吸が揃った。


「ここで終わらせる」


玄斎の声は低く、確かだった。


「お前の望む未来が何であれ、民の意志を奪うことは許さん」


忠成は笑い、兵を前に押し出した。だがその瞬間、朔が静かに言った。


「忠成、やめよ」


その声は冷たく、しかしどこか哀しみに満ちていた。


「未来を奪う者は未来を失う。お前の望みは、誰かの消失の上に成り立つ」


忠成の顔が歪む。兵たちの動きが一瞬揺らぎ、時間の波が再び乱れる。朔はゆっくりと刀を抜き、だが振るわない。彼の存在が、谷の時間を引き戻すかのように働き始めた。黒い蝶の影が朔の周囲で震え、術師の力が削がれていく。


その隙に、弥八が一気に突進した。刃が閃き、忠成の旗を切り裂く。兵たちの士気が揺らぎ、術師は叫び声を上げる。ユラは最後の力を振り絞り、符を空へ放った。符は光となって舞い、谷の裂け目に突き刺さる。蒼い光が爆ぜ、時間の波が収束し始めた。


だが収束の代償は大きかった。術の反動が谷を揺らし、地面が裂け、古木が倒れる。兵の一人が叫び、ある者はその場で年を取ったかのように白髪になり、ある者は幼くなって泣き出した。時間の乱れは一瞬で人々の輪郭を変えた。


玄斎は朔を見た。若者の顔には疲労と決意が混じり、目には新たな光が宿っている。忠成は倒れ、術師は捕らえられ、兵たちは混乱の中で散り散りになった。谷の空気はまだ震えているが、確かに以前よりも静かだった。


「これで終わりではない」


ユラが息を切らしながら言う。


「術の痕は残る。時の歪みは完全には消えぬ。だが今は歪みを抑えた。次は忠成の根を断たねばならぬ」


玄斎は頷き、刀の柄を握り直した。弥八は倒れた兵の一人を助け起こし、朔は静かに鞘を戻した。谷の奥、祠の扉は半ば開いたまま、そこからはまだ微かな光が漏れている。誰もがその光を見つめ、次の一歩を思い描いた。


風が再び吹き、谷の葉がざわめく。時間はゆっくりと戻り始めたが、そこには新しい刻印が残った。戦いは終わらない。だが今、彼らは一歩を進めた。動きは止まらず、さらに速く、深く、次の局面へと駆け出していく。

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