第四章・術師の契約
朔の刃が山の空気を裂いた瞬間、玄斎の世界は一瞬だけ静止した。木々の葉が止まり、鳥の声が途切れ、遠くで流れていた時間の流れがぎくりと歪んだ。だがその静寂は長くは続かなかった。刃と刃がぶつかる音、木の幹に刺さる矢の音、弥八の荒い息遣いが再び現実を引き戻す。
玄斎は朔の動きを読み、受け流し、間合いを詰めた。朔の刀は若さゆえの勢いを帯び、だがその振るい方には計算された冷たさがあった。斬り合いの中で、玄斎は何度も朔の顔を見た。若者の瞳には、憎しみと喪失と、どこか深い孤独が混じっている。父としての情が、将としての理が、二つの刃の間で引き裂かれる。
「朔!」
玄斎の声は低く、しかし震えていた。
「なぜこんなことをする。誰が――」
朔は一瞬だけ表情を崩した。だがすぐにそれを押し殺し、冷ややかに笑った。
「父上は知らぬ方がいい。知られればすべてが壊れるのです」
その言葉は、山の静寂を再び切り裂いた。
弥八が横合いから矢を放ち、朔はそれをかわして一歩で玄斎の懐に入り込む。二人の刃が火花を散らす。朔の刀先が玄斎の鎧をかすめ、冷たい金属音が響いた。玄斎は反撃し、朔の肩口に浅い傷をつける。血が黒い鎧の隙間から滲み出し、朔の顔に赤い線を描いた。
「痛むか?」
玄斎の問いに、朔は小さく笑った。
「痛みは私を確かにする。父上の血が、私をここに呼んだのです」
その言葉に玄斎の中で新たな疑念が生まれた。朔の言葉は羅刹の告げた「血脈」の呪いと重なり、忠成の狙いが単なる権力欲ではないことを示していた。だが今は戦いが優先だ。玄斎は朔を押し返し、弥八に合図を送った。弥八は朔の背後へ回り込み、若者の動きを封じようとした。
その時、山道の奥からかすかな声が聞こえた。紙を擦るような、祈りのような声。玄斎は刃を止め、耳を澄ませる。声は次第に近づき、やがて一人の女が姿を現した。薄手の衣を纏い、手に小さな符を握るその女は、時守ユラだった。彼女の顔は青白く、目は血走っていた。術の痕が指先に残り、呼吸は浅い。
「ユラ……」
玄斎の声は驚きと安堵が混じる。だがユラは玄斎を見ても安堵の色を見せなかった。彼女の視線は朔に釘付けで、そこには深い後悔と決意が宿っていた。
「殿、止めてください」
ユラの声は震えていた。
「これ以上、誰も傷つけてはなりません。私が……私がやったのです」
朔はユラを見て短く笑った。
「術師ユラ。あなたが私を呼んだのですね。ありがとう、あなたの手で私はここに立てた」
その言葉には感謝と嘲りが混じっていた。ユラは膝をつき、符を両手で握りしめた。
「私は、ただ学びたかっただけです。時の術の真理を。未来の可能性を見てみたかった。忠成様は最初、ただの協力者でした。だが術は私の手を離れ、朔は私の想像を超えて成長してしまった」
彼女の声は次第に小さくなり、最後は嗚咽のように震えた。
玄斎はユラの言葉を聞き、朔を見た。若者の表情が一瞬揺らいだ。だがすぐにそれは消え、代わりに冷たい決意が戻る。
「父上は知らぬ方がいい」
朔は繰り返した。
「知られれば未来は壊れる。私が未来を守るために、父上を断つのです」
「未来を守る?」
玄斎の声は低く、怒りが滲んだ。
「お前は誰の未来を守るというのだ。お前の手で何人が死ぬというのだ」
朔の瞳に一瞬、幼さが覗いた。だがそれはすぐに消え、彼は刀を構え直した。
「父上が生きている未来は歪んでいる。私はその歪みを正すために来た」
その言葉はどこか儀式めいていた。ユラは顔を上げ、玄斎を見た。
「殿、私が術を解く方法を知っています。だが代償が必要です」
彼女の声は震えていたが、そこには揺るがぬ覚悟があった。
「術は“可能性”を喰らう。喰わせたものは何かを失う。私が代償を負えば、朔は消えるか、あるいは安定するかもしれない。だがその代償は、殿の記憶の一部かもしれません」
玄斎の胸に冷たい風が吹き抜けた。記憶を失うこと──それは将としての彼の存在を揺るがす可能性を意味した。だが朔がこのまま暴走すれば、より多くの命が失われる。父としての情と、将としての責務が再び彼を引き裂く。
「代償が何であれ、朔を止める」
玄斎は短く言った。
「だがユラ、お前は本当にそれを望むのか。術を解く代償を、己の記憶で払う覚悟があるのか」
ユラは目を閉じ、符を胸に押し当てた。彼女の指先から青い光が漏れ、符が震えた。
「私は……私の研究が、誰かを傷つけるとは思わなかった。だが今は、これ以上の禍を生むわけにはいかない。殿、どうか私を止めてください。私を罰してください。私が代償を負います」
弥八が低く唸った。朔は一歩後ずさり、刀先を地面に向けたまま、冷たい笑みを浮かべた。
「面白い。術師が自らを差し出すのか。だがそれで私が消えるなら、私は喜んで消える。未来のために」
その声には、どこか救いを求める響きがあった。
玄斎は深く息を吐いた。決断の重さが胸にのしかかる。父としての愛情は朔を救いたいと叫び、将としての責務は国と民を守るために朔を断つことを命じる。だがユラの申し出は、二つの道を同時に示していた──誰かが記憶を失い、誰かが消えることで、時の歪みを閉じる可能性。
「よかろう」
玄斎は静かに言った。
「お前が代償を負うというのなら、私はその代償を受け入れる。だが一つだけ条件がある。朔を無条件に斬ることはしない。朔が消える前に、私は朔と向き合い、真実を伝える。父として、最後の言葉を与えたい」
ユラは震える手で符を握りしめ、頷いた。
「はい、殿。どうか朔に言葉を」
朔はそのやり取りを黙って見つめていた。若者の瞳にかすかな戸惑いが走る。彼は刀を下ろし、ゆっくりと膝をついた。
「父上の言葉を聞きましょう。だが、私の決意は変わらぬ」
その声は静かで、どこか諦観を含んでいた。
山の風が再び吹き、葉がざわめく。時間の歪みはまだ完全には閉じていない。だが今、三人の間に一瞬の均衡が生まれた。玄斎は朔の顔を見つめ、父としての言葉を探した。ユラは符を胸に押し当て、術の終焉を準備する。弥八は刀を握りしめ、背後で警戒を続ける。
そして、誰も知らぬ代償の鐘が、静かに鳴り始めた。




