【三、外堀を埋める壁】
この高架橋の話は事実あった事なんですよ。
「なぜ、我々がこんなヤクザまがいの真似をしなければならないんですか!」
深夜の用地対策室。
パイプ椅子を激しく蹴立てて立ち上がったのは、高架敷設の設計を専門とする若手職員の木村だった。
彼の丸まった背中と、睡眠不足で赤く充満した目が、この数ヶ月の異常な現場の過酷さを物語っていた。
机の上には、鷹見が立案した『先行高架打設による用地確保計画』の図面が広げられている。
全線開通の残り一割。
どうしても立ち退きに応じない頑強な地主たち、あるいは裏で不穏な勢力と結託して法外な補償を要求する者たちに対し、鷹見が国鉄職員たちに命じたのは、あまりにも冷徹な「外堀埋め作戦」だった。
「土地の左右、買収が完了した両隣の境界線ギリギリに、先行して巨大なコンクリートの高架橋を打ち込め。
重機を入れ、二十四時間体制で杭を打て。
まだ判を捺していない地主の家を、左右からコンクリートの壁で挟み撃ちにするんだ」
鷹見の冷たい声が室内に響いた時、集まった一般職員たちの間に、激しい動揺と反発が走った。
「彼らはただ、先祖代々の土地を守りたいだけです!」
木村はデスクを拳で叩き、鷹見の大きな身体に向かって声を荒らした。
「毎日毎日、塩を撒かれ、バケツの水を浴びせられながら、それでも我々は国鉄の看板を背負って頭を下げてきました。
それなのに……こんな無言の暴力で相手の逃げ道を塞ぐなんて、まともな人間のすることじゃない! 我々は鉄道員であって、地上げ屋じゃないんだ!」
周りの実務職員たちからも、次々と賛同の怒号が上がる。
彼らは皆、真面目で、日本の復興のために正しく線路を敷きたいと願う一般の労働者たちだった。
その倫理観が、鷹見の課した「影の任務」の非情さに悲鳴を上げていた。
鷹見は、部下たちの罵声を無言で受け止めた。
胸の奥が引き裂かれるように痛む。
生真面目で仲間思いな鷹見にとって、真っ当な部下たちにこんな汚い役回りを押し付け、彼らの誇りを踏みにじることほど辛いことはなかった。
言い返したい言葉は山ほどあった。
島秀雄の引いた完璧な設計図の事、結城たちが目を輝かせて夢見ている未来に、高架が絶対に必要である事、だが、オリンピックという国家のデッドラインまで、もう五年を切っている。
鷹見はゆっくりと立ち上がった。
その圧倒的な体躯から放たれる凄まじい威圧感に、部屋の空気が一瞬で凍りつく。
「不満があるなら、すべて私を呪え」
鷹見の低く、押し殺した声が職員たちを射抜いた。
「木村。お前の言う通り、これは地上げだ。
国家を挙げた大がかりな強奪だ。
だが、一九六四年のオリンピックまでに新幹線を走らせるためには、一日の遅れも許されない。
一軒のゴロツキのために、日本中の期待を裏切るわけにはいかないんだ。
お前たちが手を汚したくないと言うなら、私が今からその地主の家に行って、お前たちの代わりに泥をすする」
鷹見の瞳に宿る、逃げ場のない狂気と、すべてを一人で背負うという壮絶な覚悟。
木村は言葉を失い、悔しさに唇を噛み締めながら拳を下ろした。
真面目な職員たちは、この大柄な先輩の背中にある「暗い十字架」の重さに圧倒され、ただ沈黙するしかなかった。
数日後。川崎の幹線道路沿い、立ち退きを拒む古い民家の左右で、突如として巨大な杭打ち機が爆音を上げ始めた。
轟音と振動が家を揺らし、窓の外には、見る見るうちに左右から巨大なコンクリートの壁(高架の基礎)が聳え立っていく。
まさに、鷹見が仕掛けた「無言の挟み撃ち」だった。
その地獄のような光景を、トレンチコートの襟を立てた香坂潤が、激しい怒りを孕んだ目で見つめていた。
カバンの中の手帳には、国鉄職員たちが流した涙と、追い詰められた地主の悲鳴が、びっしりと書き込まれている。
「ここまでやるか、鷹見……」
香坂は冷たい雨の中、国鉄という巨大な怪物の、その心臓部に潜む親友の影に向かって、ペンを強く握り直した。
真面目な人間たちが狂っていくこの鉄路の闇を、絶対に許してはならないと、その頑固な魂に火を灯しながら。




