【二、交差する視線】
ミュンヘンからの電撃的な報せが日本を揺るがしたのは、それから一ヶ月後のことだった。
一九六四年、東京オリンピック開催決定――。
昨日まで新幹線計画を「現代の四馬鹿」と罵倒していたマスコミは、オリンピックについて、「国家の威信」「世界へのお披露目」と熱狂の渦に飛び込み、新幹線計画についても批判は以前あるものの、多少の理解は得られたようであった。
岸内閣と佐藤栄作が仕掛けた「後出しの絶対的な盾」は、機能したのだ。
しかし、そのお祭り騒ぎの熱気の裏で、東海道の鉄路の底には、どす黒い泥沼が広がりつつあった。 初夏の生温かい夜風が吹く新橋のガード下。
オリンピック決定に沸くサラリーマンたちの喧騒から少し外れた、うらぶれた居酒屋の奥で、鷹見遼は一人、冷えたビールを喉に流し込んでいた。
保線区や事務職、駅員にいたるまで、数千人の若い国鉄職員を動員した過酷な人海戦術――。
毎日、地主の家に日参し、塩を撒かれ、怒鳴られながらも「生活の一部」となって判を捺させる泥泥の用地買収戦は、すでに始まっている。
仲間思いの鷹見にとって、部下たちが精神をすり減らしていく報告書に目を通す毎日は、胸をかきむしられるような苦痛だった。
「……相変わらず、身体に似合わん不器用な飲み方をするな、鷹見」
不意に、上から降ってきた聞き覚えのある低音に、鷹見の大きな身体が硬直した。
顔を上げると、そこに立っていたのは、大和新聞の社会部記者・香坂潤だった。
大学時代、そして戦後の焼け跡の孤児院で、共に「この国を立て直そう」と誓い合った、鷹見の生涯でただ一人の親友。
長身で無駄のない均整の取れた体躯。
よれかけたトレンチコートを無造作に羽織り、少し癖のある髪をかき上げる仕草には、大人の男特有の陰と色気が滲んでいた。
鋭い輪郭に宿るその瞳は、一度真実を見据えたら地獄の底まで追いかけるジャーナリストの狂気と、誰もが頼りにする絶対的な頑固さを湛えている。
「香坂……お前、なぜここが」
「お前の行きそうな店くらい、何年離れていても 分かるさ」
香坂は鷹見の対面に腰を下ろすと、長い脚を折り曲げて座り、勝手にコップにビールを注いで一気に飲み干した。
そして、ふっと前髪の隙間から、射抜くような強い目で鷹見を見据えた。
「オリンピックが決まって、国鉄の庁舎は大騒ぎ らしいな。
誰も彼もが『夢の弾丸列車だ』と浮かれている」
「……ああ。五年半後の開会式までに、東京と大阪を三時間で結ぶ。
島さんの引いた設計図は完璧だ。
日本の技術力を世界に見せる、最高の舞台になる」
鷹見はいつもの生真面目な官僚の仮面を被り、不器用なほどに背筋を伸ばして答えた。
「嘘をつくな、鷹見」
香坂の低い声が、ガード下を走る電車の轟音にかき消されそうになりながらも、鷹見の鼓膜を確かに貫いた。
「お前は昔から、大きな大義を前にした時ほど、そうやって不器用なほどに頑なになる。
……俺はな、社会部の記者だ。
この一ヶ月、川崎から横浜にかけての、新幹線の新駅予定地周辺の奇妙な『土地の動き』を追っている」
鷹見はグラスを握る手に、思わず力がこもった。
鷹見の分厚い掌が強張る。
「まだルートの詳細も公表されていないはずの荒れ地や農地を、ある特定の男――陣内という男の一派が、異常な勢いで強引に買い叩いている。
まるで、そこに駅ができることを数ヶ月前から知っていたかのようにな。
地主の中には、夜中に脅され、泣く泣く判を捺した老夫婦もいる。
……鷹見、国鉄の内部から、裏の深淵に情報が漏れている…違うか?」
香坂の真っ直ぐな、正義に燃える瞳が鷹見を射抜く。
その瞳の奥には、親友である香坂を信じて支える妻であり、鷹見にとっても想い人であった冴子の、凛とした面影が重なって見えた。
香坂の言っていることは、彼が信じるジャーナリズムの道において完全に『正しい』のだ。
鷹見は喉の奥に込み上げてくる酸っぱい胃液を、無理やり飲み下した。
(香坂、その陣内を檻から放ち、情報を与えて狂暴な猟犬に育てたのは、お前が今、目の前で見据えているこの俺なんだよ……)
激しい罪悪感が、鷹見の大きな胸の内で嵐のように吹き荒れる。
しかし、一度信じた道を突き進むと決めた男の瞳から、光は消えなかった。
ここで香坂に真実を話せば、新幹線計画は『戦後最大の汚職』として完全に圧殺される。
十河のオヤジの覚悟も、島さんの執念も、結城たちが徹夜で回している計算尺の汗も、すべてがドブに沈む。
鷹見はゆっくりとグラスを置き、香坂の目を正面から見返した。
その眼光は、かつての親友に向けたものではなく、冷徹な国家の影のそれだった。
「香坂。お前は優秀な記者だ。
だが、これ以上その件を嗅ぎ回るな」
「何だと?」
「一九六四年のオリンピックまでに新幹線を走らせる。
これはもう、国鉄だけの問題じゃない。
岸内閣が、そしてこの国が世界と交わした、絶対に退けない『巨大な約束』なんだ」
鷹見は声を一段低くし、かつての親友に、最後で最悪の警告を告げた。
「お前の言っている正義は正しい。
だが、その正義は、いま走り出そうとしているこの国の未来を、五十年にわたって遅らせることになる。
ペンを置け、香坂。これ以上進めば……俺もお前を守りきれなくなる」
香坂は不敵に、しかし酷く哀しそうに唇の端を歪めて笑った。
長身をさらに鋭く尖らせるようにして立ち上がり、冷え切った目で鷹見を見下ろす。
その佇まいは、どんな巨大な国家権力が立ち塞がろうとも絶対に一歩も退かない、頼れる頑固者そのものだった。
「……変わっちまったな、鷹見」
香坂はトレンチコートのポケットに手を突っ込み、夜の新橋の喧騒へと鋭い背中を向けた。
「嘘と暴力の上に敷かれた鉄路に、どんな未来があるっていうんだ。
俺はジャーナリストだ。
お前たちが何を隠していようが、俺はすべてを白日の下に晒してみせる。
それが、俺の信じる道だ」
香坂はそれだけ言い残すと、雑踏の中へと消えていった。
一人残された鷹見は、コップに残ったぬるいビールを見つめながら、激しい目眩に襲われていた。
かつて同じ光を目指した親友が、自分たちの「大嘘」を暴く最大の敵として立ち塞がった。
「すまん、香坂……、冴子……」
ぽつりと呟いた鷹見の声は、頭上を通り過ぎる電車の爆音に、虚しくかき消されていった。




