【一、巨頭たちの算盤】
二章開幕。
時系列等は概ね史実に基づいています。
マスコミの論調や、当時の首相である岸さんと後の首相で、時の大蔵大臣の佐藤さんが兄弟なのは史実です。
昭和三十四年、四月。
東海道新幹線計画の予算案は、国会という巨大な審査の目を、文字通り「騙し討ち」の形で通過した。
千九百七十二億――。
大蔵省が、そして反対派の政治家たちが、その数字の「美しさ」に満足して可決の木槌を鳴らした瞬間、鷹見は国会の傍聴席で、背中にべっとりと冷や汗が張り付くのを感じていた。
しかし、表の廊下に出た瞬間、鷹見の耳に飛び込んできたのは歓迎の声ではなかった。
詰めかけた新聞記者たちの群れから、容赦のない罵声と懐疑の視線が浴びせられる。
「総裁! 自動車の普及と旅客飛行機の時代に、今さら大金を投じて線路を敷くなど時代遅れの極みではないですか!」
「ピラミッド、万里の長城、戦艦大和。世界が嘲笑した『三大無駄事業』に新幹線を加え、国民はこれを『現代の四馬鹿』と呼んでいます! 国家予算の一割近くをドブに捨てる狂気を、これ以上続けるつもりですか!」
マスコミの論調は、歓迎どころか凄まじい大バッシングだった。
これからは空と陸の時代だ、鉄道など戦後の遺物に過ぎない、国鉄のせいで国が破産する――連日のように新聞紙面には「愚策」の二文字が躍り、世論を煽り立てていた。
岸内閣がこの予算を成立させた名目は、あくまで「限界を迎えていた東海道本線の輸送力増強」という地味な国内インフラに過ぎず、世間から見れば格好の叩きどころだったのだ。
だが、その冷酷な狂騒から隔絶された総裁室の空気は、冬の夜のように冷え切っていた。
「四馬鹿だと吠えさせておけばいい。
……鷹見、もうすぐ風向きが完全に変わるぞ」
十河信二は、煙草の煙の向こうから、不器用な笑みを浮かべて机の上の新聞を睨みつけた。
七十歳を超えた老人の顔には、勝利の歓喜ではなく、すべてを読み切った別のぎらぎらとした光が宿っていた。
「オヤジ、それはどういう……」
「来月、五月の終わりにミュンヘンでIOC総会がある。岸の兄貴(岸信介首相)も佐藤(栄作)も、一九六四年のオリンピック誘致の確約を裏で完全に掴んでいる。
……来月になれば、この新幹線はただの『国鉄の無駄遣い』から、世界を日本へ迎える『国家の最高大義名分』に化けるんだ」
鷹見は息を呑んだ。
内閣は、新幹線をオリンピックという巨大な引力と連動させることを、最初から織り込み済みで、この嘘の予算を通したのだ。
今はどれだけ「愚策」とバッシングされようとも、一ヶ月後にオリンピック開催が『後出し』で決定した瞬間、マスコミも国会も、国家の威信という盾の前に沈黙せざるを得なくなる。
「しかし、そうなれば……」
鷹見は大きな身体を屈めるようにして、デスクに一枚の、本当の試算書を広げた。
「開催が決まれば、一九六四年十月の開会式が、絶対に動かせない絶対的なデッドラインになります。
工期はわずか五年半。
一日の遅れも許されません。
しかも、島さんの要求する時速二百キロの安全基準、全線の立体交差、全線標準軌の新設を進めれば、あと二年でこの1972億は底をつきます。
最終的に、総額で四千億以上のカネがどうしても必要になります。
内閣が用意した最高の盾を手に入れる代わりに、俺たちは文字通り、誰も引き返せない死線を走ることになります」
「分かっている」
十河はデスクに両肘を突き、組んだ指の奥から鷹見を見据えた。
「足りん分は、佐藤の入れ知恵のとおり、後から世界銀行を人質に取ってでも政府の喉元から吐き出させる。
だがそのためには、まず『列車を走らせる土台』が絶対に要る。
五年半という狂気の強行軍だ。一寸の狂いもなく五万人の地主から土地を毟り取らねば、島に線路を敷かせることもできん。
鷹見、お前の計画を聞こう」
鷹見は、不器用だが冷徹な謀略家の目でオヤジを見返した。
「表と裏、二つの手を使います。
表の舞台では、人海戦術を敢行します。
用地係だけでなく、保線区、事務職、果ては駅員にいたるまで、国鉄の若い職員を数千人規模で臨時の用地交渉に投入します。
地主の家族構成から悩み事まで全てを日参して頭に叩き込ませ、相手が折れるまで生活の一部にならせます」
「職員の反発は、俺が抑える。……裏の手は?」
鷹見の脳裏に、あの川崎の雨の雑居ビルで出会った、氷の細工のように繊細で鋭利な男――陣内厳の青白い顔が浮かんだ。
「すでに裏社会の『牙』を一本、檻から放ちました。
非常に利に聡く、冷酷な男です。
新駅の事前情報をエサに、私の猟犬として飼い慣らしました。
オリンピック利権の匂いを嗅ぎつければ、奴はさらに獰猛になる。
職員たちの真っ当な交渉ではどうしても動かない頑固な地主や、裏のゴロツキが立ち塞がった時、その牙にすべてを噛み砕かせます。
彼なはその見返りとして、裏の支配者としての巨大な希望を与えて、さらに太らせます」
十河は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
真面目で、誰よりも仲間思いなはずの目の前の青年が、国鉄の職員たちを泥沼の人海戦術に放り込み、同時にヤクザを飼って裏の処理を命じようとしている。
オリンピックという大義名分がロックされた瞬間から、鷹見自身が内面を引き裂かれながらも引き返せない歯車になったことを、十河は痛いほど分かっていた。
「……鷹見。すまん。すべてはお前に汚れ役を押し付けた、俺の罪だ」
「滅相もありません」
鷹見は顔を上げ、静かに微笑んだ。
その瞳には、一歩も退かない強固な意思が宿っていた。
「島さんの完璧な設計図を守るため、そして、結城たち若い技術者が何の憂いもなく世界一の列車を作れるためなら、私の手など、どれだけ泥にまみれても構いません。
信じた道を、私は最後まで突き進みます。
五年半後、この鉄路の上に必ず、世界を圧倒する光を走らせてみせます」
「よし」
十河は立ち上がり、鷹見の大きな肩をガシと掴んだ。
「数日中に、全職員への動員令を発令する。
東海道の五万人を相手に、戦争を始めるぞ。
…… 鷹見、地獄へ付き合わせるな」
「御意に、オヤジ」
鷹見は深く一礼し、総裁室を後にした。
廊下に出ると、そこには偶然通りかかった結城樺恋がいた。
細身の身体に大きめの作業着をまとい、銀縁眼鏡の奥の瞳を輝かせながら、
「鷹見先輩! 予算成立おめでとうございます!
新聞なんて気にすることありません、私たちが世 界を見返してやりましょう!」
と無邪気に駆け寄ってくる。
そのまばゆい「光」から目を背けるように、鷹見はコートの襟を立て、泥沼の戦場へと歩き出した。




