【五、猟犬を飼う檻】
昭和三十四年、三月。
川崎。
叩きつけるような春の泥雨が、京浜工業地帯の煤けた空を容赦なく塗り潰していた。
国会の意思決定を数日後に控えたその日、国鉄総裁室主事、鷹見遼は、泥水にまみれた黒革の靴で、場末の雑居ビルの急な階段を上っていた。
幅広の肩を丸めるようにして、湿ったコンクリートの壁に身体を擦りつける。
塵ひとつなくプレスされた仕立ての悪い官僚スーツは、すでに雨と油の匂いを吸って重く垂れ下がっていた。
一歩上るたびに、胸のポケットに入れた一通の図面が、まるで重い足枷のように鷹見の肌に冷たく触れた。
『東海道新幹線新駅予定地・極秘計画図』
まだ国の頂点に君臨する者たちでさえ、その正確な位置を知らない、国家の最機密だった。
(……やるんだな、俺は)
鷹見は階段の踊り場で一度立ち止まり、大きく息を吐き出した。
細身だが鍛えられた体躯から、不器用なほどの生真面目さがにじみ出る。
本来なら、ルールを遵守し、仲間たちと真っ当な汗を流すことだけが彼の生き甲斐だった。
しかし、あの嵐の夜、十河のオヤジから
「嘘の数字で国を騙す。
お前はその影になれ」
と命じられた瞬間から、鷹見の歩む線路は修羅の道へと切り替わっていた。
「ここが、あの男の檻か」
三階の突き当たり。
ペンキのはげ落ちた鉄扉の前に立ち、鷹見は太い眉を一度だけぴくりと動かした。
まだ表の舞台で未来が約束されたわけではない。 だが、光が当たってから動いたのでは、数万人規模の『土台』を確保する工期には到底間に合わない。
希望が通り抜けたその瞬間に、電光石火で裏の地盤を固めるための、フライングの仕込みだった。
ドアをノックする。
返事はない。
ただ、室内から漂う安煙草の紫煙と、鋭い殺気のような気配が、隙間風に乗って漏れてきていた。
鷹見は躊躇うことなく、ノブを回して扉を押し開けた。
「表の人間が、何の用だ。ここはあんたらの歩く道じゃねえぞ」
部屋に入った瞬間、地を這うような低音が響きた。
応接ソファの奥、仕立ての悪いシャツの胸元をはだけさせた男が、剥き出しの刃を机に突き立てながら、鷹見を蛇のような目で見上げていた。
陣内厳。
氷の細工のように繊細で、しかし同時にゾッとするほど鋭利な刃物を思わせる佇まいの男だった。
不健康なまでに青白い肌、重力を感じさせないしなやかで細身の身体。
少し長めの前髪の隙間から覗く、わずかに色素の薄い三白眼は、一瞥しただけで相手の頸動脈を切り裂くような冷たい光を放っている。
彼の一派がこの地域を不当に支配し、以前からの国鉄の計画に対して理不尽な抵抗を続けていることは、事前に掴んでいた。
部屋の四方に控えていた若い男たちが、一斉に懐の手を固め、鷹見を取り囲む。
普通のエリートなら、顔を青くして逃げ帰るか、権力を盾に喚き散らす場面だ。
だが、鷹見は微動だにしなかった。
彼の明晰な脳細胞は、陣内という男のすべてを恐ろしき速度で品定めしていた。
(目が死んでいない。
ただのゴロツキの目じゃない。
こいつには……飢えがある。
この暗闇から、細く鋭い指先で、世界の頂点へ這い上がってやろうという狂気的な飢えが)
「陣内さん」
鷹見は、周囲の殺気には目もくれず、陣内の正面のパイプ椅子を引き、その大きな身体をドカリと沈めた。
「単刀直入に言う。
この土地を、我々の提示する正規の手続きで明け渡してほしい」
「はっ! 正気かよ」
陣内が刃の柄を白い指先で叩き、薄い唇を歪めて笑った。
「俺たちがどれだけの血を流してここを囲い込んだと思ってんだ。
あんたらのケチな『綺麗事』なんかで動くわけねえだろ。
力ずくで追い出すか? 面白い、やってみろよ。
明日からあんたらの神聖な現場を、底なしの泥沼に変えてやるぜ」
男たちがじりじりと距離を詰める。
張り詰めた沈黙。
しかし、鷹見はふっと、不器用な、しかし底の知れない笑みを浮かべた。
「陣内さん。
お前ほどの男が、こんな場末の小さな縄張りで満足しているのか?」
「……何だと?」
陣内の細い目がさらに細められ、鋭利なガラスの破片のようになった。刃を弄ぶ、繊細な手首の動きがピタリと止まる。
鷹見は無言のまま、胸のポケットから湿った図面を取り出し、陣内の前に広げた。
荒れ地の中に、鮮やかな赤い丸が打たれている。
「数日のうちに、表の舞台でこの計画が承認される。
佐藤大臣の裏の助力もあって、これは確実に通る」
鷹見の声は低く、しかし部屋の空気を完全に支配していた。
「そして、ここに五年後、世界最速の列車が止まる新駅ができる。
駅ができると分かれば、この周囲の価値は、何百倍、いや何千倍もの『巨大な希望』に化ける。……
陣内さん。この拠点は静かに譲れ。
その代わり、この図面の周辺を、お前のやり方で、今のうちにすべて呑み込め」
陣内は息を呑んだ。突き立てられた刃を忘れ、吸い込まれるように図面を見つめる。
前髪の隙間から覗く瞳が、妖しく明滅した。
「おい……表のエリートが、国が動く前の『未来』を裏に横流しするっていうのか。
何の真似だ」
「横流しではない。共犯だ」
鷹見はゆっくりと立ち上がり、陣内を上から見下ろした。
鍛えられた圧倒的な肉体の説得力が、陣内の繊細な輪郭を圧する。
「表の人間は真面目だ。正しく頭を下げることはできても、お前たちのような『闇の処理』はできない。
今後、計画が動き出し、表ではどうにもならない障害が現れた時、お前の牙でそいつらを排除しろ」 鷹見は一歩近づき、陣内の冷たい目を真っ直ぐに見据えた。
「お前を、この国の裏の支配者にしてやる。
誰も手の届かない大怪物に育ててやる。
その代わり――私の猟犬になれ」
陣内の青白い全身に、鳥肌が立っていた。
目の前にいる男は、清廉な官僚の皮をかぶっているが、その中身は自分たちよりも遥かに巨大な『深淵』だ。
大義という大いなる希望のために、悪魔とさえ平気で手を握る狂人。
「……へっ」
陣内は刃を引き抜き、パチンと手元に収めた。
その細い顎を上げ、本気の狂喜の笑みを浮かべる。
「気に入ったぜ、鷹見さん。
最高の飼い主だ。
あんた、いや兄貴がその綺麗な手を汚したくないってなら、すべての闇は、この陣内が引き受けてやるよ」
「話は終わりだな」
鷹見はいつもの生真面目な顔に戻り、小さく一礼すると、静かに部屋の扉を開けて出て行った。
外は、まだ烈しい雨が降り続いていた。
泥水を踏みしめながら、鷹見は自分の、白く綺麗な両手を見つめた。
(これでいい。島さんが、結城が、何の憂いもなく世界一の列車を作れるなら、俺の手はどうなってもいい……)
愛する仲間たちの光を守るために、自ら「最悪の怪物」の鎖を解き放ってしまった男は、暗い雨の中にその大きな背中を溶け込ませていった。
数日後、表の舞台にて東海道新幹線の予算が成立。
悪魔の鉄路が、ついに動き出す。(第1章・完)
とりあえずGeminiさん的には第一章は終わりのようです。
なかなか、らしい感じになるので感心してます。




