【三、常識という名の壁】
大蔵大臣室を後にした鷹見は、その足で国鉄本庁舎の最地下へと向かった。
地上では新幹線を「無謀な夢」と叩く冷たい雨が降り続いているが、この地下だけは、未知の速度に挑む男たちの熱気で満ちていた。
「技術開発特区」と書かれた錆びかけた鉄扉を開けると、重油と火花の匂いが鷹見の鼻腔を鋭く突いた。壁一面に貼られた巨大な車体の図面。
その中心で、白髪を少し乱しながら、狂ったように計算尺を動かしている男がいた。
国鉄技師長、島秀雄。
かつて戦前に「弾丸列車計画」を主導しながらも戦争で挫折した天才の系譜であり、十河総裁が「お前の親父の弔い合戦をしよう」と三顧の礼で国鉄へ連れ戻した、日本鉄道界の最高頭脳だった。
「島さん」
鷹見が声をかけるが、島は振り返りもしない。
数式をノートに殴り書きしながら、ブツブツと呟いている。
「……足りない。時速二百キロの世界じゃ、従来の鋳鉄ブレーキでは摩擦熱で車輪が溶ける。
レジン製のディスクブレーキが必要だ。
それだけじゃない。
架線から電気を取るパンタグラフの風切り音、対向列車とすれ違う際の衝撃波……すべてが未知の領域だ。
旧海軍で零戦の空力を研究していた航空技術者たちを、あと何人連れてくればいい……」
島は、物理の法則と「安全」という絶対的な数値を何より重んじる、極めて理性的で常識的な科学者だった。
だからこそ、その緻密な頭脳が弾き出す「世界の誰も成し得ていない高速鉄道」のハードルは、高く、そしてあまりにも正確だった。
「島さん、予算に目処が立ちました」
鷹見の声に、島の計算尺を動かす手がピタリと止まった。
島はゆっくりと振り返り、眼鏡を直した。
その目は何日も徹夜を続けたように血走っていたが、そこにあるのは冷徹なまでの現実主義だった。「……目処が立った、だと?」
島はデスクの上の予算書を指先でトントンと叩いた。
その表情には、明らかな困惑と科学者としての不信感が滲んでいた。
「鷹見くん、十河のオヤジさんから回ってきたこの『1972億』という数字を、私は一ミリも信用していないよ。
どう計算したって足りん。
東京―大阪間を完全に立体交差にし、踏切をすべて排除する。
全線に専用の標準軌を新設し、自動列車制御装置(ATC)を組み込む……。
これらをまともに見積もれば、倍の四千億は下らない。
どんぶり勘定で切り発進すれば、日本の鉄道の信頼が文字通り崩壊する。
科学者として、こんな大嘘の数字に判は捺せん。本当に大丈夫なのかい?」
島は数字の誤魔化しを何より嫌う。
一歩間違えれば、乗客の命を預かる鉄路が砂上の楼閣になることを分かっているからだ。
その真っ直ぐな、心配に満ちた目が、鷹見の大きな身体を射抜いた。
鷹見は一瞬だけ、視線を落とした。
大丈夫なわけがない。
だから、俺が大蔵大臣を騙し、これから汚泥に身を費やし、その泥水をすべて自分が飲み干すのだ。 しかし、鷹見の顔には、微塵の動揺も浮かばなかった。
彼は島のデスクに歩み寄り、その分厚い掌を、島が命を削って引いた新幹線の設計図の上にそっと置いた。
「島さん。あなたは世界最高の技術者です。オヤジさんが求めた『東京―大阪間を三時間』という奇跡を形にできるのは、あなたしかいない。
……だから、数字のことは、どうかすべて忘れてください」
「忘れる? しかし、金がなければセメント一枚、ボルト一本買えんのだぞ」
「金は、私が作ります。
「国会が何と言おうと、大蔵省がどれだけ吠えようと、私が四千億、必ず引っ張ってきます。
島さんはただ、この設計図を本物の鉄にして、安全に走らせることだけを考えてください。
それが、あなたを迎えたオヤジさんへの、そしてこの国の未来への、私たちの義務です」
島の喉が、小さく鳴った。目の前の若い官僚の目には、十河のオヤジと同じ、狂気にも似た「覚悟」が宿っていた。
島は知っている、十河はもちろん、鷹見は、不器用だが絶対に仲間を裏切らない男である事を。
この男たちがどれほどの危険な橋を渡ろうとしているのか、常識人である島には想像もつかなかった。
しかし、そこまで言われて、牙を抜かれた技術者でいられるほど、島も安っぽい男ではなかった。
「……わかった。
君がそこまで言うなら、私は一ミリの妥協もない、世界一安全な怪物を完成させてみせる」
島は再び眼鏡をかけ、愛おしそうに図面に向き直った。
「その代わり、本当に金が足りなくなったら、私は容赦なく君の部屋に怒鳴り込むからな、鷹見くん」
「ええ。いつでもお待ちしています、島さん」
鷹見は静かに部屋を出た。
廊下の暗がりに足を踏み切った瞬間、彼の背中がどっと重くなる。
島秀雄という「天才」が、その良心を痛めずに世界一の列車を作れるように。
そのために、自分はこれから、深い闇へと足を伸ばすのだ。
「鷹見先輩!」
不意に、背後から鈴を転がすような明るい声が響いた。
振り返ると、作業着の袖をまくり上げた新人キャリア官僚、結城樺恋が、図面の束を抱えて駆け寄ってくるところだった。東大卒の彼女の瞳は、何も知らない「純白の光」そのものだった。




