【二、無垢なる大蔵大臣】
大蔵大臣室の重いオーク材の扉の前で、鷹見遼は一度、深く息を吸い込んだ。
手元の黒い革鞄の中には、昨夜、十河のオヤジから託されたあの「1972億」の偽り予算書が入っている。
生真面目で不器用な自分には不似合いな、国家を揺るがす大嘘の爆弾だ。鷹見はスーツの襟を正し、拳を軽く握り直した。
屈強な体躯を持つ彼の背中には、すでに国鉄の、いや、この国の未来の半分がのしかかっている。
「失礼します」
声をかけ、部屋に足を踏み入れた。
部屋の奥、巨大な窓を背にして、大蔵大臣・佐藤栄作が静かに革椅子に腰掛けていた。
煙草の白い煙が、午後の斜光の中にゆっくりと溶けていく。
佐藤の顔には、新聞やニュースでよく見る、あの穏やかで隙のない笑みが浮かんでいた。
「おや、国鉄の鷹見くんだね。十河のオヤジさんは元気にしているかい」
佐藤は手元の書類から顔を上げ、眼鏡の奥の目を細めた。その声は驚くほど優しく、しかし鷹見の肺の奥まで見透かすような冷徹さを秘めていた。
「はっ。総裁からの伝言と、東海道新幹線計画の最終予算書をお持ちいたしました」
鷹見は机に進み出ると、鞄から書類を取り出し、両手で恭しく差し出した。
佐藤はそれを手にとり、パラパラと頁をめくった。
静寂が室内に満ちる。
カチ、カチと、壁の柱時計の音だけが、鷹見の心臓の鼓動を急かすように響いていた。
「……なるほど。1972億、か」
佐藤は予算書の最後の頁を閉じ、机の上に滑らせた。
その薄い唇が、静かに弧を描く。
「実に見事な数字だ。大蔵省の若い主計官どもなら、この数字の並びの美しさに騙されるかもしれないね」
鷹見の背筋に、冷たいものが走った。
「ですがね、鷹見くん」
佐藤は椅子に深く背をもたれ、煙草を灰皿に押し付けた。
「国鉄業務局出身の僕の目は、そう簡単に騙せないよ。
島くんがやろうとしている新線敷設、全線の立体交差、それに時速二百キロを超える新型車両の開発……。
常識的に考えて、三千億……いや、四千億は下るまい。
不足した分の二千億は、一体どこから捻出するつもりかね?」
完璧な見破りだった。
普通の新任官僚なら、この一言で膝を震わせ、平伏して許しを請うだろう。
しかし、鷹見は退かなかった。ここで怯めば、オヤジの覚悟も、島さんの設計も、すべてが闇に葬られる。
仲間を思い、信じた道を突き進む男の目が、真っ直ぐに佐藤を射抜いた。
「……佐藤先生。国鉄は、この予算内で必ず、世界一の鉄路を完成させます。
そのために、私はあらゆる手段を尽くす覚悟です」
「あらゆる手段、ね」
佐藤はその言葉を口の中で転がすように呟くと、ククッと低く笑った。
そして、先ほどまでの冷徹な眼光をふっと消し、何も知らない表の政治家としての穏やかな顔に戻った。
「僕はね、何も聞いていないよ、鷹見くん」
佐藤は机の上の予算書を、ぽんと叩いた。
「十河のオヤジさんが国会を相手にどんな大博打を仕掛けようとしているのか。
君がその裏で、どんなにドロ臭い仕事に手を染めようとしているのか。
大蔵大臣たる僕が、そんな内幕を知るはずがないだろう」
佐藤は眼鏡を外し、丁寧に拭きながら言葉を続けた。
「何も知らない。……しかしね。
もし、その『あらゆる手段』の途中で、君たちの力だけではどうしても動かせない、巨大な岩が立ち塞がったなら……その時は…」
佐藤は身を乗り出し、声を一段低くした。
その声には、底知れない国家の意思が宿っていた。
この男なら国会という表の舞台で、大蔵省の猟犬どもを黙らせることも、……あるいは、足元をすくおうとする裏社会の『有象無象』を、国家の力で静かにさせることも、指示を出すまでもなく『勝手にそうなるよう』に空気を動かせるのだと思わせる圧倒的な存在感。
「ああ、余談だけど、金の事なら、世界銀行を使うのもいいかもしれないね
海外から一億ドル引っ張ってくるんだ。
国の金じゃないのなら、国会も、この先の総理大臣も何も言えないだろう。
国際機関に国が何か言う事はないと思うしね…」
鷹見は息を呑んだ。
この男は、自分たちの陰謀をあらかじめ全て把握し、それを利用して戦後日本を塗り替え、自らがその頂点に立つためのチェス盤を、すでに完成させている。
自分たちは、その盤上の駒に過ぎない。
「……先生。感謝いたします」
鷹見は深く頭を下げた。
「お礼を言われる筋合いはないよ。何度も言うが、僕は何も知らないんだからね」
佐藤は再び、いつもの穏やかな微笑みを顔に浮かべ、別の書類に目を落とした。
「さあ、仕事に戻りたまえ、鷹見くん。世界一の列車を、楽しみにしているよ」
大蔵大臣室を出た鷹見は、廊下で壁に背を預け、大きく息を吐き出した。
あまりの政治の怪物ぶりに、全身の毛穴から冷や汗が吹き出ていた。
しかし、その圧倒的な力が、これから新幹線を誕生させるための、最強の「防弾チョッキ」になることもまた、確信していた。
(オヤジ、佐藤栄作は動いた。……次は、俺の番だ)鷹見は黒い鞄を強く握り締め、国鉄本庁舎の廊下を力強く歩き出した。




