【一、国家を騙す男たち】
最初だけ。
総裁室の重い扉の向こうで、鷹見遼は直立不動のまま、1枚の書類を見つめていた。
仕立ての悪い、しかし塵ひとつなくプレスされた官僚スーツに包まれた鷹見の大きな身体が、わずかに強張る。
普段は生真面目そのものと言われる彼の太い眉が、限界まで中央に寄せられていた。
「……総裁。これは、何かの間違いでしょうか」 鷹見の声は、低く、困惑に震えていた。
デスクの奥、背を向けて窓外の雨を見下ろしていた男――国鉄総裁、十河信二がゆっくりと振り返った。七十歳を超えてなお、鋭い眼光を失わない
「線路の怪物」
が、喉の奥で低く笑った。
「間違いではない。
鷹見、それが国会に提出する『東海道新幹線計画』の正式な予算書だ」
「しかし!」
鷹見は一歩前に踏み出した。
ルールを何より重んじる彼にとって、その数字は到底受け入れられるものではなかった。
「実際に必要な建設費は、どう試算しても三千億を軽く超えます。
土地の買収や、車両設計の島さんが要求する安全基準を満たすための開発費……それらを鑑みれば、四千億近く膨らむ可能性すらある。
それなのに、この書類にある数字は……千九百七十二億。半分です。
こんな大嘘、大蔵省も見抜きますし、国会で追及されれば国鉄は一発で吹き飛びます!」
鷹見はデスクに歩み寄り、大きな掌でバチンと音を立てて予算書を叩いた。
「吹き飛ぶなら、吹き飛んでから考えればいい」
「総裁……!」
「いいか、鷹見。
三千億などという正直な数字を出してみろ。
自動車と飛行機の時代だと言い張る国会議員どもが、真っ先にこの計画を圧殺する。
そうなれば、この国は二度と世界に追いつけん。 焼け跡から立ち上がった日本が、もう一度世界に頭を上げるには、世界最速の鉄路がどうしても必要なんだ」
十河の目が、ぎらぎらとした狂気を帯びて鷹見を射抜いた。
「騙してる?それは計画で、どこまで行っても予定だ予定。
通ればこっちのものだ。走り出した列車は、誰も止められん。
足りん分は、後から政府の喉元に刃を突きつけてでも吐き出させる。」
部屋を支配する重苦しい沈黙。
雨音が、まるでカウントダウンのように窓を叩く。鷹見は拳を固く握りしめた。
彼は真面目な男だ。
だからこそ、この計画の裏で
「誰かが泥をかぶらなければならない」
ことを、その明晰な頭脳で瞬時に理解してしまった。
「総裁。
この嘘を通すためには、綺麗事だけでは済みません」
鷹見は体躯を震わせ、決然と言った。
「反対派の政治家を黙らせ、無理な地上げを敢行し、世間の目を欺く。
国鉄の表の人間には、とても任せられない『汚れ仕事』が山ほど生まれます」
「そうだ」
十河は鷹見の目を真っ直ぐに見返した。
その瞳には、日本の未来のためなら、自分の命も名誉もすべてドブに捨てるという凄まじい狂気が宿っていた。
「だから、お前を選んだ。
鷹見、お前のその愚直なまでの誠実さを、俺にくれ。
表の技術者どもには、世界一綺麗な線路を引かせる。
お前はその影になれ。
泥をすする交渉は、すべてお前が仕切れ。
……悪名は、最後にこの俺がまとめてあの世へ持っていく」
鷹見は、十河の言葉の裏にある「本気の覚悟と狂気」を受け止めた。
鷹見も高速鉄道の必要性については十分理解はしているつもりではあったが、この老人は、高速鉄道が日本の復興、日本の未来に必要である事を確信している。
そして、それを造るために、すべてを捨てるつもりなのだ。
ならば、オヤジの想いと日本の未来の為に、オヤジの狂気と覚悟を受け止めよう、自分が手を汚すことを恐れてどうすのか…
鷹見の瞳から、迷いが消えた。
鷹見は、手にしていた偽りの予算書を胸ポケットに深く仕舞い込むと、十河に向かって深く、深く頭を下げた。
「……承知いたしました、オヤジ。これより私は、国鉄の影となります」
顔を上げた時、鷹見遼の生真面目な顔立ちには、もう官僚の優しさはなかった。
底の知れない、修羅の道を歩む男の眼光が、暗がりの総裁室で鋭く光っていた。
オヤジを大悪党にしてなるものか。
汚れ仕事はすべて、俺が引き受ける。――そうして、俺は悪魔の鉄路を敷き始めたのだ。
まずは、大蔵大臣・佐藤栄作という、政界の怪物の部屋のドアを叩くことから。




