【五、栄光の影】
昭和三十九年十月一日。
前夜までの重い雲は嘘のように去り、秋の高く澄み渡る青空が、新時代の幕開けを告げる東京駅を照らし出していた。
新設された東海道新幹線、十五番線ホーム。
そこは、興奮を抑えきれない大勢の報道陣と、日の丸の小旗を掲げた群衆の熱気で溢れかえっていた。
ホームの端には、ピカピカに磨き上げられた「ひかり一号」の白い車体が朝日を浴びて神々しく佇んでいる。
東京―大阪間をわずか四時間で結ぶ、戦後復興の金字塔、世界一の超特急。
「間もなく、記念すべき出発式を執り行います。参列者の皆様は壇上へ――」
構内アナウンスが響くなか、紅白の幕が張られた特設ステージへと、仕立ての良いスーツを着た男たちが次々と登壇していく。
佐藤栄作をはじめ、十河を弾劾して国鉄を乗っ取った新主流派の政治家たち。
そして何より、昨日まで「世界の四バカ」「国鉄破滅のギャンブル」と新幹線を徹底的に叩き続けていた大手新聞社やタブロイド紙の社主、首脳陣たちが、カメラのフラッシュを浴びながら、新総裁の手を握り締めて
「我が国の誇りです!」
「走る芸術だ!」
と絶賛の言葉を叫び合っていた。
万雷の拍手と、数千発のフラッシュの嵐。
前日までの冷酷な批判は跡形もなく消え去り、メディアは本当にたったの一晩で手のひらを返して「新時代のひかり」を讃える狂乱の渦に呑み込まれていたのだ。
その晴れやかな壇上の片隅に、東大卒の女性技術官僚・結城樺恋の姿があった。
泥まみれの熱海トンネルを乗り越え、ついに夢を形にした若きエリート。
彼女は、割れんばかりの歓声のなかで、ずっと周囲を、何かを探すように見回していた。
(いない……)
ステージのどこを見渡しても、名誉ある最前列の席に、あの人の姿がなかった。
この世界一安全な怪物の図面を引き、現場の命を守るために一緒に泥水を浴びてくれた天才科学者――島秀雄技師長の姿が。
そして、国家への大嘘を仕掛け、世界銀行の融資をもぎ取り、すべての悪名を背負って国鉄を去った「オヤジ」こと、十河信二の姿が、招待席のどこにも見当たらなかった。
それどころか、島や十河に「招待状」すら送られていないという血の通わない現実を、樺恋は先ほど耳にしていた。
華やかな栄光の壇上に、本当の功労者たちの席は、ただの一席も用意されていなかったのだ。
「……そういう組織なんだよ、結城」
背後からかけられた、底冷えのする低い声に、樺恋は肩を震わせて振り返った。
ホームの端の、群衆のフラッシュが届かない暗がりに、大柄な男が独り、静かに佇んでいた。
国鉄総裁室主事・鷹見遼だった。
その生真面目な武骨な顔には、感情というものが完璧に削ぎ落とされ、ただ冷徹な国家の影だけが張り付いたままだった。
「鷹見さん……、どうしてですか」
樺恋は、押し殺した声で鷹見に詰め寄った。 眼鏡の奥の瞳が、怒りと困惑で激しく揺れる。
「島技師長も、十河総裁も、この列車の、この線路のためにすべてを捧げたはずです!
辞めたとはいえ、なぜ、あの人たちがこんな扱いをされなきゃいけないんですか!
あなたは総裁室主事として、ずっと近くで見ていたはずでしょう!?
何故、何も言わなかったんですか!」
純白の光の側からぶつけられる、正義の弾劾。
だが、鷹見の瞳には、一滴の動揺も兆さなかった。
彼は壇上で手柄を誇る政治家たちと、手のひらを返したマスコミの醜いお祭り騒ぎを見つめたまま、淡々と答えた。
「見てごらん、結城。あれが、昨日までこの列車を呪い殺そうとしていた世間の正体だ。
オヤジ達の役割は、怪物を生み出すことだった。 そして影のように動く俺たちの役割は、その怪物を国の軛ではめて、何が何でも走らせるこだ。
……そのために、二千億の予算の嘘をつき、国会を騙し、世界銀行をハメ込んだ。
あの老人たちがすべての悪名を背負って去ることで、ようやくこの四千億の鉄路は完成したんだ。
大嘘を吐いてでも、誰かの人生を枕木にしてでも、こうして完成させて走らせてしまえば、奴らは勝手に拝み始める。
国鉄の事務方は、最初からその絵図を描いてた。それだけのことだ」
「嘘……、騙した……?」
樺恋は息を呑んだ。その時、彼女の知的な脳裏に、これまでの不可解な記憶の断片が、恐るべき速度で一本の線へと繋がっていった。
なぜ、現場の安全対策費が削られたのか。
なぜ、あの世界銀行の査察で、走らせる気もない『貨物新幹線』の嘘のプレゼンを自分にさせ、世界の目を欺いたのか。
樺恋の顔から、血の気が完全に引いていった。
「鷹見さん……、あなた、最初から分かっていて……。
私たちが、島技師長が純粋に夢を追っているその裏で、あなた一人で、そのすべてを……」
気づいてしまった。
自分たち技術畑が、一点の曇りもない「技術の結晶」を世界に見せられたのは、この鷹見という男が、裏で誰よりも深く、誰よりも陰惨な泥水をすすり、すべての罪と汚れをたった一人で引き受けていたからなのだと。
自分たちの光は、彼が作った底なしの闇の舞台の上で、ただ躍らされていたに過ぎなかったのだと。
「結城、……君はこれからも、世界一綺麗な図面を引き続けろ。
それが、この鉄路に消えていった者たちへの、唯一の報いだ」
鷹見はそれだけ告げると、樺恋に背を向け、さらに深い暗がりへと歩き出した。
「待ってください、鷹見さん!」
樺恋の叫びは、出発を告げるホームのけたたましいベルの音にかき消された。
駅の貴賓口。
最高級の外車の後部座席から、仕立てのいい三つ揃えのスーツをまとった男が、ゆっくりと窓を開けてホームを見つめていた。
陣内厳だった。
陣内は、ひかり一号の白い鼻先を色素の薄い瞳で見つめ、不気味に微笑んだ。
「見事な鉄路だ、こいつが走るたびに、俺の買い叩いた土地の価値は跳ね上がる。
……この国はこれから、田中角栄の『列島改造』の狂乱へ突っ込んでいく。
山陽新幹線、東北新幹線……、日本中を買い占めてやるぜ。
これからもよろしく頼むぜ、国鉄の番人さんよ」極道から現代の「不動産王(怪物)」へと完璧に化けて生き残った男の、終わらない強欲の宣言。
そして、不敵な笑みを浮かべて鷹見の隣に立った。
「いいじやねえか、鷹見さん。
世間様がありもしねえ正義や美談に狂ってる間に、俺たちの作ったオモチャが、世界で一番高い場所へ登りつめたんだ。
……他人の人生を、枕木にしてな」
新幹線という夢のレールが伸びるたびに、この狼は日本全国を侵食し、食い散らかしていくだろう。
鷹見は何も言えず、ただその陣内の影を、冷徹に受け入れた。
プルルルルル――、ガチャン。
午前六時。
出発の汽笛が、東京駅の高架下に高らかに鳴り響いた。
車輪がゆっくりと転がり始め、万雷の歓声と日の丸の波に押されながら、「ひかり一号」は時速二百キロの世界へと、滑るように滑り出していく。
戦後日本の、新しい時代の夜明け。
万雷の拍手の壇上で、初めて国家の巨大な闇を知り、震えながら涙を流す結城樺恋。
新橋の高級ビルへ車を走らせ、早くも次の『列島改造』の利権へと牙を剥く不動産王・陣内厳。
そして、親友を失い、想い人に拒絶され、オヤジと慕った上司たちを犠牲にして築き上げた「大嘘の鉄路」を、駅の暗がりから独りで見送る鷹見遼。
友の人生を、労働者の血を、老いた巨頭たちの去り際を、すべてこの世界一綺麗な列車の枕木にした。
感情の消えた鷹見は、ただ静かに、戦後日本の未来を乗せて遠ざかっていく光の軌跡を、底なしの深淵の眼光で見つめ続けるのだった。
(第四章・完)




