【四、孤独の勝利】
昭和三十八年五月。
十河信二が国会答弁の後、自ら裏で放った
「八百七十四億円の予算不足」
という爆弾リークは、永田町に未曾有の政治的激震をもたらしていた。
国会は国鉄の欺瞞に対する怒号で大炎上し、池田勇人内閣の支持率は急落。
新幹線計画を「世界の四バカ」と叩き続けていた河野一郎派の政治家たちは、
「大蔵省の管理能力の欠如だ」
として、大蔵大臣・佐藤栄作の政治責任を激しく追及する構えを見せていた。
その嵐の直撃を受けるはずの当事者、佐藤栄作は、大蔵省の大臣室で完璧なまでの被害者を演じきっていた。
「十河総裁の独断専行には、我が大蔵省としても深い遺憾の意を表せざるを得ない。
国家の最高機関たる国会を欺き、予算を過少に申告するなど、断じて許されるべきではない」
記者会見のマイクを前に、佐藤はいつもの厳格で冷徹な表情のまま、一ミリの揺らぎもなく国鉄を切り捨てる声明を読み上げた。
新聞各紙は一斉に報じた――
『佐藤大蔵大臣、国鉄の欺瞞を激しく叱責』。
すべては、佐藤と十河が数年前に交わした「裏の絵図」の通りだった。
佐藤は、予算の歪みも、地上げの血も、何もかもを知り尽くしていた。
しかし、表舞台では「騙された被害者」の側へ完璧に回り込むことで、自らの政治生命に一滴の泥もはねつけさせなかったのだ。
その記者会見の直後。
大臣室の重い扉の奥で、影のように控える国鉄総裁室主事・鷹見遼の前に、佐藤はゆっくりと腰を下ろした。
トレードマークのパイプに火をつけ、紫煙の向こうから冷徹な目を鷹見に向ける。
「見事な去り際だったよ、十河君は」
佐藤の声には、先ほどの記者会見での怒りは微塵もなく、ただ冷徹な満足感だけが漂っていた。
「彼が自らすべての泥を被って辞任してくれたおかげで、河野たち主流派はこれ以上、この大蔵省を突つけなくなった。
それどころか、鷹見君……」
佐藤は手元にある、新幹線の全線敷設状況を示した進捗表をトントンと指先で叩いた。
「新幹線の線路は、すでに全線の九割以上が完成している。
あとはレールを繋ぎ、架線を張るだけだ。
池田総理も河野も激怒してはいるが、では『今からこの工事を中止する』と言えるか? 否だ。
ここで計画を白紙にすれば、これまで投入した二千九百億の血税がすべて文字通りドブに捨てることになる。
おまけに世界銀行への国際公約違反という大不名誉までついてくる」
佐藤はふっと不敵な笑みを漏らし、パイプの煙を天井へ逃がした。
「ここまで『後戻りできないところ』まで怪物を成長させてしまえば、君達の勝ちだ。
彼らはどんなに腹を立てようとも、これまでに投じた巨費を無駄にしないため、精度高き国際社会への面目のため、国庫から残りの八百七十四億円の追加予算を即座に放出して、新幹線を完成させる以外の選択肢は残されていないのだよ。
……すべては十河君の計算通りだ。
後は、新幹線が動きだし、オリンピックを成功させるだけだ。
それから、私の出番ということだね。」
鷹見は、背筋が凍りつくような戦慄を覚えていた。
「もう後戻りできない」という崖っぷちまで国会をハメ込み、政府の退路を完璧に断つ。
十河の失脚すらも、新幹線を確実に完成させ、佐藤が次の総理大臣へ登りつめるための完璧な布石に過ぎなかったのだ。
「鷹見君。十河総裁と島技師長の後任には、私の息がかかった扱いやすい事務官僚を据える。
東海道新幹線開通式や、東京オリンピックのテープカットの壇上に、あの頑固な老人たちの席は無い」
佐藤は静かにパイプを置き、鷹見を正面から見据えた。
「彼らの作った『大嘘の鉄路』の最後を見届けるのが、生き残った君の仕事だ。
……陣内が、次の『列島改造』の利権を狙って不気味に動き出している。
あの狂犬の首輪を握り続けられるのは、もう、君しかいないのだからな」
「……御意」
鷹見は深く頭を下げた。
オヤジたちの退場。
そして、その裏で完璧な勝利を収め、次期総理への階段を駆け上がっていく佐藤栄作という本物の怪物の姿。
自分が守り抜いた新幹線という光の鉄路は、こうした「後戻りできない段階まで欺き通した大嘘」と、悪魔たちの完璧な計算の上にしか存在し得ないものだったのだ。
鷹見には新幹線以外は何も残っていない。
鷹見の心は、二度と夜が明けることのない奈落の深淵へと、完全に沈み込んでいくのだった。




